
なぜ、忘れられた付喪神は“消えかけて”いたのか?
『真城記憶魔法工房』第2巻から、私が一番気に入っているストーリーを抜粋してご紹介します。
「誰にも覚えてもらえなくなると、消えてしまう。」――付喪神って忘れられと消えてしまうんです。とても切なくって悲しい、でも最後はホッとする物語です。
第15話 小豆の修理
忘れられたものは、静かに消えていく。
その日の工房は、妙に静かだった。
静かすぎる、と言ったほうが近い。
路地に足音がない。
風も吹かない。
外へ吊るした小さな灯りでさえ、息を潜めているようだった。
真城彩葉は作業台に向かい、帳面へ数字を書き込んでいる。
棚の上では、クロが路地の奥をじっと見つめていた。
「今日は誰も来ないな」
「珍しいですね」
最近の工房は賑やかだった。
人間だけじゃない。
付喪神。
妖。
境界を越えてくる、人ならざるものたち。
けれど今夜は、その気配がない。
クロは窓の外を見たまま言う。
「静かすぎる」
彩葉は苦笑した。
「みんな休んでるのかもしれません」
そのとき――
扉がゆっくり開いた。
チリン。
ベルの音が、いつもより弱い。
入ってきたのは、小豆だった。
けれど、何かがおかしい。
足取りがふらついている。
赤い着物の輪郭そのものが、わずかにぼやけて見えた。
彩葉はすぐ立ち上がる。
「小豆?」
小豆は小さく笑おうとした。
「こんばんは」
けれど声に力がない。
クロの目が鋭くなる。
「どうした」
小豆は机のそばまで来て、そっと手を上げた。
その指先が、薄く透けている。
彩葉が息を呑む。
「……薄れてる」
小豆は静かにうなずいた。
「はい」
クロが低く言う。
「付喪神の消散だ」
工房が静まり返る。
小豆は俯いた。
「最近、少しずつ記憶が消えていくんです」
彩葉はすぐ椅子を引いた。
「座ってください」
小豆はゆっくり腰を下ろす。
けれど“座った”というより、かろうじてそこへ輪郭を留めているような危うさだった。
クロが尋ねる。
「原因は」
小豆は少し迷い、それから小さく答えた。
「忘れられたんです」
彩葉は黙って続きを待つ。
小豆は自分の袖を見つめた。
「わたし、もともとは小豆壺だったんです」
彩葉はやわらかくうなずく。
「だから、小豆」
小豆が少しだけ笑う。
「はい」
その笑顔は、消えかけた灯りみたいに弱かった。
「でも、わたしのいた家は、もうなくなってしまって……」
クロが静かに前足を揃える。
「なるほどな」
小豆は続ける。
「物は、使われなくなると弱っていくんです」
彩葉は小さく息を吐いた。
「人も、少し似ていますね」
小豆は驚いたように顔を上げる。
「……そうかもしれません」
工房の灯りが、静かに揺れた。
「誰にも覚えてもらえなくなると」
小豆の声は、かすかに震えていた。
「消えてしまう」
クロが低く呟く。
「典型的な消散だ」
小豆は顔を上げた。
「だから、ここへ来ました」
彩葉が尋ねる。
「修理してほしいんですね」
小豆は、まっすぐうなずく。
「わたし自身を」
沈黙が落ちる。
クロが先に口を開いた。
「簡単じゃないぞ」
「はい」
小豆は苦笑する。
「たぶん、普通の修理じゃありません」
彩葉は何も言わず、作業台を片づけ始めた。
中央へ布を敷く。
香木。
護符紙。
銀の鈴。
そして、小さな素焼きの壺。
クロが首を傾げる。
「それは?」
「仮の器です」
小豆が目を瞬かせた。
「器……?」
彩葉は静かにうなずく。
「付喪神は、物から生まれる存在でしょう」
「はい」
「なら、新しい居場所を作ればいい」
小豆が息を呑む。
クロがくつくつ笑った。
「引っ越しか」
彩葉は少し笑う。
「そんな感じです」
小豆は、自分の透けた指先を見つめていた。
「……そんなこと、できるんですか」
彩葉は答えなかった。
代わりに、鈴を鳴らす。
チリン。
澄んだ音が工房へ広がった。
香木の煙が、静かに漂い始める。
小豆の輪郭が、その煙の中でかすかに揺れた。
彩葉はそっと小豆の手を取る。
冷たい。
それなのに、どこか熱を失いかけた感覚があった。
「怖いですか」
小豆は少し考えた。
それから、小さく笑う。
「少しだけ」
彩葉は静かにうなずく。
「それで大丈夫です」
護符を壺へ貼る。
もう一度、鈴を鳴らした。
チリン。
小豆の身体が、淡い光を帯び始める。
ぼやけていた輪郭が、少しずつ形を取り戻していく。
赤い着物。
黒い髪。
小さな指先。
そして、その光はゆっくりと――
壺の中へ流れ込んでいった。
クロが黙って見守る。
煙が薄れていく。
やがて静寂が戻った。
小豆は、まだ椅子に座っていた。
けれど今度は違う。
ちゃんと“そこにいる”。
輪郭が定まっている。
透けていない。
小豆は震える指で、自分の手を見つめた。
「……まだ、いる」
その声は、泣きそうなくらい小さかった。
彩葉はほっと息をつく。
「新しい居場所ができました」
クロが壺を覗き込む。
「面白いやり方だな」
小豆は壺を大事そうに抱きしめた。
「ありがとうございます」
彩葉は少し肩の力を抜く。
その仕草に、ようやく緊張が解けた気配が滲んでいた。
「この工房、境界の上にありますから」
クロがにやりと笑う。
「人ならざる者の避難所にはちょうどいい」
小豆は工房の中を見回した。
古い棚。
修理道具。
木の匂い。
やわらかな灯り。
そして最後に、彩葉を見る。
「ここに置いてください」
彩葉が目を丸くする。
「ここに?」
「はい」
小豆は、今度ははっきり笑った。
「ここにいたいです」
クロが笑う。
「助手が増えるな」
小豆は嬉しそうに何度もうなずいた。
「頑張ります」
彩葉は少し驚いたあと、やさしく笑う。
「じゃあ、お茶の淹れ方から教えますね」
小豆の目が輝く。
「はい!」
その瞬間。
チリン。
風もないのに、ベルが小さく揺れた。
少し前まで静かだった工房が、
また少しだけ息づく。
忘れられたものたちが、
帰ってこられる場所みたいに。
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