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臆病な僕らの、正義の話

    朝、鏡を見ると、時々そこにいる自分と視線のピントが合わないように感じることがある。磨き上げられたガラスの向こう側に、僕によく似た、けれど僕ではない誰かが潜んでいて、瞬きをした隙に人生の大切なレバーの主導権を勝手に握られるような、そんな頼りない幻想。
    無数の可能性が交差する雲の切れ間で、別の世界線を歩んでいた僕が、ふとした瞬間に今の僕の指先を借りて、誰かの手を離したり、あるいは強く握りしめたりしているのではないか。

    まるで一つの体に二つの魂が、交互に息継ぎをしながら泳いでいるみたいに。



    桜が狂ったように咲き乱れる季節になった。この時期がくると、僕はあの日の薄ら寒い記憶が蘇る。

    二十四年前。

    ぶかぶかの学生服、真新しいシャツ。僕たちは小学校の体育館で、隣同士のパイプ椅子に座っていた。春の陽だまりのような暖かさを纏う彼と、日陰の湿った空気を好む僕。交わるはずのない二つの軌道は、ただ「五十音順の席が隣だった」というひどく単純な物理法則によって衝突した。

    「君はどうして警察官になりたいの」

    無遠慮に僕のテリトリーに踏み込んでくる彼に、僕はひどく冷めた声で尋ねた。彼は、一切の濁りがないビー玉のような瞳を輝かせて答えた。

    「人を守るってかっこいいじゃん。ほら、テレビでも見るでしょ? 拳銃をバーンって、かっこよく撃ってるシーンとかさ」

    「本当はあんなに撃たないんだよ、警察って。書類仕事の方が多いらしいよ」

    「え、まじ。そーなの」

    今思えば、小学生にしては面白味のない返事だったと思う。僕はいつも大人びたフリをしていた。周りの子供と同じように扱われるのに嫌悪感を抱いていた。

    彼はクラスの中心にいるような、いわゆる人気者だった。彼が笑えば周りも笑い、彼が走り出せば誰もがその後を追った。対して僕は、教室の隅で息を潜め、存在の輪郭をできるだけ薄くして本の世界に逃げ込むような子供だった。

    学校という箱庭は、僕にとってはひどく簡単で、同時にひどく退屈なものだった。毎日同じ時間に同じ場所に足を運び、同じ席に座る。ただ教壇に立つ人の話を聞いて、黒板の文字をノートに写していれば授業は終わる。それを五回ほど繰り返せば一日が無事に終わる。心を波立たせる必要なんてどこにもない。ただ「そこに居るだけ」の透明な幽霊でいれば、誰も僕を傷つけることはできないのだから。

    それでも、彼だけは違った。彼は僕の透明な結界をいとも簡単に通り抜け、土足で踏み込んできた。

    「大輝、お前またここで本読んでんのか? 頭おかしくなっちゃうぞ」

    「いいんだ。僕は、本が好きだから」

    「お前、将来小説家にでもなんじゃねーの。本読むの好きなんだろ? ぴったりだよ、大輝には」

    「無理だよ、僕には。才能ないから。」

    「じゃあ、俺がいつか手本見せてやるよ」

    「君は警察官になるんだろ」

    太陽のように笑う彼を見るたび、僕は少しだけ胸の奥がチクリと痛んだ。眩しすぎたのだ。彼が持つ無根拠な自信も、他者の善意を微塵も疑わない純粋さも。ただここで大事なのは、決して僕は彼に憧れていたわけではない、はずだ、ということ。

    中学生になり、僕はひそかに一冊のノートに小説を書き始めた。

    題名は『ヒーローの秘密』

    誰をモデルにしてその筆を執ったのか、今となっては思い出すのも滑稽だが、胸の奥底にこびりついている感情の残骸だけは、確かに本物だった。彼の真っ直ぐな正義感が、僕の暗い世界に少しだけ光を落としていたことは否定できなかった。

    そうあの時までは。

    あの日は、空がひどく低く、鉛色の雲が垂れ込めていたことを今でも鮮明に覚えている。

    偶然だった。僕と彼は、商店街の古びた時計屋にいた。店主の時計修理が終わるのを待つ間、チクタクという無数の秒針の音が、まるで爆発へのカウントダウンのように店内に響いていた。
    カラン、と乾いたベルの音が鳴り、その男は入ってきた。
    血走った目、異様に荒い息遣い。そして、右手には鈍く光る鋭利な刃物が握られていた。逃走中の強盗犯だった。

    「動くな! 声を出したら殺すからな」

    男の絶叫とともに、静寂だった世界は一瞬にして暴力に支配された。僕たちは店の奥に追いやられ、冷たい壁に背中を押し付けられた。

    「大丈夫だ、俺が守ってやる」

    彼は僕の前に立ち、そう呟いた。
    その背中は、僕が小説に描こうとしていた「ヒーロー」そのものだった。頼もしく、揺るぎない背中。しかし、秒針の音が刻まれるごとに、その背中は小刻みに震え始めた。肩が上下し、彼の横顔を盗み見ると、唇は血の気を失い真っ青に染まっていた。

    「怖いの?」

    「なわけねーだろ、俺は将来警察官になる男だぞ」


    「おい、そこのガキ、なに喋ってる。こっちへ来い!」

    犯人が苛立ちを爆発させ、刃物を振り上げてこちらへ一歩、二歩と距離を詰めてきた。その瞬間だった。
    ドンッ、と強い衝撃が胸を突いた。
    何が起きたのか、一瞬理解できなかった。景色が回転し、僕は犯人の目の前に放り出されていた。
    彼の手が、僕を突き飛ばしたのだ。
    反射的に、無意識に。彼は自分を守るための肉の盾として、僕を犯人の前に投げ出した。
    犯人の刃物が空を切り、床に倒れ込んだ僕の頬を冷たい風が撫でた。直後、サイレンの音と共に警察がなだれ込み、犯人は取り押さえられた。
    僕たちは助かった。傷一つ負わなかった。
    けれど、あの一瞬、僕を突き飛ばした彼の瞳に宿っていた剥き出しの「生存本能」と「恐怖」は、僕の心を完全に殺した。

    その日の夜、僕は冷たい雨が降る中、近所のゴミ捨て場に向かった。
    泥水の中に、書きかけのノートを放り投げた。
    僕の物語は、そこで完全に終わった。
    僕が書いた小説は「ヒーローの秘密は‥‥」という言葉の続きが出てこないまま幕を閉じることになった。

    それからの僕は、文字通り「気配を消して」生きるようになった。
    高校も大学も、ただ波風を立てず、誰とも深く関わることなく、ベルトコンベアの上を流れる部品のように日々を消化した。

    ---------------

    ただ一つ。


    大学時代、僕にも「普通」の体温に触れていた時間があった。
    相手は、他学部の美波(みなみ)という女の子だった。
    彼女は、僕の透明な結界を「そんなの不便だよ。難しい顔しなくていいんだよ。」と笑って軽やかに跨いできた。
    夏の終わり、二人で須磨の海へ行った。
    砂浜に座り、寄せては返す波の音をBGMに、僕たちは三時間も肩を並べて海を眺めていた。会話なんて、途中で使い果たしてしまった。けれど、僕の右肩に触れる彼女の左肩の熱が、僕という個体の輪郭を肯定してくれているような気がして、ただそれだけで世界が完成していた。
    嶋川沿いの、街灯すらまばらな真っ暗な公園。

    「捕まえてみてよ」

    そう言って走り出した彼女の背中を、僕は必死で追いかけた。子供じみた追いかけっこ。暗闇の中で、互いの足音と笑い声だけが頼りだった。

    「捕まえた」

    彼女の細い手首を掴んだとき、そのまま手首を滑らせて指を絡めた。当たり前のように手を繋いで、夜の風を吸い込む。あの時、僕たちは間違いなく、この世界の主役だった。
    五月山の展望台から見下ろした夜景も、車の中の狭い空間で、エンジンの微かな振動を感じながら寄り添い合った時間も。
    誰かと体温を分け合うことが、これほどまでに心を静かに整えてくれるなんて、僕は知らなかった。

    けれど、そんな幸福のパズルは、たった一つのピースの欠如で崩れ去った。

    ある日のデートの帰り道。
    商店街を歩いていたとき、路地裏で大きな破裂音が響いた。ただのタイヤのパンクか何かだったのだろう。けれど、僕の脳裏にはあの時計屋の光景が、フラッシュバックのように鮮烈に蘇った。
    反射的に、僕は美波の手を離し、一歩後ろへ下がった。
    守るためじゃない。隠れるため。彼女を盾にするかのように、無意識に身を翻した。

    「‥‥大輝くん? 怖いの?」

    驚いた顔で僕を見る美波。彼女の瞳には、怯えた僕の姿が映っていた。
    その時、僕は悟ってしまった。
    僕はまだ、あの時計屋に置き去りにされたままだ。誰かを愛していると言いながら、いざとなったら僕は、彼と同じように、あるいはそれ以上に醜く、目の前の人を突き飛ばすだろう。あの日から誰かを愛する。誰かを大切に想う。という意味が分からなくなったのだと思う。

    「ごめん。‥‥僕には、誰かを大切にする資格なんて、最初からなかったんだ」

    それが、僕たちが別れるきっかけだった。
    幸せになればなるほど、自分が「誰かを盾にする臆病者」であるという真実が、鋭いナイフになって僕を切り裂く。
    彼女の温もりから逃げるように、僕は再び孤独な数式の中へと引きこもった。

    ---------------

    大学で応用物理を学び、エンジニアという「感情」ではなく「数値」と「論理」だけが支配する世界を選んだのも、今思えば必然だったのかもしれない。

    中心部からは少し離れたある小さな工場。そこが僕の新しい隠れ家だった。
    毎日、図面と格闘し、機械の摩擦音と油の匂いにまみれて過ごした。
    彼とは、あの日以来一度も会っていない。風の噂で、彼が本当に警察官になったと聞いた時、僕は冷笑を禁じ得なかった。あの日、僕を盾にして震えていた臆病者が、他人の命を守る制服を着る。なんて悪趣味な冗談だろう。彼にとっての警察官という職業は、過去の汚点を隠すための、ただの仰々しい仮面に過ぎないのだと僕は片付けていた。

    工学の世界は、いつだって僕を裏切らない。
    モニターを見つめながら呟く。ボルトの表面に微細な亀裂が走り、次の瞬間、パキンと乾いた音を立てて二つに折れた。

    「破断」
    許容限界を超えた部材が、その形状を保つことを諦め、機能を停止する瞬間だ。

    僕たちの関係もこれと同じだった。
    あの立てこもり事件という、想定外の巨大な「外部応力」。それに耐えられるだけの強度が、僕たちの友情には備わっていなかった。ただそれだけのこと。
    僕は僕を守るために感情を遮断し、彼は自分を守るために僕を突き飛ばした。それは生物として、あるいは物理的な個体として、極めて「自然」な反応だったのだと、僕は自分を納得させてきた。人間はいつだってそんなもので、結局は全て自分を守るための行動だと僕は思っていた。

    「大輝、またそんな暗い顔して鉄屑眺めてんのか」

    背後から、山田さんが呆れたように声をかけてくる。

    「これは鉄屑じゃありません。限界値の測定です。事前にどこで壊れるかを知っていれば、壊さないための対策が立てられる。」

    「相変わらず可愛げのない奴だな。まあ、お前らしいけどよ」

    山田さんは笑って僕の肩を叩いたが、僕はその掌の熱を振り払うように、一歩距離を置いた。
    他人の熱に触れれば、そこに摩擦が生まれる。摩擦はやがて熱を持ち、歪みを生み、予測不能なエラーを招く。
    僕にとっての人生の最適解は、誰とも摩擦を起こさず、期待もせず、ただ設計図通りに一日を終えること。それだけだった。

    あの日から二十年近くが経った。季節が巡るごとに、僕の中の何かは確実に摩耗し、すり減り、やがて何も感じない乾いた石ころのようになっていた。公園のブランコに座り、蟻の行列を眺めながら、自分とその蟻たちの間に一体どれほどの違いがあるのかと考える。ただ決まったルートを歩き、餌を運び、死んでいく。僕の人生も、また同じだった。
    そんな、ひどく平凡で、灰色に塗りつぶされたある日のことだった。

    「大輝、ちょっと手ェ貸してくれ! 近くの町工場で爆発があったらしい!」

    工場の先輩である山田さんの焦燥に満ちた声が、静かな午後を引き裂いた。
    サイレンの音が遠くから近づいてくる。僕は反射的に作業着のまま走り出していた。理由は分からない。ただ、胸の奥で何かがざわついていた。

    現場は凄惨だった。

    老朽化した工場の半分が吹き飛び、黒煙が空を覆い隠していた。崩れた鉄骨、散乱するガラス片、そして逃げ惑う人々の悲鳴。
    僕は野次馬の隙間を縫って、現場の最前線にたどり着いた。
    そこには、崩れ落ちた鉄骨と瓦礫の山があった。そして、その瓦礫の下敷きになりながら、小さな子供をその身で覆い隠している、血まみれの警察官の姿があった。

    「おい‥嘘だろ‥‥」

    泥と血にまみれたその横顔は、見間違うはずもなかった。
    あの日、僕を突き飛ばしたあの腕が、今は見ず知らずの子供を抱きしめ、巨大な鉄骨の重みに耐えていた。

    「おい!! しっかりしろ! 大丈夫か!」

    僕は無我夢中で瓦礫の山に取り付いた。重い鉄骨に手をかけ、火事場の馬鹿力で持ち上げようとする。しかし、素手の力でどうにかなる質量ではなかった。

    「退いてろ大輝! 今レスキューが来る!」山田さんが僕の肩を掴んだが、僕はそれを振り払った。

    「なんだ、、、大輝か、、、」

    かすれた、けれどあの頃と変わらない声が、瓦礫の下から響いた。
    制服は破れ、息をするたびに口から血の泡がこぼれている。それでも彼の瞳は、かつて僕がノートに描こうとしていた、あの「ヒーロー」の目をしていた。

    「喋るな! 今助けるからな!」

    「いいんだ、、、大輝。お前が、手本を、、見せてくれたから、、、」

    「何言ってんだよ! 意味わかんねえよ!」

    「俺、ちゃんと、あの続き」

    そこで、彼の言葉は途切れた。
    抱きかかえられていた子供が泣き声を上げ、遅れて到着したレスキュー隊が鉄骨を持ち上げた時、彼の体はすでに、ただの動かない物体へと変わっていた。
    救急車に運び込まれる彼の顔は、なぜか少しだけ笑っているように見えた。
    病院に搬送された後、医師から告げられた言葉を、僕はどこか遠い世界の出来事のように聞いていた。
    彼の最期のセリフの「続き」が聞けなかったこと。
    それが、どうしようもない後悔となって僕の胸を抉り、空っぽだった僕の心に、真っ黒な感情の渦を作り出した。
    何故、彼はあんな顔をして死んだのか。
    何故、僕に「手本を見せてくれた」なんて言ったのか。
    そして、「あの続き」とは何だったのか。
    答えのない問いが、幾日も僕の頭の中を駆け巡った。

    あれから数日が経った。
    春の陽射しは、誰の死にも無頓着なほどに明るく、容赦なく降り注いでいた。
    アスファルトを焼く微かな匂いと、斎場に立ち込めるむせ返るような線香の匂いが混ざり合い、僕の胃の腑をじわじわと締め付けていた。
    葬儀は、彼の最期が「殉職」という名誉あるものだったせいか、ひどく仰々しいものだった。会場には濃紺の制服を着た警察関係者が溢れ、誰もが悲痛な面持ちで俯いている。すすり泣く声や、形式張った弔辞の言葉が、ガラス越しに見る他人のドラマのように僕の鼓膜を滑り落ちていく。

    祭壇の中心、波のようにうねる白菊の海に浮かぶ遺影の中で、彼は笑っていた。
    警察官の制服に身を包み、少し照れくさそうに、けれど誇らしげに。あの日、時計屋で僕を突き飛ばした時の青ざめた顔とも、崩れ落ちた鉄骨の下で血の泡を吐いていた顔とも違う、僕が一番よく知っている「太陽みたいなあいつ」がそこにいた。

    (ふざけんなよ、、)

    膝の上で組んだ両手に、ぎゅっと爪を立てる。
    立派な祭壇も、並んだ花輪も、大人たちが語る美辞麗句も、すべてが嘘くさかった。
    お前はそんな完璧な人間じゃないだろ。本当は臆病で、弱くて、一番大切な親友を盾にするような卑怯な奴だったじゃないか。

    『いいんだ。お前が、手本を見せてくれたから。俺、ちゃんと、あの続き』

    瓦礫の下で聞いた最期の声が、呪いのように脳内で反芻する。

    何が手本だ。何が続きだ。

    勝手に意味ありげな言葉を残して、勝手に誰かを守って、勝手にヒーローのふりをして死んでいくなんて、あんまりじゃないか。残された僕は、一体この真っ黒な感情をどこへ捨てればいいんだ。

    「大輝、次だぞ」

    山田さんの低く沈んだ声に促され、僕は重い腰を上げた。
    黒い革靴が絨毯を踏みしめる音が、やけに大きく耳に響く。祭壇へ向かう数メートルの距離が、果てしなく遠い一本道のように感じられた。

    遺影の正面に立つ。
    立ち上る一筋の煙の向こうで、写真の中のあいつと目が合った気がした。 

    「、、嘘つき」

    読経の音にかき消されるほどの小さな声で、僕は彼にだけ聞こえるように呟いた。
    抹香をつまみ、香炉に落とす。焦げた匂いが鼻腔を突く。
    目を閉じても、何も浮かんでこなかった。涙すら出なかった。悲しいというより、怒りに似た空虚だった。ただ、胸の真ん中にぽっかりと空いた巨大な空洞に、冷たい風が吹き込んでいるのを感じるだけだった。
    深く一礼をして、踵を返す。
    参列者の波に紛れ込みながら、僕は自分の心が完全に死に絶えてしまったことを悟っていた。
    彼がどんな想いで警察官になり、どんな想いで死んでいったのか。その真実を知るのが怖くて、僕はただ、目を背け続けていた。

    この時の僕はまだ、何も知らない。
    数日後、彼の実家で、一冊のノートが僕のこの空洞を暴力的なまでの「真実」で埋め尽くすことになるなんて、想像すらしていなかった。

    葬儀の喧騒から逃れるように、僕はひとり、爆発事故のあった町工場の跡地へと向かった。
    煤けたコンクリートの匂いと、立ち入り禁止の黄色いテープ。そこには、彼が最後に命を燃やした場所だけが、不自然な静寂を保って存在していた。
    瓦礫の山の前に、一輪の向日葵が置かれているのが見えた。
    それを供えたであろう親子が、少し離れた場所で頭を下げている。見覚えがあった。あの日、彼が身を挺して瓦礫から守り抜いた、あの小さな男の子と母親だ。
    僕は声をかけるつもりもなかったが、母親の方が僕の作業着を見て、はっとしたように近寄ってきた。

    「あの‥失礼ですが、あの日、助けに入ろうとしてくださった方ですよね?」

    僕は曖昧に頷いた。

    「‥‥僕は、何もできませんでした。彼が、あそこにいた警察官が全部やったんです」

    「いいえ、あなたも必死に呼んでくださいました」

    母親は目に涙を溜め、隣にいる息子の肩を抱き寄せた。

    「この子、あの日からずっと言っているんです。助けてくれたお巡りさんの手が、すごく震えていたって」

    その言葉に、僕の思考が止まる。

    「‥‥震えていた?」

    「はい。ガチガチと音がするくらい、足も手も震えていて、顔も真っ青だったそうです。でも、瓦礫が落ちてくるたびに、この子を壊れ物を扱うみたいに優しく抱きしめて、『大丈夫だ、俺が守るから、絶対に目を開けるなよ』って、何度も何度も、、。自分の恐怖を隠す余裕もないくらい、必死に、震えながら‥‥」
    僕は、足元の地面が揺らいだような錯覚に陥った。
    あの日、時計屋で僕を突き飛ばした時、彼は確かに震えていた。それは、自分だけが助かりたいという、浅ましい臆病者の震えだと思っていた。
    けれど、二十年近く経った今の彼は、全く同じように震えながら、それでも今度は逃げなかった。
    彼は「恐怖」を克服した超人になったわけではなかった。
    死ぬほど怖くて、今すぐにでも逃げ出したくて、あの日と同じように足がすくんでいた。それでも、彼は震える腕に力を込めて、見知らぬ子供の「盾」であり続けることを選んだのだ。

    「あのお兄さんは本当にかっこいい、ヒーローだったんだよ。」

    子供の無垢な言葉が、鋭いナイフのように僕の胸の空洞を突き刺す。
    違うんだ。彼はヒーローなんかじゃない。
    君と同じように、死ぬのが怖くてたまらない、ただの臆病な人間だったんだ。

    それなのに、どうして。
    どうしてお前は、その震える腕で、自分以外の誰かを守り通せたんだ。

    母親に会釈をして、僕は逃げるようにその場を去った。
    視界が急に歪んで、うまく歩けない。
    胸の奥に押し込めていた、あの日の冷たい「破断音」が、今さらになって僕の心の中で、猛烈な勢いで鳴り響いていた。

    葬儀から数日が過ぎた。
    僕は充電が切れたみたいに、何もかも失った。仕事も手につかず、話し方すら忘れた。部屋の窓から見える、枯れた木々が今の自分のようで虚しくなった。けれど、どうしても知りたかった。あの言葉の続きを。いやもっと前のこと、なぜ警察官になったのだろうか。あの事件があって彼は警察官を諦めたと勝手に思っていた。

    翌日。
    僕は手当たり次第調べてみることにした。まずは、彼の高校の同級生に。部活の顧問に。両親に、当時のバイト先の先輩に。

    「あぁ、あいつ一回諦めてんだよ。警察官になるの。でもな急にある日目の色変えて、なにか思い出したように頑張り出したんだよな」

    返ってくるのはどれも同じような回答だった。

    葬儀から数日が過ぎ、季節はまた一つ、僕を置き去りにして前へと進もうとしていた。
    風が妙に生ぬるい春の終わり。僕は、彼の両親に呼ばれて彼の実家を訪れていた。
    通された部屋には、まだ新しい仏壇と、線香のむせ返るような匂いが満ちていた。遺影の中で笑う彼は、小学生のあの日から少しも変わらない、太陽をそのまま切り取ったような眩しい笑顔を浮かべていた。

    「大輝くん、あの子の部屋を整理していたら、こんなものが見つかってね」

    母親から差し出されたものを目にした瞬間、心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように跳ね上がった。
    それは、ひどく汚れ、湿気で歪に膨らんだ一冊のノートだった。表紙の端は擦り切れ、乾いた泥のようなシミがこびりついている。

    見間違えるはずがなかった。
    中学生のあの日、絶望と恐怖に塗れながら、僕が冷たい雨の降るゴミ捨て場に放り投げたあのノートだ。

    「どうして、あいつがこれを‥‥」

    震える指で、恐る恐るページを捲る。
    前半には、僕の拙い字で書かれた空想の物語が並んでいた。無敵の強さを持ち、決して迷わない真っ直ぐな主人公。僕が彼に投影した、偽物のヒーロー。
    その文字は、あの事件が起きた日の描写を最後に、ぷつりと途切れている。
    しかし、雨水でインクが滲み、空白になったはずのその次のページには、不格好で、けれど力強い別の筆跡が、余白を埋め尽くすように続いていた。

    『今日からは、俺がこの小説の続きを書こうと思う。』

    文字の群れが、僕の脳内で彼の声となって再生される。

    『大輝。あの日の俺は、世界で一番の臆病者だった。犯人の刃物を見た瞬間、足がすくんで、頭が真っ白になって、気づいたら一番大切な親友を盾にしていた。お前を突き飛ばした時の、あの軽い感触が、今でも毎晩夢に出る。』

    息が止まりそうだった。ページを捲る手が震えて、うまく力が入らない。

    『あの日、お前がゴミ捨て場にこれを捨てるのを見た。泥まみれのノートを開いて、俺は泣いたよ。お前が俺をモデルにして、こんなにかっこいい「ヒーロー」を描いてくれていたなんて、知らなかったから。お前は自分には才能がないなんて言ってたけど、俺にとっては、これが世界で一番すげえ物語だった。』

    『俺はお前が描いたヒーローには程遠い、ただのクズだ。でも、だからこそ、警察官になるしかなかった。お前の物語に恥じない人間になるために。あの日からずっと、俺はお前が描いてくれた「手本」を追いかけてる。』

    ノートには、彼が警察官として生きた日々が、赤裸々な日記のように綴られていた。
    厳しい訓練での挫折、現場で直面する凄惨な現実。そして何より、彼がずっと抱え続けていた「恐怖」について。

    『怖い。毎日がたまらなく怖い。サイレンの音を聞くたびに足が震えるし、本当は逃げ出してしまいたい。
    でも、その怖さを知っている奴だけが、本当の意味で誰かを守れるんだって、お前の物語が教えてくれた。傷つく痛みがわかるから、人は誰かの盾になれるんだって。』


    最後のページに書かれた日付は、あの工場爆発事故の日の朝だった。

    『ノートももうすぐ終わる。大輝、次に会ったら、今度こそ謝ろうと思う。そして、俺の生き方で描いたこの続きを、お前に返すよ。』

    ぽたり、と。
    ノートの余白に水滴が落ちて、小さな染みを作った。それが自分の涙だと気づくのに、少し時間がかかった。

    人生には、どうしようもなく道を見失う夜がある。逃げた自分を嫌いもう一歩も歩けないと、膝をつく日もある。果たして、そんな日が無いことが幸せか、あることが幸せかは今の僕にはまだ分からない。
    けれどいつか。
    瓦礫の中から助けられた子供が笑う瞬間に。冷たい雨が上がって、桜の狂い咲きがただの美しい色に変わる瞬間に。

    「生きていてよかった」と、震える声でこぼせるその一瞬に出会うために、僕らは泥を啜りながらでも、歩みを止めず旅を続けるのかもしれない。

    彼はずっと、僕の言葉を抱きしめて生きていたのだ。
    僕が恐怖から逃げて捨ててしまった夢を、彼はその身を挺して、現実の世界で書き続けてくれていた。瓦礫の下で彼が最期に言った「手本」とは、僕が書いたこの拙い物語のことだったのだ。
    ヒーローは、最初から強いわけじゃない。
    とてつもない恐怖を知り、己の底知れぬ弱さを知り、醜さを知り、足の震えを隠しながら、それでも誰かのために一歩を踏み出せる人間のことを、本当のヒーローと呼ぶのだ。

    彼は、自らの命と引き換えに、僕にその「真実」を教えてくれた。

    僕は、ずっと着たままだった作業着の胸ポケットから、一本のボールペンを抜き取った。

    僕は、僕自身の痛みと、彼が確かに生きた泥臭い証を、言葉にして残さなければならない。

    彼が教えてくれた。

    僕らはどこまでも臆病で不完全だ。けれど、その弱さや痛みを抱えたまま、誰かのために一歩を踏み出すことをあいつは『正義』と呼んだ。
    届かなくても、もう一度、言葉を紡ごう。

    インクの掠れたペン先を、ノートの最後の真っ白なページに力強く押し当てた。


    その時、ふとある言葉を思い出した。

    一つの粒子は、観測されるまで複数の状態を同時に生きるのだという。あの日、瓦礫の下で震えていたのは、彼であり、僕だった。子供を守り抜いたのは、僕であり、彼だった。

    境界線はとうに、春の雨に溶けて消えていった

    僕は最後の一行を書き添える。
    それは、僕という一人の人間の中に棲む二つの魂への手向けだった。

    『臆病な僕らの、正義の話』

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