
養女未満
【あらすじ】
ホテルのフロント係として働く五十歳の如月美咲は、七十歳の会社社長・長瀬一郎に見込まれ、秘書として迎えられる。
家計の不安から解放された美咲は、一郎を人生の恩人として慕うようになる。一郎もまた美咲を特別な存在として接し、「いずれ養女にする」と冗談交じりに語りながら、美咲の家族とも親しく交流を重ねていく。
しかし六年後、一郎は病に倒れ、大阪へ戻る。身寄りがないと思っていた彼のもとには親族が現れ、美咲との距離も少しずつ変わっていく。
家族でもない。恋人でもない。それでも人生を変えるほど大切な人はいる。
名前のない絆で結ばれた二人を描く、笑いと切なさが交差するヒューマンドラマ。
第1話 待たなくていい
スマートフォンの着信音が鳴った時、私は夕食の片付けをしていた。
流し台に置いたままの茶碗を洗おうとして、ふと手を止める。
ここ数日、何度も携帯電話を見てしまう自分がいた。
通知が鳴るたびに、胸が少しだけ高鳴る。
「社長?」
そう思って画面を見る。
娘からのLINE。
宅配便のお知らせ。
広告メール。
そのたびに小さくため息をついた。
大阪の病院へ入院してから、一郎とは連絡が途絶えていた。
最初は検査や治療で忙しいのだろうと思っていた。
病院なのだから、電話どころではない日もある。
そう自分に言い聞かせていた。
けれど、一週間が過ぎても連絡はない。
十日が過ぎてもない。
二週間目に入る頃には、不安よりも諦めに近い気持ちになっていた。
もしかしたら、もう私には連絡したくないのかもしれない。
親族が現れて、私は必要なくなったのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎるたび、自分で自分を叱った。
病人相手に何を考えているのだろう、と。
それでも人間は勝手なもので、心配と同じくらい、自分がどう思われているのかも気になってしまう。
その時だった。
画面に表示された名前を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
一郎。
私は思わず息をのんだ。
二週間ぶりだった。
震える指で通話ボタンを押した。
「もしもし。」
しばらく沈黙が続いた。
電話が切れてしまったのかと思った頃、
「ああ、美咲か。」
受話器の向こうから聞こえてきた声は、驚くほど弱々しかった。
その声を聞いた瞬間、六年前のある日が頭に浮かんだ。
ホテルのフロントで働いていた頃のことだ。
あの日も、いつもと変わらない朝だった。
チェックアウトのお客様が続き、私は慌ただしくフロントに立っていた。
そこへ、一人の年配の男性が近づいてきた。
背筋が伸び、よく通る声で私に話しかけた。
「君。」
それが一郎との最初の出会いだった。
初対面なのに距離が近い。
豪快で、人懐っこくて、どこか不思議な人。
まさかその人が、私の人生を大きく変えることになるなんて、その時は思いもしなかった。
六年前の張りのある声とは、まるで別人だった。
「一郎さん!」
思わず大きな声が出た。
生きていた。
その事実だけで胸がいっぱいになった。
「心配したんですよ。全然連絡がないから。」
「悪かったな。」
一郎は小さく笑った。
その笑い声さえ、どこか力がなかった。
「体調、どうなんですか?」
私が尋ねると、電話の向こうでしばらく沈黙が続いた。
そしてぽつりと呟いた。
「歩けんようになってな。」
私は言葉を失った。
「今はリハビリや。やっと杖で歩けるくらいや。」
窓の外では六月の風が揺れていた。
なのに私は、急に冬の中へ放り込まれたような気分になった。
あれほど元気だった人が。
全国を飛び回り、次々と新しい事業の話を持ち込んでくる人が。
「大丈夫なんですか?」
やっとそれだけを口にした。
「まあ、死にはせんやろ。」
一郎は笑った。
だが、その笑い声には以前のような勢いはなかった。
私は流し台の前に立ったまま、言葉を探した。
会いに行きます。
大阪まで行きます。
そう言いたかった。
けれど先に口を開いたのは一郎だった。
「あんたには会いたくないんや。」
私は耳を疑った。
「え?」
「いや、違うな。」
電話の向こうで、小さなため息が聞こえた。
「会いたくないんやない。」
しばらく沈黙が続いた。
「あんたに今の姿を見られたくないんや。」
私は何も言えなかった。
「歩けんしな。情けない姿や。」
「そんなこと――」
「あるんや。」
一郎は珍しく私の言葉を遮った。
「今まで偉そうなことばっかり言うてきたからな。」
少し笑う声が聞こえた。
その笑い声は、どこか寂しかった。
「嫌われたくないんや。」
胸の奥がざわついた。
私は一郎を嫌ったことなど一度もない。
腹が立ったことなら何度もある。
娘に車を買うと言いながら買わなかった時も。
実家の屋根を直すと言いながらそのままだった時も。
岐阜に支店を作ると言いながら話が立ち消えになった時も。
何度も振り回された。
それでも嫌いにはなれなかった。
約束をする時だけは、本気で人を喜ばせようとしていたことを知っていたからだ。
「嫌いになりませんよ。」
私はそう言った。
電話の向こうで、一郎が小さく笑った。
「優しいな。」
そして少し間を置いて言った。
「待たなくていいよ。」
私は息を止めた。
「え?」
「もう待たんでええ。」
穏やかな声だった。
だからこそ、その言葉は残酷だった。
何を待つなと言うのだろう。
退院を。
岐阜へ戻る日を。
それとも――。
私は聞けなかった。
聞けば本当に終わってしまう気がしたからだ。
受話器を握る手に力が入る。
けれど言葉は出てこない。
電話の向こうでは、車椅子の音がした。
遠くで看護師らしき人の声も聞こえる。
その音だけで、一郎の世界が私の知らない場所へ移ってしまったことが分かった。
家族でもない。
親族でもない。
養女になるはずだった私は、病室の場所さえ知らされていなかった。
その時の私は、まだ知らなかった。
この一本の電話から始まる六年前の記憶を、何度もたどることになることを。
そして、この名前のないご縁に、最後にたどり着く名前があることを。
――すべては、六年前、ホテルのフロントでの「こんにちは」から始まった。
第2話 ホテルの社長さん
長瀬一郎と出会ったのは、六年前の春だった。
私は岐阜市内のビジネスホテルでフロント係として働いていた。
五十歳になったばかりだった。
仕事に大きな不満があったわけではない。
同じ制服を着て、同じ笑顔を作り、同じような説明を繰り返す毎日。
慣れた仕事だったし、人と話すことは嫌いではなかった。
けれど将来に希望もなかった。
夫との会話は必要最低限。
娘は社会人になり、息子も大人になっていた。
子育てが終われば自由になれると思っていたのに、現実はそう甘くない。
住宅ローン。
車の維持費。
光熱費。
年老いていく両親。
給料日になると通帳を眺め、ため息をつく。
そんな生活だった。
ある日の午後、支配人がフロントへやって来た。
「今日は大阪の会社社長がお見えになりますので、よろしくお願いします」
私は軽く頭を下げた。
ホテルには様々な客が来る。
社長もいれば芸能人もいる。
だから特別な感情はなかった。
しばらくして自動ドアが開いた。
最初に目に飛び込んできたのは派手なネクタイだった。
赤や青の模様が入り混じった賑やかな柄。
続いて日に焼けた顔。
七十を過ぎているはずなのに背筋が伸びていて、声も大きい。
「予約しとる長瀬や」
私は予約表を確認した。
長瀬一郎。
七十一歳。
会社経営。
その時は、それだけだった。
まさか六年後、自分の人生にこれほど深く関わる人になるとは思いもしなかった。
チェックインの手続きをしながら、一郎はよく喋った。
天気の話。
景気の話。
大阪の話。
そして、なぜか私の話。
「君、感じがええな」
突然そう言われて私は苦笑した。
「接客業ですから」
そう答えると、一郎は大きな声で笑った。
「それだけやない」
私は適当に聞き流した。
客に褒められることは珍しくない。
それで何かが始まるわけでもない。
そのはずだった。
翌月、一郎はまたホテルへやって来た。
さらに翌月も。
気がつけば来館のたびに私を探すようになっていた。
「美咲さん、おるか?」
フロントへ来るなりそう尋ねる。
同僚たちは面白がった。
「また来たよ」
「社長さん、美咲さんのファンじゃない?」
私は苦笑するしかなかった。
一郎は誰にでも気さくで、ホテルの従業員にもよく差し入れを持ってきた。
気前が良く、人懐っこい。
だから周囲からも好かれていた。
私も嫌な気はしなかった。
七十を過ぎた社長と五十歳のフロント係。
かかわりなどあるはずがない。
そう思っていた。
だから油断していたのだ。
その年の秋、一郎はロビーのソファに腰を下ろし、缶コーヒーを飲みながら言った。
「美咲さん」
「はい?」
「うちで働かんか」
私は冗談だと思った。
けれど一郎の目は少しも笑っていなかった。
第3話 うちで働かんか
「うちで働かんか。」
その言葉を聞いた瞬間、私は笑ってしまった。
「またまた。」
「冗談やない。」
一郎は真顔だった。
ホテルのロビーには宿泊客が行き交い、スーツケースのキャスターが床を転がる音が響いている。
そんな日常の中で、私だけが違う時間に取り残されたような気がした。
私はホテルの仕事が好きだった。
忙しい日は息つく暇もない。
それでも、お客様から「ありがとう」と言われるたびに、この仕事を続けてきて良かったと思えた。
気づけば二十年以上。
同じ制服を着て、同じロビーに立ち、たくさんのお客様を迎えてきた。
だからこそ、転職なんて一度も考えたことがなかった。
まして五十歳。
新しい世界へ飛び込む年齢ではないと思っていた。
「私、ホテルしか働いたことありません。」
「それでええ。」
「会社の仕事なんて何も分かりません。」
「覚えたらええ。」
あまりにも簡単に言うので、思わず吹き出した。
「そんな簡単なものじゃないですよ。」
「難しく考えすぎや。」
一郎は缶コーヒーを一口飲み、私を見た。
「五十歳やろ?」
「はい。」
「まだ若い。」
思わず笑った。
「若くないですよ。」
「何言うとる。わしなんか七十一や。」
その一言で、肩の力が少し抜けた。
年齢を理由に諦めることが、少し恥ずかしくなった。
⸻
数日後、休日を利用して私は一郎の会社を訪ねた。
大きなビルではなかった。
けれど玄関も事務所も掃除が行き届き、社員たちは皆、笑顔で挨拶をしていた。
「社長、おはようございます。」
「お疲れさまです。」
一郎は一人ひとりに声を掛けながら歩いていく。
若い社員が笑いながら声を掛けた。
「社長、お昼食べました?」
「まだや。」
「またですか。ちゃんと食べてくださいよ。」
「うるさいな。」
そんな何気ないやり取りに、事務所中が笑った。
私は少し驚いた。
社長と社員というより、昔からの家族のような空気だった。
偉そうに命令する社長ではない。
社員の名前を覚え、家族の近況まで気に掛けている。
その姿を見て驚いた。
ホテルでは見えなかった一郎の顔だった。
応接室へ案内されると、一郎は自分でコーヒーを淹れ始めた。
「社長がやるんですか?」
「客に出すコーヒーくらい、自分でできる。」
そう言って笑う。
私は少し安心した。
テレビで見るような近寄りがたい社長とは違う。
どこか近所のおじさんのような親しみやすさがあった。
「どうや。」
「社員さん、みんな優しいですね。」
「人に恵まれとる。」
その言葉には自慢する響きがなかった。
本当にそう思っているのだと伝わってきた。
私は以前から気になっていたことを聞いてみた。
「どうして私なんですか。」
一郎は少し考えてから答えた。
「ホテルへ行くたび見とった。」
「……。」
「忙しい日も、疲れとる日も、誰にでも同じ笑顔やった。」
私は返事ができなかった。
それは接客業として当たり前のことだと思っていたからだ。
「仕事は教えられる。」
一郎は続けた。
「でも人柄は教えられん。」
その言葉が胸に残った。
誰かに能力を認められたことはあった。
けれど、人柄を認められたのは初めてだった。
⸻
家へ帰ると、その日の出来事を家族へ話した。
娘は目を輝かせた。
「お母さん、すごいじゃん!」
「でも、会社なんて勤めたことないんだよ。」
「お母さんなら大丈夫。」
「何で?」
「だって、お母さん、人と話すの得意じゃん。」
その一言が嬉しかった。
自分では当たり前だと思っていたことを、娘はちゃんと見ていてくれた。
息子も笑った。
「社長秘書って、ドラマみたい。」
私は首を振る。
「そんな立派な話じゃないよ。」
夫は新聞をめくりながら、
「好きにしたら。」
と言っただけだった。
反対もされなかった。
応援もされなかった。
その無関心さが少し寂しかった。
⸻
翌日、実家へ向かった。
母は驚き、
「五十歳で転職?」
と何度も聞き返した。
父は黙って話を聞いていた。
そして最後に、
「人生一度きりだ。」
とだけ言った。
「挑戦できるうちに挑戦してみろ。」
その言葉を聞いた瞬間、不思議と覚悟が決まった。
帰り道、私は車を運転しながら泣いていた。
怖かった。
新しい仕事。
知らない世界。
五十歳という年齢。
失敗したらどうしよう。
笑われたらどうしよう。
そんなことばかり考えていた。
それでも、不思議と心は少し軽かった。
長い間、止まっていた時計の針が、少しだけ動き始めた気がした。
⸻
三日後。
私はホテルの休憩室で制服を見つめていた。
毎日袖を通した制服。
慣れたロビー。
顔なじみのお客様。
一緒に働いてきた同僚たち。
この景色とも、もうすぐお別れになる。
私はロビーをゆっくり見渡した。
何百回、何千回と立った場所。
嬉しい日も、落ち込んだ日も、この場所で働いてきた。
「ありがとうございました。」
誰にも聞こえないくらい小さな声でつぶやいた。
寂しさと期待が入り混じる。
私は携帯電話を手に取った。
深呼吸を一つ。
一郎の名前を押す。
「もしもし。」
「あ、一郎さん……。」
少しだけ声が震えた。
「決まったか?」
「はい。」
短い沈黙。
そして私は言った。
「よろしくお願いします。」
一郎は一拍置いて、大きな声で笑った。
「よっしゃ!」
その一言だけで、不安が少し消えた。
電話を切ったあと、私は窓の外を見た。
夕焼けがホテルのガラスを赤く染めている。
あの日、私は五十歳で人生を変えた。
あの時は知らなかった。
この出会いが、人生で一番感謝する出会いになり、
そして、一番心を揺さぶられる出会いになることを。
第4話 第二の人生
ホテルを退職する日。
いつもと同じ制服なのに、不思議と少し重く感じた。
鏡に映る自分を見る。
二十年以上着続けた制服。
嬉しい日も、落ち込んだ日も、この制服と一緒に過ごしてきた。
袖を整えながら、
「今日が最後なんだ。」
と、ようやく実感が湧いてきた。
フロントへ立つと、見慣れたロビーが目に入る。
観光客がパンフレットを手に取り、常連のお客様が「おはよう」と声を掛けてくれる。
「今日もよろしくね。」
そんな何気ない一言が、いつもより胸にしみた。
この景色を見るのも今日で最後だ。
五十歳を過ぎて転職する人は、そう多くはない。
「本当に辞めるの?」
同僚は何度も私に聞いた。
「うん。」
「もったいないなあ。」
私もそう思った。
慣れた仕事だった。
お客様の顔を見れば、何を求めているか何となく分かるようになっていた。
忙しい時間帯も。
クレーム対応も。
全部体が覚えている。
新人教育を任されることも増え、
気が付けば後輩たちから相談される立場になっていた。
そんな職場を離れる。
不安がないと言えば嘘になる。
昼休み、仲の良かった同僚が隣へ座った。
「美咲さんなら向こうでも大丈夫ですよ。」
「そうかなあ。」
「だって、誰とでもすぐ仲良くなるじゃないですか。」
私は照れくさくて笑った。
自分では当たり前だと思っていたことを、人から言われると少し嬉しかった。
終業時間になり、更衣室で制服を脱いだ。
ロッカーの扉を閉める音が、思ったより大きく響いた。
その音は、一つの時代が終わる音にも聞こえた。
「お疲れさまでした。」
同僚たちが小さな花束を渡してくれた。
「美咲さんなら大丈夫。」
「遊びに来てね。」
笑顔で送り出してくれる人たちを見ていたら、涙が込み上げた。
「ありがとうございました。」
私は何度も頭を下げた。
ホテルを出ると、夕方の風が頬をなでた。
私は振り返る。
毎日出入りした自動ドア。
季節ごとに飾り付けが変わるロビー。
仕事帰りに見上げた空。
どれも見慣れた景色だった。
私は深呼吸をした。
もう後戻りはできない。
⸻
翌朝。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
昨夜は何度も目を覚まし、そのたびに時計を見ていた。
まるで初めて学校へ行く子どものようだった。
少し早めに家を出る。
会社へ向かう道は、ホテルとは反対方向だった。
見慣れない景色。
見慣れない道。
それだけで胸がどきどきする。
会社の前で立ち止まり、深呼吸をする。
すると玄関のドアが開いた。
「おっ、来たか。」
一郎だった。
「おはようございます。」
「そんな固くならんでええ。」
そう言って笑う。
その笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
「今日から仲間や。」
その一言が嬉しかった。
事務所へ入ると、一郎は社員を集めた。
「今日から美咲さんに来てもらう。」
社員たちは一斉に拍手をした。
「よろしくお願いします。」
私は深く頭を下げた。
一人の女性社員が席まで案内してくれた。
「分からないことがあったら何でも聞いてくださいね。」
その優しい一言だけで救われた。
机の上には新しい名札が置かれていた。
『秘書 如月美咲』
その文字を見た瞬間、胸が熱くなった。
秘書。
そんな肩書きを持つ日が、自分に来るなんて思ったこともなかった。
名札をそっと手に取り、
何度も見つめた。
五十歳からでも、新しい肩書きを持てる。
人生は、まだ始め直せるのかもしれない。
⸻
午前中は電話の取り方や書類の整理を教えてもらった。
覚えることは山ほどある。
メモを書いても追いつかない。
頭の中はいっぱいだった。
パソコンの画面とにらめっこをしていると、一郎が後ろを通りかかった。
「焦らんでええ。」
その一言だった。
「最初からできる人なんかおらん。」
私は思わず笑った。
ホテルでも、新人の頃は何もできなかった。
失敗して落ち込み、先輩に励まれて少しずつ覚えてきた。
それを忘れていただけなのかもしれない。
⸻
昼休み、一郎は近くの定食屋へ連れて行ってくれた。
「好きなん頼み。」
私は日替わり定食を注文した。
一郎は焼き魚定食だった。
「社長って、毎日高いもの食べてるのかと思ってました。」
そう言うと、一郎は大笑いした。
「そんな金あったら社員に使うわ。」
冗談なのか本気なのか分からない。
でも、その言葉に社員たちが笑っていた。
きっと、こういう会話がいつもの会社なのだろう。
社長と社員の距離が近い理由が、少しだけ分かった気がした。
私は少しずつ、この場所が好きになり始めていた。
⸻
帰宅すると、娘がすぐに聞いた。
「どうだった?」
私は自然と笑っていた。
「楽しかった。」
その一言に、自分でも驚いた。
仕事を楽しいと思えたのは、いつ以来だろう。
不安で始まった一日だった。
でも終わってみれば、
明日も頑張ろうと思える一日になっていた。
あの日、私は新しい職場で、新しい人生を歩き始めた。
まだその頃は、一郎の口癖が
「今度やる。」
だということも知らない。
その言葉に何度も笑い、
何度も振り回され、
そして最後には、
「やるやるネズミ」
と呼ぶ日が来ることも、
まだ知らなかった。
第5話 恩人
会社へ入って三か月が過ぎた。
最初は電話一本取るだけでも緊張していた私だったが、少しずつ毎日の仕事にも慣れてきた。
社員のみんなも優しかった。
分からないことを聞けば、
「美咲さん、それはこうですよ。」
と笑って教えてくれる。
年齢は私の方が上なのに、誰一人偉そうな態度を取らなかった。
一郎がそんな会社を作ってきたのだと、私は少しずつ知るようになった。
一郎は毎日忙しい。
朝は事務所にいても、昼には大阪。
翌日は東京。
気が付けば九州。
全国を飛び回りながらも、不思議と疲れた顔を見せない。
「社長、いつ休んでるんですか。」
私が聞くと、
「移動中や。」
と笑った。
「車の中で寝る。」
「危ないですよ。」
「運転は人に任せとる。」
そんな会話をしながら仕事をする毎日が、少しずつ楽しくなっていた。
ある日の夕方。
一郎が突然言った。
「今日は美咲さんの実家行くぞ。」
「えっ?」
「お父さんとお母さん元気か。」
「元気ですけど……。」
「ほな行こ。」
「急ですね。」
「急や。」
私は苦笑いした。
この人は昔からそうだった。
思い立ったら、その日のうちに動く。
予定なんて関係ない。
それが一郎という人だった。
車へ乗り込むと、私は少し緊張した。
「社長。」
「ん?」
「父、あまりしゃべらないですよ。」
「わしがしゃべる。」
「母は止まりません。」
「ほな、ちょうどええ。」
二人で笑った。
実家へ着くと、母が目を丸くした。
「えっ、社長さん?」
「突然すみません。」
一郎は深々と頭を下げた。
会社では豪快な人なのに、年上には必ず礼儀正しい。
その姿を見て、私は少し誇らしかった。
父も居間から出てきた。
「どうぞ。」
少し緊張した空気が流れる。
すると一郎が先に口を開いた。
「今日は美咲さんをお借りしとるお礼を言いに来ました。」
父は驚いたような顔をした。
「こちらこそ娘がお世話になっています。」
「いやいや。」
一郎は笑った。
「助けてもらっとるのは、こっちです。」
私は思わず下を向いた。
そんなふうに言われたことが、嬉しかった。
母は台所で慌ただしく動き始めた。
「漬物しかないけど。」
「煮物もあるわ。」
「お茶入れるね。」
私は
「そんなに出さなくていいよ。」
と言った。
でも母は止まらない。
昔から、お客様が来ると張り切る人だった。
一郎は並んだ料理を見るなり、
「うわぁ。」
と声を上げた。
「ごちそうですね。」
「田舎料理ですよ。」
「こういうのが一番好きなんです。」
一口食べる。
「うまい。」
また一口。
「これも、うまい。」
母は照れながら笑った。
「社長さん、お世辞が上手。」
「違います。」
「本当にうまい。」
気が付けば、ご飯までおかわりしていた。
父が珍しく笑った。
「そんなに食べてもらえると嬉しいな。」
その笑顔を見て、私はほっとした。
食後、父と一郎は縁側へ出た。
畑を眺めながら世間話をしている。
仕事の話。
景気の話。
健康の話。
父は少しずつ口数が増えていった。
私は台所で母と片付けをしながら、その様子を眺めていた。
母が小さな声で言った。
「いい社長さんだね。」
「うん。」
「最初は心配だったけど。」
「私も。」
母は笑った。
「でも、あの人なら安心。」
その言葉を聞いた時、胸の奥が少し熱くなった。
五十歳を過ぎて転職した私を、両親はずっと心配していたのだ。
その心配が、今日やっと少しだけ消えた気がした。
帰る時間になると、母が大きな袋を持ってきた。
「きゅうり。」
「トマト。」
「玉ねぎ。」
「じゃがいも。」
「持って帰って。」
「こんなにもらっていいんですか?」
「食べきれんから。」
一郎は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。」
車のトランクは野菜でいっぱいになった。
帰り道。
私は笑いながら言った。
「社長、今日は野菜いっぱいですね。」
「無料やからな。」
「そこですか。」
「違う違う。」
少し照れながら一郎が続けた。
「ええ家族やな。」
私は窓の外を見た。
「普通の家ですよ。」
「普通が一番や。」
その一言が心に残った。
翌朝、会社へ出勤すると、社員さんが笑いながら声を掛けてきた。
「美咲さん。」
「はい?」
「昨日、社長どこ行っとったか知ってます?」
私は思わず笑った。
「うちの実家です。」
「やっぱり。」
社員さんは肩を揺らして笑った。
「朝からずっと実家の話ばっかりですよ。」
「そんなにですか?」
「『漬物がおいしかった。』『煮物も最高やった。』『野菜をいっぱいもろた。』って。」
私は吹き出した。
「社長らしいですね。」
「みんなで『また始まった。』って笑ってました。」
そこへ、一郎が紙袋を抱えて事務所へ入ってきた。
「おはよう。」
社員さんがすぐに言う。
「社長、また野菜ですか。」
「昨日もろた。」
そう言って嬉しそうに袋の中を見せる。
きゅうり。
トマト。
玉ねぎ。
まるで子どもがおもちゃを見せるような笑顔だった。
社員さんが苦笑いする。
「社長、本当にうれしかったんですね。」
「当たり前や。」
一郎は真顔で答えた。
「ええ家族やった。」
その一言に、私は少し胸が熱くなった。
昼休み。
私が書類を整理していると、一郎がコーヒーを片手に近づいてきた。
「美咲さん。」
「はい。」
「昨日はありがとう。」
私は少し驚いた。
改まってお礼を言われることは珍しかった。
「父も母も喜んでました。」
「また遊びに行ってええか。」
「もちろんです。」
「今度は畑仕事も手伝う。」
私は思わず笑った。
「社長、それ絶対やらないですよね。」
「やる。」
「本当ですか?」
一郎は少しだけ間を置いて笑った。
「……今度やる。」
私は声を出して笑った。
「やっぱり。」
事務所にいた社員さんたちも、そのやり取りを聞いて笑っていた。
その時はまだ、その言葉が一郎の口癖になるとは思ってもいなかった。
ただ私は、笑顔が絶えないこの会社へ来られて、本当に良かったと思っていた。
数日後。
母から電話があった。
「社長さん、元気?」
私は思わず笑った。
「私じゃなくて?」
「あなたはいつも元気でしょ。」
「社長さん、また来てくれるといいね。」
父も横から、
「あの人なら、また来る。」
と言っているらしかった。
私は電話を切って、小さく笑った。
ホテルで偶然出会った一人のお客様。
それが今では、私の家族と笑い合っている。
人生とは、本当に不思議だ。
私は改めて思った。
この人は、私の恩人だ。
第6話 今度やる
私が一郎と働き始めて半年ほど経った頃だった。
少しずつ会社にも慣れ、社員のみんなとも冗談を言い合えるようになっていた。
一郎は相変わらず忙しかった。
朝は岐阜。
昼は大阪。
翌日は東京。
その次は九州。
「社長、いつ寝てるんですか。」
私が聞くと、一郎は笑った。
「移動中や。」
「そんなので疲れませんか。」
「疲れる暇がない。」
本当なのか冗談なのか分からない。
でも、その言葉が一郎らしかった。
ある日の昼休み。
一郎が突然、私を呼んだ。
「美咲。」
「はい。」
「事務所作る。」
私は思わず顔を上げた。
「事務所ですか?」
「そうや。」
「美咲専用。」
私は驚いた。
「本当ですか?」
「当たり前や。」
一郎は大きくうなずいた。
「もっと仕事しやすいようにしたる。」
私は素直にうれしかった。
新しい机。
広い応接室。
パソコンも新しくなるかもしれない。
そんなことを考えていると、自然と笑顔になっていた。
数日後。
私は何気なく聞いてみた。
「社長。」
「ん?」
「事務所の話ですが……。」
「ああ。」
「設計図はできました?」
一郎は腕を組んで考えるふりをした。
「まだや。」
「そうなんですね。」
「今度やる。」
私は笑って、
「分かりました。」
と答えた。
その時は、それ以上何も思わなかった。
それから一か月ほど経ったある日。
一郎がまた言った。
「今度は家や。」
「家?」
「美咲の家、建て替えたる。」
私は思わず笑った。
「そんな大きな話になってるんですか。」
「任せとけ。」
「ありがとうございます。」
帰宅して、その話を家族へすると、
娘は目を丸くした。
「えっ、お母さんすごい!」
母も驚いた。
「そんな社長さん、本当にいるの?」
父だけは新聞を読みながら一言。
「話半分で聞いとけ。」
私は笑った。
「そうだね。」
そう言いながらも、心のどこかでは期待していた。
数週間後。
「社長。」
「ん?」
「家の図面は?」
「あ。」
「忘れてました?」
「まだや。」
私は笑いをこらえた。
「今度やる。」
「はいはい。」
その返事に、一郎も笑った。
そんなやり取りを何度か繰り返しているうちに、私はあることに気付いた。
一郎は、
約束をするのが好きだった。
しかも、どれも相手が喜びそうな話ばかりだった。
「旅行行くぞ。」
「新しい車探したる。」
「屋根も直したる。」
「困ったことがあったら何でも言え。」
そのたびに私は、
「ありがとうございます。」
と答えた。
そして数日後には、
「社長、あの話ですが。」
と聞く。
返ってくる答えは決まっていた。
「今度やる。」
私は少しずつ、その言葉に慣れていった。
ある日、社員さんが私を見て笑った。
「美咲さん。」
「はい?」
「社長の話、まだ全部信じてます?」
「え?」
「いや、その顔見たら分かります。」
私は首をかしげた。
社員さんは声をひそめる。
「社長の”今度やる”は、有名なんですよ。」
「そうなんですか?」
「ええ。」
周りの社員さんまで笑い始めた。
「美咲さんも、そのうち分かります。」
私はまだ、その意味を理解していなかった。
けれど、それから数日後。
私は会社中で、一番有名な”あだ名”を知ることになる。
社員さんに言われた言葉が、ずっと頭から離れなかった。
「社長の”今度やる”は有名なんですよ。」
その意味が分かったのは、それから間もなくのことだった。
ある日の昼休み。
一郎が嬉しそうな顔で私を呼んだ。
「美咲。」
「はい。」
「今度、みんなで旅行行くぞ。」
「旅行ですか?」
「温泉でもええし、自然の中でもええ。」
社員さんたちも、
「楽しそうですね。」
と笑顔になった。
私は予定帳を開きながら聞いた。
「いつ頃ですか?」
一郎は自信満々に答えた。
「今度や。」
社員さんたちは一斉に笑った。
私はまだ理由が分からない。
「何かおかしいですか?」
一人の社員さんが肩を震わせながら言った。
「美咲さん。」
「はい。」
「“今度”がいつなのか、誰も知らないんです。」
事務所中が笑い声に包まれた。
私もつられて笑ってしまった。
別の日。
一郎が事務所へ入ってくるなり言った。
「屋根直したる。」
「屋根ですか?」
「雨漏りしとるやろ。」
「はい。」
「任せとけ。」
私はもう笑っていた。
「社長。」
「ん?」
「今度やる、ですか?」
一郎は照れ笑いを浮かべた。
「よう分かっとる。」
その言葉に社員さんたちは拍手した。
「美咲さん、卒業ですね。」
「何をですか?」
「社長の取扱説明書です。」
私は思わず吹き出した。
そんなある日。
私は社員さんへ聞いた。
「皆さん、本当に怒らないんですか?」
「社長が約束を守らなくても。」
社員さんは少し考えてから答えた。
「守らない約束もあります。」
「でも。」
「困ってる時は、本当に助けてくれるんですよ。」
別の社員さんもうなずいた。
「夜中でも電話に出ますしね。」
「社員の相談も最後まで聞いてくれます。」
「口だけじゃないんです。」
私は静かに聞いていた。
そうだった。
私も何度も助けられてきた。
転職を勧めてくれた。
仕事を教えてくれた。
困った時には必ず声を掛けてくれた。
約束は忘れる。
でも、人は忘れない。
それが一郎だった。
帰り際。
社員さんが笑いながら言った。
「美咲さん。」
「はい。」
「社長のあだ名、聞きました?」
「まだです。」
社員さんは周りを見回して、小さな声で言った。
「やるやるネズミ。」
私は思わず笑ってしまった。
「ぴったりですね。」
「ネズミ年で、全国をちょこちょこ走り回って。」
「思いついたらすぐ話して。」
「最後は。」
私は社員さんと声を合わせた。
「今度やる。」
二人で大笑いした。
そこへ一郎が戻ってきた。
「何笑っとる。」
「秘密です。」
「何やそれ。」
一郎もつられて笑った。
私は心の中で思った。
やるやるネズミ。
少し失礼なあだ名だけれど、
不思議と愛情まで込められている。
約束は守られないことも多い。
それでも誰も本気で怒らない。
一郎は、人を喜ばせようとする気持ちだけは、いつも本物だった。
だから私は今日も笑ってしまう。
「社長。」
「ん?」
「今度やる、ですよね。」
一郎は少し照れながら笑った。
「ああ。」
「今度やる。」
その言葉を聞いた事務所のみんなが、また笑った。
私はその輪の中にいる自分が、少しだけ好きになっていた。
第7話 娘みたいなもんや
秘書になって五年が過ぎた。
会社へ入った頃の緊張は、もうなかった。
電話が鳴れば、誰からなのか予想がつく。
一郎が次に何を言うのかも、だいたい分かるようになっていた。
「美咲さん。」
「はい。」
「今日、大阪行ってくる。」
「お気をつけて。」
「明日は東京。」
「はい。」
「来週は広島。」
「はいはい。」
私は笑いながら予定表を書き換える。
一郎は相変わらず全国を飛び回っていた。
仕事の話をしに行ったはずなのに、帰ってくる頃には知り合いが何人も増えている。
「社長、友達作るの得意ですね。」
「友達やない。」
「じゃあ何ですか。」
「縁や。」
そう言って笑う。
仕事も人付き合いも、一郎には境界線がなかった。
相手が社長でも、学生でも、近所のおばあちゃんでも変わらない。
気が付けば相手が笑っている。
私は思った。
この人は、人を好きになる天才なのかもしれない。
⸻
ある休日。
一郎はまた実家へ遊びに来ていた。
朝から母は台所で忙しそうに動いていた。
「社長さん、お刺身好きだったよね。」
煮物を作り、味噌汁を作り、食卓には少し豪華なおかずが並ぶ。
父は朝から近所の酒屋へ行き、日本酒を一本買ってきた。
「そんなに準備しなくても。」
私が笑うと、母は振り返って言った。
「もうお客さんじゃないもの。」
「え?」
「家族みたいなもんじゃない。」
私は少し驚いた。
気が付けば、母も父も、一郎を自然に家族のように迎えていた。
昼食が始まると、いつものように笑い声が絶えなかった。
父がお酒をつぎ、
母がおかわりを勧め、
一郎は「食べ過ぎや。」と言いながら箸を進める。
まるで昔からの親戚が集まったような時間だった。
食事が終わると、一郎が突然言った。
「お父さん。」
父が顔を上げる。
「美咲さん、養女にもらおか。」
一瞬、部屋が静かになった。
そして次の瞬間。
母が吹き出した。
父も声を上げて笑い出す。
私も笑った。
「何言ってるんですか。」
一郎も大笑いしている。
「美咲さん、よう働くし。」
「もう五十過ぎですよ。」
「年齢は関係ない。」
「それに私、結婚してます。」
「そんなもん何とかなる。」
「ならないです。」
父が笑いながら言った。
「今さら養女にしたら、戸籍がややこしいぞ。」
母も笑う。
「ほんとに社長さんは思いつきで話すねぇ。」
部屋中が笑い声でいっぱいになった。
冗談だった。
その場にいた誰もが、そう思っていた。
⸻
それからというもの、一郎は時々そんなことを言うようになった。
「娘みたいなもんや。」
「うちの家族や。」
「美咲さんは特別や。」
私はそのたびに、
「また始まった。」
と笑って返した。
やるやるネズミは、約束だけではない。
思いついたことを、そのまま口にする。
それが一郎だった。
でも、不思議だった。
その言葉は嫌ではなかった。
むしろ少し嬉しかった。
家では子どもたちも大きくなり、
夫とは必要最低限の会話しかしない。
そんな毎日の中で、
「家族や。」
と言ってくれる人がいる。
それだけで心が少し温かくなった。
家族とは何だろう。
血のつながりだけなのだろうか。
そんなことを考えるようになったのも、この頃からだった。
⸻
ある日、仕事帰りに一郎がぽつりと言った。
「人間、最後は一人や。」
私はハンドルを握りながら聞いた。
「社長は違うじゃないですか。
全国に友達がいるし。」
「友達と家族は違う。」
車の窓の外では夕日がゆっくり沈み始めていた。
赤信号で車が止まる。
一郎は窓の外を見たまま続けた。
「わしには子どもおらんからな。」
その横顔は、いつもの社長ではなかった。
冗談を言って笑わせる人でもなかった。
ただ、一人の七十代の男性だった。
私は何も言えなかった。
しばらく沈黙が流れる。
信号が青に変わる。
車を走らせると、一郎が急に笑った。
「せやから、美咲さん養女や。」
「また言ってる。」
私は笑った。
その時は、本当に冗談だと思っていた。
だけど、その笑い声の奥に、
ほんの少しだけ本音が混じっていたことを、
私は気づいていなかった。
⸻
帰宅してからも、その言葉が頭から離れなかった。
「養女。」
五十六歳にもなって、
そんな言葉を自分に向けられるとは思ってもいなかった。
もちろん現実になるはずがない。
私は家庭がある。
子どももいる。
戸籍を移すなんて考えたこともない。
それでも、
「娘みたいなもんや。」
という言葉だけは、
胸のどこかに静かに残り続けていた。
あの頃は、
「また始まった。」
そう笑って聞き流していた。
けれど今振り返ると、
一郎は冗談の中に、
ほんの少しだけ本音を混ぜていたのだと思う。
私はその小さなサインを、
笑いながら見過ごしていた。
あの時の私は、
その言葉が、いつか自分の居場所を考えるきっかけになるなんて、
夢にも思っていなかった。
第8話 晴れの日
娘の結婚式の日取りが決まった。
式場から帰る車の中で、娘は何度もパンフレットを見返していた。
「楽しみだね。」
そう笑う娘の横顔を見ながら、私は小さくうなずいた。
ついこの前まで、小さな手をつないで幼稚園へ送り迎えしていた気がする。
運動会で転んで泣いたこと。
高校受験で眠れなかった夜。
社会人になって初めてもらった給料で、小さな花束をプレゼントしてくれたこと。
思い出が次々と浮かんでは消えていく。
親になると、子どもの成長はあっという間だ。
嬉しいのに、少しだけ寂しい。
そんな複雑な気持ちだった。
翌日、私は一番に一郎へ報告した。
「社長。」
「おっ、決まったか。」
「来年の二月です。」
一郎は手をたたいて喜んだ。
「それはめでたい。」
私は少しためらいながら言った。
「もし、お時間がありましたら……。」
言い終わる前に、一郎は笑った。
「行く行く。」
即答だった。
「ありがとうございます。」
「娘さんの晴れ舞台やろ。」
「もちろん行く。」
その言葉だけで嬉しかった。
まるで親戚のおじさんのようだった。
⸻
それから数か月。
結婚式の準備は思っていた以上に忙しかった。
式場との打ち合わせ。
衣装合わせ。
席次表。
引き出物選び。
プロフィールムービー。
娘と一緒に買い物へ出掛ける日も増えた。
「お母さん、これどう?」
ドレス姿の娘を見た瞬間、思わず涙がこぼれそうになった。
「まだ泣かないでよ。」
娘が笑う。
「本番で泣いて。」
私は笑いながら、
「約束する。」
と答えた。
⸻
仕事の合間には、一郎へ準備の様子を話していた。
「ドレス決まりました。」
「写真見せて。」
「まだ内緒です。」
「けちやなあ。」
私は笑った。
「当日までのお楽しみです。」
「ほな、楽しみにしとく。」
そんな何気ない会話が楽しかった。
ある日、一郎が言った。
「結婚式、盛り上げたる。」
「え?」
「マジシャン呼ぼうか。」
私は思わず吹き出した。
「社長らしいですね。」
「任せとけ。」
私は笑いながら答えた。
「はいはい。」
「ちゃんとスーツで来てくださいね。」
「蝶ネクタイでもええか。」
「目立ちすぎです。」
二人で笑った。
もう分かっていた。
「任せとけ」は、
「今度やる。」
の仲間だということを。
それでも私は、その時間が好きだった。
⸻
ところが、その年の秋。
一本の電話が入った。
「社長が倒れた。」
耳を疑った。
昨日まで元気だった人が。
全国を飛び回り、
「今度やる。」
と笑っていた人が。
頭の中が真っ白になった。
病名は詳しく分からない。
入院したことだけを聞いた。
私は何度も携帯電話を手に取った。
電話を掛けようか。
今は休んでいるかもしれない。
迷惑になるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、一日が終わってしまった。
⸻
数週間後。
一郎から短い電話があった。
「元気か。」
その声は少し弱々しかった。
「社長、大丈夫ですか。」
「まあ何とか。」
以前のような勢いはない。
それでも笑っていた。
私は安心した。
「結婚式には……。」
そこまで言い掛けて、言葉を飲み込んだ。
無理をしてほしくなかった。
一郎の方から言った。
「行きたいんやけどな。」
その一言だけで十分だった。
来られる、来られないより、
来たいと思ってくれていることが嬉しかった。
⸻
結婚式当日。
朝から慌ただしく時間が過ぎていく。
娘は純白のドレスを身にまとい、
少し照れくさそうに笑っていた。
「お母さん。」
「きれいだよ。」
それしか言えなかった。
父と腕を組み、
ゆっくりとバージンロードを歩く娘。
その後ろ姿を見つめながら、
私は涙が止まらなかった。
小さな命を抱きしめた日。
熱を出して一晩中看病した日。
反抗期にぶつかった日。
全部が昨日のことのようだった。
幸せな一日だった。
本当に幸せな一日だった。
でも心のどこかで、
もう一人、
この姿を見てほしかった人がいた。
⸻
披露宴が終わり、
家へ帰る車の中。
私は携帯電話を開いた。
一郎からメッセージは届いていなかった。
窓の外には冬の夜空が広がっていた。
私は娘の写真を見つめながら、小さくつぶやく。
「退院したら見せよう。」
「きっと喜ぶ。」
写真は逃げない。
思い出も逃げない。
だから私は待つことにした。
その時はまだ、
“待つこと”が当たり前だと思っていた。
あの言葉を聞く日が来るまでは。
「待たなくていい。」
第9話 電話のむこう
結婚式が終わってから、一郎との連絡は少しずつ減っていった。
以前なら、突然電話が鳴った。
「美咲、今どこや。」
「家です。」
「そうか。元気か。」
そんな短い会話が、日常の中に当たり前のようにあった。
けれど大阪の病院へ戻ってから、一郎の声を聞く機会は減っていった。
電話をかけても出ない。
メッセージを送っても返事がない。
最初は、治療で忙しいのだろうと思っていた。
リハビリもある。
検査もある。
病人なのだから、連絡がない日くらいある。
そう自分に言い聞かせた。
けれど一週間が過ぎても連絡はなかった。
十日が過ぎた頃には、携帯を手に取るたびに胸がざわついた。
電話をかけようとして、やめる。
画面に表示された一郎の名前を見つめる。
今、寝ていたらどうしよう。
体調が悪かったら迷惑かもしれない。
親族の人がそばにいたら、私は何と名乗ればいいのだろう。
社員です。
秘書です。
長い付き合いです。
どの言葉も、しっくりこなかった。
一郎は、身寄りがない人だと思っていた。
本人もよくそう言っていた。
「わしには誰もおらん。」
「最後は一人や。」
そのたびに私は、
「そんなこと言わないでください。」
と返していた。
だから病気になった時、どこかで思っていたのだ。
私が呼ばれるのだと。
私が行くのだと。
一郎のそばにいるのは、私なのだと。
けれど現実は違った。
甥がいるらしい。
兄嫁もいるらしい。
病院のことも、リハビリのことも、その人たちが動いているらしい。
私は、何も知らなかった。
病室も知らない。
主治医の名前も知らない。
退院の予定も知らない。
家族のように過ごした六年間があっても、私は家族ではなかった。
その事実が、少しずつ胸に沈んでいった。
二週間が過ぎた夜。
スマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前を見て、息が止まりそうになった。
長瀬一郎。
私は震える指で通話ボタンを押した。
「もしもし。」
しばらく沈黙があった。
電話が切れてしまったのかと思うほど、静かだった。
「……ああ、美咲か。」
声は弱っていた。
けれど、確かに一郎だった。
「社長……心配しました。」
言った瞬間、涙が出そうになった。
「悪かったな。」
一郎は小さく笑った。
その笑い声は、以前よりずっと細かった。
昔の一郎なら、電話に出た瞬間から話が止まらなかった。
「今、大阪や。」
「明日は東京や。」
「今度、すごいことやるぞ。」
そんなふうに、いつも未来の話をしていた。
けれどその日の一郎は、言葉と言葉の間に長い沈黙があった。
「体調はどうなんですか。」
「歩けんようになってな。」
私は言葉を失った。
「今はリハビリや。やっと杖で歩けるくらいや。」
あれほど元気だった人が。
全国を飛び回り、次から次へと未来の話をしていた人が。
杖で歩く。
その姿を想像しようとして、うまくできなかった。
「会いに行きます。」
気づけば、そう言いかけていた。
大阪まで行く。
病院でもリハビリ施設でも、どこでもいい。
顔を見れば安心できる。
そう思った。
けれど、一郎は先に言った。
「あんたには、今の姿を見られたくない。」
私は息をのんだ。
「そんなこと……。」
「嫌われたくないんや。」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。
その言葉は、一郎らしくなかった。
いつも大きなことを言っていた人。
「任せとけ。」
「今度やる。」
「心配せんでええ。」
そう言っていた人が、初めて弱音を見せたような気がした。
「嫌いになんて、なりませんよ。」
私はそう言った。
けれど、その言葉は自分でも驚くほど小さかった。
一郎が本当に恐れていたのは、私に嫌われることではなかったのかもしれない。
弱った姿を見られること。
今までの自分ではなくなったこと。
それを、自分自身が許せなかったのかもしれない。
しばらくして、一郎は言った。
「待たなくていいよ。」
私は何も言えなかった。
「もう、待たんでええ。」
優しい声だった。
だからこそ、胸に刺さった。
何を待つなと言うのだろう。
退院を。
岐阜へ戻る日を。
また一緒に仕事をする日を。
それとも、養女という言葉の続きを。
私は聞けなかった。
聞けば、その場で何かが終わってしまう気がした。
電話の向こうで、誰かの声がした。
看護師なのか、親族なのか、分からない。
でもその声で、私の知らない場所に、一郎の今があるのだと分かった。
私は電話のこちら側にいる。
一郎は電話の向こう側にいる。
たったそれだけのことなのに、その距離は大阪よりも遠く感じた。
「また電話するわ。」
最後に一郎はそう言った。
私は反射的に笑ってしまった。
「また今度、ですか。」
一郎も少し笑った。
「そうやな。」
電話が切れた。
部屋は急に静かになった。
私はしばらく、スマートフォンを握ったまま動けなかった。
待たなくていい。
そう言われたのに、私はたぶん、まだ待っていた。
電話を。
退院を。
そして、名前のつかない関係の続きを。
家族ではない。
親族でもない。
けれど他人と言うには、近すぎた。
その夜、私は初めて思った。
私は一郎の何だったのだろう、と。
最終話 名前のないご縁
あの日の電話から、季節が一つ過ぎた。
庭先の木々は色を変え、気がつけばまた新しい季節がやって来ていた。
一郎から電話が来る日もあれば、来ない日もある。
以前のように毎日仕事の話をすることはなくなった。
それでも、携帯電話が鳴るたびに少しだけ胸が高鳴った。
画面に「一郎」の名前が表示されるだけで、自然と笑顔になる。
「元気か。」
「元気ですよ。」
「そうか。」
それだけの会話でも十分だった。
以前なら、
「今度やる。」
「任せとけ。」
「心配せんでええ。」
そんな大きな言葉が飛び交っていた。
新しい事業の話。
全国を飛び回った話。
誰かを助けた話。
未来の話ばかりしていた。
今は違う。
短い言葉を、お互いにゆっくり交わすようになった。
沈黙の時間さえ、以前より増えた。
それでも不思議と気まずくはなかった。
年を重ねるというのは、こういうことなのかもしれない。
言葉が少なくても、相手の存在だけで安心できる。
そんな関係もあるのだと知った。
⸻
ある日、机の引き出しを整理していた。
奥の方から、一冊の古いメモ帳が出てきた。
ページを開くと、そこには一郎が話した夢が、私の字で並んでいた。
「支店を作る。」
「屋根を直す。」
「娘さんに車。」
「旅行行くぞ。」
「事務所を作る。」
「家を建てる。」
ページをめくるたびに、
“今度やる”
が並んでいる。
私は思わず吹き出した。
「本当に一つも実現してない。」
本当に、やるやるネズミだ。
でも不思議だった。
腹は立たなかった。
むしろ、そのメモを見るだけで笑顔になれた。
約束が嬉しかったのではない。
その時の一郎の笑顔が、嬉しかったのだ。
「任せとけ。」
そう言って胸を張る姿。
私が驚く顔を見て、子どものように笑う姿。
実現しなかった約束よりも、その時間の方がずっと大切だった。
私は静かにメモ帳を閉じた。
そこには約束ではなく、
六年間の思い出が詰まっていた。
私はメモ帳をもう一度開いた。
ページの端には、急いで書いた文字や、書き直した跡まで残っている。
あの日の私は、一郎が話すたびに、「今度こそ本当に実現するかもしれない」と思いながら、一つひとつ書き留めていた。
今読み返せば、どれも笑ってしまうような話ばかりだ。
それでも、そこに残っているのは「実現しなかった約束」ではない。
一緒に未来を話して、一緒に笑っていた時間だった。
人は約束だけで思い出を作るのではない。
誰かと過ごした時間そのものが、人生の宝物になるのだと、今なら分かる。
時々考えることがある。
私は、一郎の何だったのだろう。
社員。
秘書。
友人。
娘のような存在。
どれもしっくりこない。
家族ではない。
親族でもない。
けれど、ただの他人と言われると、それも違う気がする。
病院へ駆け付けることもできない。
病状を詳しく知ることもできない。
でも電話が鳴れば、真っ先に出たいと思う。
そんな距離だった。
もし本当に養女になっていたら。
そんなことを考えた日もあった。
でも、現実にはならなかった。
ならなくて良かったのかもしれない。
家族になれば見えなくなる景色もある。
他人だから続く優しさもある。
名前がない関係だからこそ、大切にできる距離もある。
だから私は、この関係に名前がなくて良かったのだと思う。
どちらかが相手に何かを求めることもなく、肩書きに縛られることもなく、ただ「元気でいてほしい」と思える。
そんなご縁も、人生にはあるのだと、一郎が教えてくれた。
「待たなくていい。」
あの日、一郎が言った言葉。
最初は意味が分からなかった。
少し寂しかった。
少し悲しかった。
でも今なら、少しだけ分かる気がする。
待ち続けるより、自分の人生を歩いていけ。
そんな一郎なりの優しさだったのかもしれない。
あの人は、照れくさいことを素直に言えない人だった。
だから優しさも、いつも少し遠回りだった。
きっとあの日も、「頑張れ」と言う代わりに、「待たなくていい」と言ったのだろう。
私は、その不器用な優しさを受け取るまで、少し時間がかかった。
⸻
先日、一郎から電話があった。
「元気か。」
「元気ですよ。」
「そっちは。」
「相変わらずです。」
少し沈黙が流れた。
そして、一郎は笑った。
「また今度な。」
私は思わず吹き出した。
「社長。」
「ん?」
「また今度ですね。」
「ああ。」
私は笑いながら言った。
「やるやるネズミ。」
電話の向こうで、一郎は大笑いした。
「何やそれ。」
「内緒です。」
「誰が考えた。」
「秘密です。」
笑い声は、昔と同じだった。
少し弱くなった声。
それでも、その笑い方だけは変わらなかった。
電話を切ったあとも、しばらく私は笑っていた。
昔なら、「また今度」という言葉を聞けば、
「どうせまた実現しないんでしょ。」
と思っていた。
でも今は違う。
その言葉を聞くだけで、一郎らしいと思える。
約束が実現するかどうかよりも、その人らしく笑っていてくれることの方が、ずっと大切なのだと知った。
⸻
私はもう、何も待っていない。
約束も。
支店も。
車も。
屋根も。
全部なくてもいい。
電話一本で、
「元気か。」
そう言ってくれる人がいる。
それだけで、このご縁は続いている。
人生には、不思議な出会いがある。
血のつながりがなくても、人生を大きく変えてくれる人がいる。
一郎は、私にとってそんな人だった。
だから私は、この出会いに感謝している。
私は養女にはならなかった。
家族にもならなかった。
だけど、あの日ホテルで交わした
「こんにちは。」
から始まったご縁は、今も終わっていない。
家族より遠く。
他人より近い。
その不思議な距離に、名前をつけるとしたら。
きっと、
養女未満。
私は、この名前のない関係を、これからも大切にしていきたいと思う。
電話が鳴ったら、私はきっと今日も笑って出る。
「はい、社長。」
その一言が言える限り。
この不思議なご縁は、まだ終わらない。