
正しい考え方だけでは学べないことがある
前回投稿した以下の記事の続きです。今回はエッセイではなく意見文になっております。
「間違った人」の考えにも理由はある
考え方をコントロールできなくなってから、私は一つの疑問を持つようになりました。
それは、
「間違ったことをした人の考えにも、一理ある部分があるのではないか」
ということです。
もちろん、犯罪や差別、暴力を肯定したいわけではありません。
ただ、その人たちがなぜそう考えたのかを理解しようとすることには意味があると思うのです。
学校では教わらない「なぜ」
学校では、
* ポイ捨てをしてはいけない
* 戦争をしてはいけない
* 差別をしてはいけない
と教わります。
私の世代は特にSDGsについて学ぶ機会がたくさんありました。
そして、その理由も教わります。
「自然環境を汚すから」
「多くの人が苦しむから」
どれも大切なことです。
でも私は、
「なぜポイ捨てをする人がいるのか」
「なぜ戦争を始める人がいるのか」
を考える機会は意外と少ないように感じています。
理由を知ると見えてくるもの
例えば、
「ゴミ箱がなくて持ち帰るのが面倒だった」
「この領土を失うと国の経済や安全保障が危うくなると考えた」
など、その行動の背景には何らかの理由があります。
もちろん、それで行動が正当化されるわけではありません。
それでも理由を掘り下げていくと、「自分にも少し理解できる部分」が見えてくることがあります。
そして、その瞬間に初めて、
「人はどうやって間違った方向へ進んでしまうのか」
が見えてくるのです。
間違いを肯定するためではなく、防ぐために
私は、良くない考え方をする人の立場に立って考えることは、その考え方を肯定することではなく、むしろ防ぐための学びだと思っています。
なぜなら、「どうしてそうなったのか」を理解できれば、自分自身が同じ方向へ進みそうになったときに気づけるからです。
間違った考え方を知ることは、間違った考え方になることではありません。
むしろ、自分の考え方を見直し、より良い方向へ進むための大切な学びだと思います。
私が教育に加えてほしいこと
だから私は、これからの教育には「正しいことを教える」だけでなく、
「なぜ人は間違ったことをしてしまうのかを考える」
という視点も、もっと積極的に取り入れてほしいと思っています。
正解を覚えるだけではなく、その反対側にある考え方にも目を向ける。
そうすることで初めて、人は自分の考え方を深く理解できるのではないでしょうか。
そしてそれは、誰かを裁くためではなく、自分自身を見失わないための力になるのだと思います。