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投資と文明の記録 #02違うまま、同じ場所にいる


    1章 自由の匂いがした夜


    2000年代初頭、私はロックやテクノ、クラブミュージックに夢中だった。そしてやがて、野外レイブと呼ばれる文化に惹かれていく。

    今の若い世代には馴染みがないかもしれない。
    山の中や海辺に巨大なサウンドシステムを設置して、夜通し音楽を鳴らし続けるイベントだ。
    Solstice、Vision Quest、そして名前も知らないシークレットレイブ。開催されると聞けば、仲間たちと車を走らせた。SNSなんてない時代で、情報は口コミやフライヤー、友人から回ってくるメールだった。

    山の中に辿り着くと、突然別の世界が現れる。巨大なスピーカーから鳴り続ける重低音。焚き火の煙と土の匂い。ナグチャンパの甘い香り。足元に置いた2リットルのペットボトル。朝まで踊り続ける人々。今思えばほとんど部族の儀式のようなものだったが、当時の私には、その光景がとてつもなく新しく見えた。

    そこには本当に様々な人がいた。環境問題について語る人もいれば、ただ音楽を楽しみに来ている人もいる。アーティストもいれば会社員もいた。家族連れの姿もあったし、ごく普通のお父さんが缶ビール片手にニヤニヤしながら踊っていることもあった。外国人の姿も珍しくなかった。国籍も職業も年齢もバラバラだったのに、不思議と、それが当たり前だった。

    思想も立場も違う。何を信じているのかも分からないまま、同じ音楽を聴き、同じ場所にいる。それが不思議と成立していた。当時の私はそれを、自由と呼んでいた。

    でも今振り返ると、あの場所で感じていたものは、
    自由だけではなかったのかもしれない。

    2章 レイブ会場は、多様性の実験場だった



    当時の私は、多様性という言葉を意識したことがなかった。ただ音楽が好きで、自由な空間に目を奪われ、その場にいることが心地良かった。

    あの場所には驚くほど様々な人たちが集まっていた。長髪のヒッピー、外国人のバックパッカー、家族連れ、昼間は何をしているのか想像もつかない人。それぞれ服装も価値観も生き方も違っていたが、誰もその違いを気にしていなかった。

    会場には様々な思想も存在していた。反戦を訴える人がいて、原発反対のメッセージを掲げる人がいた。オーガニックフードのキッチンカーが並び、環境問題について語り合う人たち。あの場所は単なる音楽イベントではなく、一つのコミュニティだったのだと思う。

    フロアでは目が合えば微笑み合う。ドリンクや食べ物を分け合う。コンタクトレンズを落とした人がいれば、周りの人たちが一緒になって必死に探す。名前も知らない相手と朝まで語り込むこともあった。

    彼らがどんな政治的立場なのか、どんな仕事をしているのか、どんな思想を持っているのか。そんなことを気にする人は、ほとんどいなかったと思う。ただ同じ音楽を聴き、同じ場所で夜を過ごしている。当時の私たちには、それだけで十分だった。

    最近になって、ふと思うことがある。

    私が多様性というものを初めて体験した場所は、会社でも学校でもなかったのかもしれない。あのレイブ会場だった。


    3章 世界は思ったより複雑だった


    長く世界を見続けるうちに、社会というものは自分が思っていた以上に複雑な仕組みの上に成り立っていると感じるようになった。

    昔は物事をもっと単純に考えていた。戦争は良くない。環境は守るべきだ。権力は監視されるべきだ。レイブ会場で出会った様々なメッセージに自然と共感していたのも、当たり前のことだった。

    しかし投資を始めてから、見ている世界が少しずつ変わっていった。企業を調べているつもりが産業全体を見るようになり、AI企業を追っているつもりが電力問題に辿り着く。データセンターを調べているうちに、安全保障や地政学に行き着き、気がつけば社会全体の構造を考えるようになっていた。

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    そんなことを改めて感じたのは、長年好きだったMassive Attackの最近のライブ映像を見た時だった。ライブではPalantirを批判する映像演出が使われていた。観客の顔を認識し、個人情報を表示する架空の監視システム。AIによる監視社会への警鐘。彼ららしい強いメッセージだった。

    正直に言えば、少し複雑な気持ちになった。若い頃の私なら、何の迷いもなく共感していたと思う。でも今の私は少し違う。なぜなら私は今、Palantirの株主でもあるからだ。

    もちろん、Palantirが関わるすべてを肯定しているわけではない。だからといって、Massive Attackの主張を否定したいわけでもない。矛盾しているようだが、今の私には、どちらの言い分にも理解できる部分がある。

    Palantirのような技術は国家や企業にこれまでにない情報処理能力を与える。しかしその力が監視や管理という側面を持つこともまた事実だ。AIを支えるデータセンター建設に反対する人たちにも、環境への影響や地域社会への負荷を心配する声には十分な理由がある。一方で、AI文明を支えるためには巨大なインフラ投資が必要なこともまた事実だ。

    技術を推進する人にも理屈があるし、反対する人にも理屈がある。自由を守ろうとする人にも理屈があり、安全保障を重視する人にも理屈がある。その多くは、完全な善でも悪でもない。

    私が賢くなったからではなく、ただ、世界が思っていたより複雑だったことを知ってしまっただけだと思っている。


    4章 違うまま、同じ場所にいる


    改めて思うことがある。
    誰かを論破したところで世界が平和になるわけではない。相手を否定したところで、自分の正しさが証明されるわけでもない。

    そんなことを考えていると、お釈迦さまの有名な逸話を思い出す。悪口を浴びせられた時、お釈迦さまは反論しなかったという。理由を問われると、「客のために用意した食事を相手が受け取らなければ、その食事は誰のものになるのか」と問い返した。受け取られなかった贈り物は、差し出した人の元へ戻る。怒りもまた同じだと。

    若い頃の私は、正しいと思うことを伝えれば、人は少しずつ理解し合えると思っていた。しかし今は、すべての人を説得することは困難だし、すべての対立を解決することは容易ではないことを知っている。

    それでも、思考を止めるつもりはない。

    違う価値観を持つ人が存在することを認めながら、自分自身は考え続ける。それくらいの距離感が、人間にとってはちょうどいいのかもしれない。

    そう考えるようになった時、私は再びあのレイブ会場を思い出していた。全員が同じ考えだったわけではない。服装も、生き方も、価値観もバラバラだった。
    今思えば、正反対の考えを持っていた人もいたのだろう。

    それでも同じフロアに立ち、同じ音楽を聴き、同じ朝日を見ていた。それでも同じフロアに立ち、同じ音楽を聴き、同じ朝日を見ていた。

    あの場所で感じていた自由とは、誰かを自分と同じ考えに変えることではなく、違いを抱えたまま同じ場所にいられることだったのかもしれない。


    5章 未来の隣人たちへ


    3章、4章を書きながら、一つのことを考えていた。

    昔の自分は、人間同士が理解し合うことばかりを考えていたが、AI文明が現実になり始めた今、私たちは人間だけで構成された社会に生きるわけではなくなるのかもしれない。いや、正確には、もう始まっている。

    AIは単なる道具ではなく、仕事のパートナーとなり、相談相手となり、時には友人のような存在になりつつある。AGIへ到達するのか、その先にASIが存在するのか、それが人類にとって幸福なのか危険なのか。
    正直なところ、私には分からない。

    振り返ってみれば、人類は完全に理解し合えたことなど一度もなかったと思う。夫婦でもそうだし、親子でも、国家同士の関係もそうだ。長年好きだったMassive AttackとPalantirもそうかもしれない。そして未来の人間と超知能も、きっと同じなのだろう。

    相手を完全に理解すること。相手を自分と同じ存在に変えること。それが共存の条件だったことは、一度もなかったように思う。それでも私たちは家族を作り、社会を作り、文明を築いてきた。必要だったのは、違いを抱えたまま、それでも共に存在する方法を探し続けることだった。

    若い頃、私は自由を求めてレイブ会場へ向かった。
    今は、AI文明や市場を通して未来について考えている。一見すると全く違う世界を歩いてきたようにも思えるが、振り返ってみると、私はずっと同じことを探していたのかもしれない。

    自由とは何か。違う価値観を持つ者同士は、どうすれば共に生きていけるのか。

    十年後の私は、また違う考え方をしているかもしれない。むしろ、その方が自然だと思う。

    人間には限界がある。

    だからこそ、思考を止めずに考え続ける。少なくとも

    今の私は、それ自体に意味があると思っている。

     
     
    2017年から米国株を長期保有。 AI、資本、国家。 市場だけでは収まらなくなってきた世界の構造変化を追っています。 たまに、深夜に考えていたことを書いています。

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