
卵が先か🥚鶏が先か🐔
私は、自分のことが『好き』でも『嫌い』でもない。
容姿は地味だし、身長は低い。
どこにでもいるオバさんだ。
そんな私が一つだけ胸を張って自慢できることは『メンタル最強』と周りから言われることだ✨
私が4歳のとき父親が病死した。
母親は30歳、兄は5歳だった。
父親の記憶はほぼない。
顔も覚えていないので写真を見ても「誰?」って感じ。
少しだけ覚えているのは、父親のお葬式。
当時、団地住まいだったので、お葬式は団地の敷地内にある集会所で行われた。
4歳の私は普段着たこともないような白いワンピースを着せられ、親戚の人が写真を撮ってくれることに喜んでいた。
そして、みんなが集まるど真ん中で父親が「なぜ?」布団で爆睡しているのかわからなかった…
「お父さん、恥ずかしくないのかなぁ…」と母親を見上げると泣いていたので、今は何も言わない方がいいのだと思い黙って寝ている(正確には亡くなっている)父親を眺めていた。
父親が急に亡くなり母は物凄く大変だっただろう。
なのに小さな私は、幼稚園に行くのがイヤで毎朝、家の柱に掴まって登園を断固拒否して母を困らせていた。(母親は早く仕事に行きたかっただろうなぁ)
幼稚園なんて大嫌い!!
それでも当然、無理矢理連れて行かれた幼稚園。
そんな時私は、先生の目を盗み!すぐに一人で幼稚園を脱走していた。
(幼稚園は大パニックだったことでしょう…)
脱走先は近くで働く母親の仕事場。
幼稚園を脱走して来た私を母は怒鳴りつけて怒ることはなく「仕事が終わるまで大人しくしていなさい。」と言うだけだった。
何度か怒られたのかな?覚えてないや…
母の職場の人は気を使ってお菓子やおやつをくれた😊そのお菓子を食べながら母の仕事が終わるのを待った。
ちなみに、脱走なので裸足👣だ。笑
幼稚園と職場が近かったので昼休みに母親が幼稚園へ靴を取りに行き(謝罪)、私は家に戻された。
幼稚園へ行くくらいなら、一人で家で留守番している方がよかった。
友達がいなかったわけじゃない、ただ『幼稚園がキライ!』だった。
歌いたくもない歌。走りたくないのに運動させられることが不快だ。
最悪なのは『弁当の日』。
普段は母親の手作り弁当なのだが、月に何度か週末の土曜日だけ幼稚園が用意する弁当をみんなで食べる。
来年、小学校へ進学するための『給食』の練習だったのだろう。
弁当の味なんかどうでもよく母親以外の弁当がイヤで一口も食べない私は、担任の先生から「お母さんが迎えに来るまでに食べなさい!食べないなら遊んではいけません😡」と怒られ、他のみんなが遊んでいる中、教室の片隅で一人だけずっと弁当とにらめっこ…
母親が迎えに来るまで一切食べなかった🤣
私は、幼稚園をたびたび登園拒否。
そんな状態でなんとか卒園した。
小学校もキライ!
一番キライな時間は『給食』。
幼稚園のときの地獄が再び…
小1のとき、給食を食べると毎回その場で吐くようになった。
クラスメイトはみんな楽しそうに食べてるのに、なぜ私は食べられないのか…
私にもわからなかった。
ただ身体が受けつけなかった。
毎回、吐くのが怖くてほとんど残していた。
小2。吐かなくはなったが『給食』が嫌い。
配膳された給食には、ほぼ手をつけずに残していた。
担任(女性)が給食の時間が終わり昼休みになって他の生徒が遊び始めても「あなたが食べ終わるまで、昼休みはナシ!」と私の目の前に座り監視された。
この担任の先生は、産休で休職した先生の代わりに1年間だけ赴任して来た若い女性だった。
今(現在)考えれば、担任として初めて受けもつクラスに張りきっていたのだろう。
声の小さかった私は、国語の時間の朗読で「もっと大きな声で読みなさい」と注意され、酷いときは授業を中断して私だけ教室の隅に連れて行かれ先生に発声練習をさせらた。(隅に連れてかれがち…)
出来損ないの私をなんとかしてくれようとしていたんだろう…
当時の私にそんなことは伝わるわけもなく、私はその先生が大っ嫌い!だった🤣
1年後、赴任期間を終え先生の離任式があった。その時、生徒から感謝の気持ちを込めて花束贈呈をすることになり、担任だった先生はクラス代表者として『私』を指名した。
「なぜ?私?😥」
私が花束💐を渡すと、先生は泣きながら私を抱きしめた。
私には先生がなぜ泣いているのか…全く理解できなかった。。。
小3~4。私にとっての人生の転機!
担任の先生はベテランのオジサン先生に代わった。
物腰の柔らかい先生で、私が給食を残しても初めて怒られなかった。
「人それぞれ自由でいいんだよ」って言われたとき、やっと自分が認められた気がした。
気持ちが楽になったからか、自然と給食も食べられるようになった。
その先生は、他人に迷惑をかけなければ「ゆっくり」でも「できなくても」努力していることを認めてくれた。
私は、そのオジサン先生が大好きになった😊
さらに私を変えた出来事が小3のとき、住んでいた団地敷地内で捨て猫(子猫)を拾って飼うことになった✨
猫との出会いが『私』をさらに変えたのだ。
一人の留守番(兄は友達と遊びに行ってるのでいつもいない)が猫がいるおかげで寂しくなくなった。
オス♂猫『サブロー』は、朝、仕事に行く母と一緒に外に出かけ、学校が終わった私と一緒に家に帰る。
サブローは、私のことを『妹』か『弟子』だと思っていたようで…猫としての生き方をいろいろ教えてくれた。笑
虫の捕り方や木登りなど、毎日のようにお手本とばかりに見せられた🤣
私が兄とケンカして泣いていると、優しく慰めてくれる…ことなんてなく
容赦なく「うるせー!泣くんじゃにゃい💢」と腕を噛まれた。。。
余計に泣いた😭
常に自由に強くのびのび生きる術を教えてくれたのはサブローだ。
しかし、サブローは3年後のある日、フラッと出て行ったったきり二度と家に帰って来ることはなかった。。。
サブローは自分の意思で進むべき道を決めたのかもしれない。
小5~6。担任は代わり、若い男性の先生になった。
オジサン先生は別の学校へ転任してしまった。「教頭先生に昇進したんだよ」と母親に教えられた。
しばらく年賀状のやりとりをしていたが、私が20歳頃だったか…「亡くなった」と風の噂で聞いた。
私の『恩師』と呼べる人はこの先生だけだ。
オジサン先生と猫のおかげで登校拒否することなく学校に通うことができた。
少し心が軽くなったのを感じたのはこの頃だ。
小5のある日、母親が猫を拾ってきた。
野良の成猫♂で片目が明らかに失明しているようだった。
野良で生きるのは大変だと思い、拾って来たらしい…
獣医へ連れて行くとやはり「失明」していると診断された。
名前は『イチ』😺
毎度、母が一人で勝手に名前を決めている。
前の猫『サブロー』今回の猫『イチ』
センスが微妙で毎回ちょっとガッカリした…
片目が見えないので外には出さず、可哀相だが団地の狭い部屋の中だけが『イチ』の世界になった。
やはり今回も私は『妹』もしくは『下僕』扱いになった。
イチも気の強い猫だった。
めちゃくちゃ甘えてくるくせに少しでも気に入らないと容赦なく噛まれた。
テレビを見ていてもなによりもイチを優先しないと怒られた。
イチは兄のことが嫌いだった。
兄が近づくだけで逃げる、触ろうとすると威嚇。兄がそれにイライラしてイチに怒鳴ったり、ときには叩いたりするので余計に嫌われていた。
私はイチを守ろうとしてよく一緒に私ごと叩かれた🤣(*子供のときの話ですからね!)
大きな大きな兄に絶対に怯まないし屈指ない猫がただただ凄い!と思った。
イチは全身で「キライなものはキライ!」と訴えていた。少しも媚びない。
猫みたいになりたかった。
自由で気ままで自分の世界を持っている。
私は、猫といるときが一番幸せだった。
勉強は苦手。好きな教科は国語と音楽と図工。それ以外は興味ナシ。
理科なんて一番キライ…
いつだったか、テストで『太陽が昇る方角は?』と出題されたとき『西』と解答した。
だって「天才バカボン」の歌詞にあったから…テスト問題が返却されて初めて間違っていることを知った。「天才バカボン」を信じた私が馬鹿だった。。。
国語は好き!漢字も好き!
本を読むのが好きだったからだ。
マンガも本(小学生用の)も自分の知らない世界を体験しているよう
で楽しかった。
運動は大の苦手。。。
走るの遅いし、動きも鈍いし、得意なのはマット運動くらいだ。
だから同級生から「バカ」とか「運動音痴」と悪口を言われても気にならなかった。
だって事実(本当)だから。
私は、本当のことを言われても傷つかないし怒らない。
「色黒」も「チビ」も同じ。
自分も認めていることをいくら言われても平気だ。だって事実だから。
悪口を言っても泣かないし無反応の私はイジメ甲斐がなかったのだろう。
さらに私の兄(一つ上)は小学校でジャイアンみたいな人だった。
同級生の男子は兄が恐くて私をイジメてこなかった。
私は、友達には恵まれていたので、女子からイジメられることはなかった。
いつも一緒にいてくれる友達が二人いてくれたし、他の女子ともそれなりに仲良くしていた。
一部イジメ女子グループがいた。
その中で仲間割れが起きたことがあった。
「明日から○○ちゃんのこと無視しよう!」と私にも声をかけてきた。
私は「イヤ」と言った。
別に正義感ではない。ただ『無視』をする意味が理解できなかったからだ。
私はイジメっ子と仲良くしようとも思わないが無視したいとも思わない。
必要とあれば今までどおり接するつもりだ。
『NO』を言ったら私がイジメの標的になるかも!?なんて思いもしなかったし、例え一人になっても平気だ。
学校さえ終われば大好きな猫に会える。
もともと学校なんて好きじゃないしどうでもよかったのだ。
その後も私が標的になることはなかった。が、○○ちゃんは一人ぼっちになっていた。
私は善人ではないので、手を差し伸べることはしない。でも無視もしない。それだけだ。
母親は、周りのみんなと少し違う私を一度も否定したことはなかった。
「みんなやってるよ!」「普通はみんなそうだよ!」「みんなできるのになんでできないの?」なんて、家で言われたことはない。
学校ではしょっちゅう言われたけど…
小1の頃『給食』の件で母親が学校に呼び出されたことがあったらしい…
「ウチの子(私)は、こういう娘なんです。給食を食べないなら食べさせなくていいです。」と言って私が慣れるまで「ほっておいてください。」と頼んだそうだ。
私が大人になってからそんなやりとりがあったことを教えられた。
もう一つ、小5のときにも担任の先生から「学校での服装」のことで注意連絡があったらしい…
それすら教えてくれなくて、なんにも知らずにいつもどおり登校していたよ😞
それは私にすぐ注意しようよ!お母さん~
別に特別優しい母親なわけじゃない。
もちろん母親に何度も叱られたことはある。
なにをしでかしたかは覚えていないが母親に「お前なんて出て行け!!」と怒られたことがある。小5くらいかな?
洋服を鞄に詰めて言われたとおり家を出て行こうとしたら「荷物は置いてけ!」と言われた。
ポケットに小銭だけ入れて、最寄り駅へ向かって歩いていたら、母が慌てて追いかけてきて家に連れ戻された。本当に出て行くとは思わなかったらしい…
母親は「この娘(私)に脅しは通じない」と思い、この件以来二度と叱るときに「出て行け」と言わないと決意したそうな。
兄は、この一連の出来事をみていて「コイツ(妹)はスゲー奴」だと感心したらい🤣「俺にそんな勇気はない」って。
兄との想い出も変なことばかりだ。
母子家庭の私は母から「お母さんがいないとき、お兄ちゃんの言うことをよく聞くのよ!」と言いつけられていた。
年子なのに兄は平均よりも大きく育ち、妹の私は平均よりも小さかった。
なので、一つ上でも私から見れば大人に見えた。
私が7歳、兄が8歳くらいの頃。
雷が鳴るほどの大荒れの天気、二人で母親の帰りを待っていた。
窓の外で光る雷を見て兄が私に「(私)ヘソを隠して机の下に隠れろ!」と言った。
私は兄の言うとおり、ヘソを両手で隠して机の下へ潜って雷が止むのをまっていた。
なにかが違うことに気づくのは何年後かだ…
私はある意味素直なので、言われたとおり「兄の言うことを聞く」を実行していただけ。
兄は兄で「妹を守る」と母親と約束をしていたのだろう…
「イジメられたらすぐオレに言えよ!」と頼もしいことを言われた。
私は私が『嫌い』だった。
みんなが普通にできることができないし、愛想もない。
だけど、オジサン先生と出会った。
可愛い可愛い猫😺は『師匠』になった。
母親が『私』を否定しなかった。
友達がいつもいてくれた。
周りのみんなが『私』を認めてくれた。
私が私を嫌いなのに、私が大好きな周りの人たちが私を好きだと言ってくれた。
だから私も自分を認めることにした。
いつも下を向いて歩いていたのを意識的に上を向いて歩くようにした。
そしたら今度は上ばかり見てよく転ぶようになった…
イヤなことがあっても「10分後の楽しい未来」を想像して乗り越えることにした。
私の不思議な行動や動きで周りが笑ってくれることに気づいた。
だから失敗をしても笑い話にした。
母親や友達が笑って聞いてくれることが嬉しかった😆
私は私の『普通』と一般的な『普通』が違うことを受け入れて楽しく生きていくことを最優先することにした。
ときどき空気の読めないヤバイ子になってたんだろうなぁ…
これは、生まれ持った特性なのか?
環境が私を変えたのか?
今では『メンタル最強』と言われるくらい受け流すのが上手になった。
でも、私の出会った人み~んな優しかったから。きっとそのおかげなんだろう。
『嫌い』だった私が、『好き』でも『嫌い』でもなくなった。
それだけで充分だ。