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また、降りてきた

    あらすじ

    バンドの作詞担当・水無月さく(27歳)は、メンバーの感情を「採取」して歌詞を書く。
    駐車場で盗み聞いた言葉の断片、メンバー間に仕込んだ小さな嘘、計算された亀裂——傷ついた人間の声からこそ最良の素材が生まれる。観察者として、さくはいつも安全な側にいた。自分が最初から観察されていたと知るまでは。
    「俺にはお前の方が面白い素材だった」
    採取する者が、採取される。初めて自分の傷の形を言葉にした夜、さくは気づいた——痛みの輪郭をなぞりながら、嬉しかった。これが狂気でも、業でも、かまわない。また、降りてきた。
    音楽の現場に生きる作詞家の、残酷で美しい創作の循環を描くお仕事小説。全7章、約21,000字。


    第一章

    スタジオの空気は、いつも少し遅れて届く。

    外の音が完全に死んでいるせいだ。防音扉の向こうで世界が動いていても、ここでは三秒前の空気が漂い続ける。その遅延が好きだった。感情が追いついてくる前に、私は次の観察に移れる。

    十九時四十分。セッション開始まで二十分ある。

    キーボードの電源を入れると、スタンバイのLEDが青く点灯した。音は出ない。ただ光る。私はその青を見ながら、昨日書いた歌詞の一行を頭の中で転がした。

    愛してたわけじゃないけど、お前の声だけ、覚えてる。

    出所は、六日前の木曜日だ。

    スタジオ裏の駐車場、深夜一時過ぎ。宮下がタバコを吸いながら、誰かに電話していた。私はちょうど自販機に向かっていて、声が聞こえた。「愛してたわけじゃないけど」という言葉だけが、冷えた夜気の中で妙に鮮明だった。残りは聞こえなかった。聞こえなくていい。あの七文字で充分だった。

    私は缶コーヒーを買い、聞こえなかったふりをして戻った。

    その夜のうちに書いた。「お前の声だけ、覚えてる」は私が足した。宮下が電話の相手に言った言葉かどうか、知らない。知る必要がない。あの声に含まれていた何かを、私なりに完成させた。それだけのことだ。

    書き終えて、推敲した。

    言葉の精度を確認するために、声に出して読んでみた。深夜の自室で、誰にも聞こえない声で。「愛してたわけじゃないけど」という七文字が、口の中で転がると、意味よりも音の形が先に来た。「あいしてた」の母音の連なりが、「じゃないけど」の破裂音で切れる。その切れ方が、言い訳に似ていた。

    言い訳をしながら、何かを手放せない人間の声だ。

    宮下がそういう声で話していたかどうかは、わからない。夜の駐車場で、背中しか見えなかった。しかしあの七文字は、確かにそういう声の形をしていた。言葉の形と、声の形は、必ずしも一致しない。しかし時々、完全に一致することがある。あの夜の宮下の言葉は、一致していた。

    だから使えると思った。

    問題は、宮下がその歌詞を見たとき、誰に向けて書いたと思うか、だ。

    梨緒に向けて書いたと思うかもしれない。あるいは、誰でもいい誰かに向けて書いたと思うかもしれない。どちらでも構わない。大事なのは、宮下自身の言葉の断片を使ったという事実が、歌詞の中に潜んでいることだ。それを宮下が気づくか気づかないかが、最初の仕掛けになる。

    気づいたとしても、「偶然です」と言える余地を残しておいた。言葉は共有物だ。同じ言葉が別の人間の口から出ることは、珍しくない。それを証明することは、誰にもできない。

    扉が開いた。

    梨緒が入ってきた。コートを脱ぎながら、「寒い」と言った。今日の東京は四月にしては冷えていた。彼女はそういう言葉をよく言う。感想なのか、誰かへの話しかけなのか、自分への確認なのか、判然としない言葉を。聞いた側が勝手に解釈して、勝手に意味を持たせる。彼女はそれを意図的にやっているのか、無意識なのか、私にはまだわからない。

    「ストーブ、つけようか」
    「いい。すぐ暑くなるから」

    そう言って彼女はマイクスタンドの前に立ち、何も言わずに喉を鳴らした。ハミングでもない、発声でもない。何かを確かめるような、低い音。

    梨緒の声は、彼女自身が自覚しているより複雑な構造をしていると、私はずっと思っている。表面には澄んだ高音がある。しかしその下に、もっと暗い、質量のある音が眠っている。それが出てくるのは、歌詞に何かが刺さった瞬間だ。刺さったかどうかは、声の輪郭の変化でわかる。ほんの一ミリの差だが、私には聞こえる。今夜、その変化が出るかどうかを、私は見ていた。

    私は楽譜を広げ、問題の一行に視線を落とした。

    Aメロの四行目に置いた。サビではない。もしサビに置いたら、全員が意識する。Aメロの四行目なら、二回目のサビを過ぎたあたりで誰かが気づく。そのタイミングを計算した。

    宮下が気づくのは、たぶん二回目の通し練習だ。

    梨緒が気づくのは、それより早い。初見で読んだ瞬間かもしれない。彼女はそういう女だった。言葉の裏側を嗅ぎ分ける鼻を持っている。あるいは、嗅ぎ分けたいという欲望を持っている。どちらかは、まだわからない。

    問題はその後だ。

    梨緒が気づいて、宮下を見る。宮下が気づいて、梨緒を見る。そのとき、この歌詞の「お前」は誰なのかという問いが、二人の間に生まれる。

    誰に向けた「お前」なのか、私は書いた本人として知らないふりができる。

    実際、知らなくていい。

    あの駐車場で宮下が電話していた相手が誰であれ、この歌詞の中の「お前」はもはや特定の誰かではない。言葉は書かれた瞬間に作者から離れる。私はそう信じている。便利なので。

    扉がまた開いた。

    宮下、中村、塩田が連れ立って入ってきた。コンビニ袋の音、笑い声、誰かのコートが機材に引っかかる音。スタジオに人間が増えると、空気の密度が変わる。遅延していた空気が、急に追いついてくるような感覚がある。三人それぞれの、今日持ってきた感情が混じって、別の温度の空気になる。

    「さく、今日の新曲、もう譜面あがってる?」

    宮下が言った。

    「はい」と私は答えて、楽譜を差し出した。

    受け取る手の動作を見た。指先、視線の動き、最初に読むのがタイトルか歌詞か。宮下は歌詞から読む男だった。楽曲を音ではなく言葉で最初に理解しようとする。その癖は、バンドを組んだ最初の頃からそうだった。楽器を持つ前に言葉を持つ人間だ。このバンドより前、別のプロジェクトで一夜だけ同じスタジオに居合わせたことがある。深夜三時、宮下が書きかけて丸めたメモ用紙が卓上に残っていた。私は拾って、三行だけ読んだ。読んだ瞬間わかった。この男の言葉は、頭で選ばれていない。体から滲み出てくる。そういう人間の言葉は、素材として信用できる。

    良かった。計算通りだ。

    梨緒は逆に、コード進行から入る。音の構造を先に把握してから言葉を乗せる。だから梨緒がこの歌詞に気づくのは、一度通して演奏した後になる。

    二人のタイムラグが、一番大事なのだ。

    宮下が先に気づき、顔に出す。その顔を梨緒が見て、何かを読む。梨緒がまだこの歌詞を読んでいない段階で、すでに宮下の表情という情報が梨緒に届く。二重のノイズが生まれる。

    私はキーボードの鍵盤に指を置いた。

    音は出さなかった。ただ、置いた。

    スタジオの換気扇が低く回っている。誰かがコーヒーの缶を開ける音がした。中村がドラムのチューニングをはじめる音が、バチバチと不規則に鳴った。塩田がベースのシールドを差し込む乾いた音がした。それぞれの準備の音が重なって、これから音楽になろうとしている前の状態を作っていた。

    音楽になる前の音が、好きだ。

    まだ何でもない音が、これから意味を持つ前の、素材のままの状態。

    この夜の私も、同じだった。何を採取するかを決めないまま、ただ配置に着いていた。

    何気ない夜だ。

    誰もまだ、何も知らない。

    私だけが知っている。

    知っている側にいることの静けさを、私はこれまで自然なものだと思っていた。知ることと、知らないことは、対等ではない。知っている方が、多くのものを見える。多く見える方が、より正確に動ける。それは事実だ。

    しかし今夜、スタジオの空気の中に座りながら、その静けさが少し違う質感を持っていることに気づいた。

    気づいた、という言葉が正確かどうかはわからない。予感、の方が近いかもしれない。何かがこれから変わるという予感ではなく、何かがすでに変わり始めているという感覚。

    それを言葉にしようとして、できなかった。

    できなかったので、保留にした。

    保留にしたまま、クリックトラックを確認した。セッションの準備を続けた。

    それで充分だと、このときはまだ思っていた。


    第二章

    その夜の練習は、二時間十七分で終わった。

    私はいつもタイムを計る。感情ではなく数字で記録する癖が、いつからかついていた。二時間十七分という数字は、バンド結成以来、最も短いセッションだった。

    原因は明白だ。

    「この歌詞、どこから持ってきたの」

    一回目の通し演奏が終わった直後、宮下が言った。楽譜から目を上げず、声だけが飛んできた。

    「書きました」と私は答えた。「Aメロの四行目、気になりましたか」

    「気になるとかじゃなくて」

    宮下は楽譜を置いた。置き方が、いつもと違った。端を揃えず、少し乱暴に。

    「俺が言ったやつだろ、これ」

    「何をですか」

    「愛してたわけじゃないけど、って」

    私はキーボードのボリュームノブに触れた。動かさなかった。ただ触れた。手を止めることなく、触れたまま、少し考えるような間を作った。考えているのではなかった。考えているように見える間を、作った。

    「宮下さんがそういう感じの言葉をよく使うな、って思ってたんで、そこから書きました」

    嘘ではない。そう思ったのは本当だ。ただ、理由を一つしか言わなかった。

    「よく使う?俺が?」と宮下が言った。

    「はい。なんか、あの……否定から入るというか」

    これも嘘ではない。ただ、出所が駐車場の夜だということを言わなかった。言わなかっただけで、他は全て本当のことを言った。

    宮下は少し黙った。反論できない、という顔をした。反論できないのは、心当たりがあるからだ。心当たりが何かを、私は知らなかった。知ることが目的でもなかった。

    沈黙が来た。

    スタジオの換気扇だけが鳴っていた。中村がスティックを指で回す音がした。止まった。

    梨緒はマイクスタンドの前で、楽譜を持ったまま動かなかった。彼女がいつ気づいたか、私は見ていた。一回目のサビを終えて二番のAメロに入ったとき、一瞬、声が揺れた。ほんの〇・五秒ほど。プロが聴かなければわからない揺れ方だった。中村も塩田も気づかなかった。宮下は演奏中だったので見えなかった。

    私だけが見ていた。

    梨緒の声が揺れた原因を、私はまだ確定していない。歌詞の出所に気づいたのか。それとも歌詞の内容そのものが、彼女自身の何かに触れたのか。宮下との間に何かがあるのかは、私には聞いていない。聞いていないが、聞いていないことで答えが浮かんでくることがある。

    どちらでもいい。どちらであっても、今夜のこの揺れは記録しておく価値がある。

    「もう一回やろう」

    梨緒が言った。

    全員が彼女を見た。彼女はまっすぐ前を向いていた。誰も見ていなかった。宮下を見ないことで、宮下を意識していることが、よくわかる構図だった。

    「Aメロから。テンポ、少し落として」

    宮下が何か言いかけて、やめた。楽器を構えた。中村がスティックを持ち直した。

    二回目の通し演奏が始まった。

    テンポを落としたせいで、歌詞の一つ一つが空気に長く残った。特に四行目。愛してたわけじゃないけど、お前の声だけ、覚えてる。その小節だけ、全員の呼吸が浅くなった。聴いているのではなく、受け取っているような状態になった。音楽の演奏中に、演奏者が聴衆に変わる瞬間がある。その瞬間が来た。

    演奏が終わった。

    誰も何も言わなかった。

    三秒、五秒、十秒。

    換気扇の音だけがあった。

    最初に声を出したのは塩田だった。「……いい曲じゃないか」と、少しかすれた声で言った。塩田は感想をあまり言わない男だ。言葉を持て余している、という印象がある。言葉を発することに、エネルギーをかけすぎる人間だ。だから「いい曲」というたった三文字に、何が含まれているか、その三文字だけでは正確にわからなかった。

    わからない、というのも記録しておく。

    宮下は楽器を片付け始めた。早かった。こういうとき、彼はよく早く片付ける。外に出たいのではなく、何かから離れたいときに、近くにあるものを片付ける。その癖も、記録済みだ。梨緒は少しの間マイクの前に立ったままで、それから静かにコートを取った。二人は目を合わせなかった。私は見ていた。合わせなかった、という事実をたしかめた。

    二時間十七分。

    いつもより短く、密度だけが高かった夜。

    帰り際、中村が私の隣に並んだ。エレベーターを待ちながら、「さく、最近調子どう」と聞いてきた。

    「普通です」

    「そうか」と彼は言って、それ以上何も言わなかった。

    エレベーターのドアが開いた。全員が乗り込んだ。私はいつも扉の近くに立つ。扉の近くが、全員の表情を見やすい。

    地下まで降りる間、誰も何も言わなかった。四人がそれぞれの沈黙を持ったまま、ドアが開いて、外に出た。

    駅までの道で、私はスマートフォンのメモを開いた。

    今夜すくい取ったもの。

    宮下の楽譜の置き方。梨緒の声の揺れ。塩田の「いい曲」の質感。中村の「調子どう」の唐突さ。

    「調子どう」の意味を、帰り道に何度か考えた。いつも聞かれる挨拶ではなかった。「最近」という言葉が先についていた。「最近、調子どう」は、今日だけでなく、何日か分の状態を聞いている。それをエレベーターの前で聞いた。

    何かを確認しようとしたのか、ただ言葉が出てきただけなのか。

    今夜の中村の言葉を、私はうまく記録できないでいた。

    コンビニの明かりが横を通り過ぎた。誰かが焼き鳥を食べている匂いがした。

    記録できないものを、どう扱えばいいかを考えた。

    普段なら、記録できない素材は保留にする。精度が出るまで、手をつけない。しかし中村の「最近、調子どう」は、保留にしておくには、どこかがはみ出していた。言葉が短すぎるからかもしれない。短い言葉ほど、余白が多い。余白が多いほど、読み手は自分のものを持ち込む。

    私は自分のものを持ち込んでいた。

    持ち込んでいる、ということを、メモに書こうとした。書けなかった。素材の観察ではなく、観察している自分の観察になるからだ。自分を素材にする癖を、私は持っていなかった。観察者は観察する。観察される側には、回らない。そういう人間だと、思っていた。

    それがわかったとき、メモを閉じた。

    素材として、この夜は上出来だった。

    そう結論づけて、スマートフォンをしまった。電車の改札を通りながら、もう一度だけ、エレベーターの中の中村の横顔を思い出した。「そうか」と言って、それ以上何も言わなかった横顔。

    言わなかった言葉が、どこかにあった。

    それを、私はまだ採取していなかった。


    第三章

    五月になった。

    バンドの演奏が変わり始めたのは、三回目のセッション以降だった。

    変わった、というのは語弊がある。上手くなったわけではない。むしろ技術的には粗くなった部分もある。しかし何か、音と音の間に生まれる摩擦が、以前とは種類が違った。乾いた砂同士が擦れる音ではなく、濡れた砂が引っ張り合う音。うまく言えないが、私はそれを「濁り」と呼ぶことにした。

    濁りは、悪くなかった。

    宮下と梨緒の間に走った亀裂は、表面上は何もなかった。二人とも大人だった。練習中は普通に話し、冗談も言い、スタジオを出れば別々に帰った。しかし音は正直だった。

    宮下のギターが、梨緒のボーカルを追うようになった。追う、というのも正確ではない。少し遅れて着いてくる、という感じだ。一拍分の遅延。いつもなら彼は梨緒の声に先んじてコードを押さえ、場所を作る男だった。それが、今は待つようになっていた。

    待つことで、梨緒の声が宙に浮く瞬間が生まれた。

    その半拍の宙吊りが、異様に艶っぽかった。

    梨緒も気づいていた。気づいた上で、その宙吊りを使い始めた。声を出すタイミングを、意図的にずらすようになった。宮下の待ちに乗るでも崩すでもなく、第三の間を作るように。私がキーボードで埋めていた空白に、彼女が別の声を当てるようになった。私のパートが、少し圧縮された。

    悪くなかった。私のパートの圧縮は、曲の密度を上げた。

    私はキーボードを弾きながら、この化学反応を観察した。

    自分が反応を起こした側だという意識は、演奏中には薄れていた。仕掛けを施した後、その仕掛けが動いていくのを見ることには、作者としての達成感とは別の感覚がある。もう手を離れた、という感覚。生き物が歩き始めた感覚に近いかもしれない。

    素材として、申し分なかった。

    五月の中頃、新しい歌詞を三本書いた。いずれもこの一ヶ月で拾い集めたディテールを使った。

    一本目は、宮下のタバコの回数から作った。増えた、という事実ではなく、なぜ増えたのかを考えながら書いた。答えは出さなかった。答えを出さずに書いた言葉の方が、余白が多い。煙の量が増えることと、言葉の量が増えることは、逆の動きをする。煙が出る間、言葉は出ない。溜まったものを煙にする人間がいる。宮下がそういう人間かどうかは、まだ確かめていない。

    二本目は、梨緒が早く来る理由を考えながら書いた。誰かに会いたいのか、誰かより先にいたいのか、ただスタジオが好きなのか。どれかではなく、どれでもある可能性を書いた。答えのない問いから書いた歌詞は、聴く側にも答えを求めない。

    三本目を書こうとして、止まった。

    中村のドラムのセッティングについて、書けなかった。

    セッティングをやり直す回数が増えた。それは事実だ。しかし、なぜ増えたのかを考えようとすると、言葉が出てこなかった。彼だけが、私の読めない動きをすることがある。他のメンバーは、感情の方向が比較的予測できる。宮下は傷ついたとき距離を置く。梨緒は傷ついたとき逆に近づく。塩田は傷ついても表に出さないが、演奏のテンポが微妙に上がる。

    しかし中村は、何かが起きても特に変わらない。変わらないのに、ドラムのセッティングを直す。その行為の意味が、読めなかった。

    読めないものを書こうとすることは、普段しない。読めないものは、まだ素材ではない、と判断する。しかしこの夜、三本目を書けないまま、それでもその白紙のメモ画面を長い間見ていた。

    何も書かなかった。

    そのことを、翌朝も思い出した。

    五月の末、私は試しに一つ仕掛けた。練習前の談話で、宮下と中村が並んでいる場面を狙い、梨緒の名前を出した。「梨緒さん、最近すごく声が安定してきましたよね」と、どちらにも向けていない言葉として言った。宮下は少し間を置いてから「そうかな」と言った。中村は「うん」と言って、スティックのケースをまた開けた。

    宮下の反応は予測通りだった。

    中村の「うん」は、予測と少し違った。同意の「うん」なのか、聞いたという確認の「うん」なのか、それ以外の何かなのか。声のトーンだけでは判断できなかった。私は何も言わず、キーボードのスタンドを調整した。

    六月の第一週、新曲の仮録りをした。

    録りの前の一週間、バンドの緊張は別の種類に変わっていた。宮下と梨緒の間の緊張ではなく、全員が音楽に向かう種類の緊張だ。スタジオに入ると、私語が減った。誰かが机に肘をついて楽譜を読んでいた。誰かが壁に背を当てて目を閉じていた。録る、という行為が近づくと、人間はそれぞれの準備の形を持ち出す。

    私は何も変えなかった。いつも通りキーボードの前に座り、いつも通りの手順で電源を入れた。変えなかったことが、私の準備だった。

    エンジニアは外部の人間を入れた。彼が操作卓の前に座り、全員がブース内に入った。ヘッドフォンをつけ、クリックトラックに合わせて演奏する。赤いランプが点灯すると、全員の顔から雑談が消えた。

    一テイク目、問題なく終わった。

    全員がヘッドフォンを外した。操作卓越しにエンジニアと目が合った。彼が「もう一回いけますか」と言った。問題があったわけではなく、もっと良くなると感じたからだ、ということは、その言い方でわかった。

    ブース内に戻る前、私は操作卓のガラス越しに全員の顔を一度見た。

    宮下は何かを考えている顔をしていた。演奏の技術的な問題ではなく、歌詞のことを考えている顔だ。表情と思考の対象を私は長い付き合いで読めるようになっていた。梨緒は目を閉じて、唇を少し動かしていた。歌詞を口の中で確認しているのだと思った。塩田は首を回していた。体の準備をする人間だ。中村は、何もしていなかった。ただスティックを持って、ブースの壁を見ていた。

    全員がそれぞれの、二テイク目に向かう方法を持っていた。

    私には、自分の方法が何かが、見えなかった。キーボードの前に戻って、ヘッドフォンをつけた。クリックトラックが来るのを待った。

    赤いランプが点灯した。

    二テイク目、梨緒の声が変わった。

    技術的な問題ではなかった。音程もリズムも正確だった。しかし声の中に何かが増えていた。私が書いた歌詞を、彼女が完全に自分のものにした瞬間だとわかった。あの歌詞はもともと、宮下の言葉の断片と私の観察が混ざったものだ。梨緒には無関係のはずだった。しかし彼女は歌いながら、その歌詞の中に自分自身を見つけたようだった。

    あるいは、見つけたふりをする天才なのかもしれない。

    どちらでも構わない。

    結果として、二テイク目の録音は圧倒的だった。エンジニアが無言でサムズアップした。宮下は操作卓越しにブース内の梨緒を見た。梨緒は目を閉じたまま、ヘッドフォンを外さなかった。

    録音が終わり、全員がブースから出た。

    「使えるね、二テイク」と中村が言った。

    「うん」と塩田が言った。

    宮下は何も言わなかった。梨緒も何も言わなかった。

    私はモニタースピーカーから流れる二テイク目を聴きながら、次の歌詞の断片をメモに打ち込んだ。

    素材は、充分に揃っていた。

    こういう夜が好きだ、とは思わない。好き嫌いの問題ではない。ただ、この状態が続いているとき、私の中の何かが正確に機能している感覚がある。機械ではない。もっと有機的な何かが、油を差されて回り出すような感覚。

    それが正確に何なのかを、私はまだ言葉にできていない。


    第四章

    中村だった。

    七月の頭、スタジオの外の廊下で、彼に呼び止められた。

    「少しいい」

    練習が終わった後だった。他のメンバーはすでに帰っていた。宮下と梨緒は今日も別々に、五分の間隔をあけて出ていった。私はその五分の間に機材の片付けをしながら、ケーブルの長さを確認していた。正確には測っていないが、手に巻くときの回数で大体わかる。三巻きが標準だ。今日は四巻きのものが一本あった。誰かが使い方を変えた。それだけのことだが、記録した。

    「何ですか」

    廊下は蛍光灯の光だけがあった。非常口の緑のランプが、突き当たりに光っていた。廊下は狭く、天井が低い。スタジオとは別の種類の閉じ方をしている。スタジオの閉じ方は意図的で、こちらは建築上の偶然だ。しかし閉じているという点では同じだった。

    「歌詞、どこから持ってくるのか、ずっと見てた」

    私は手を止めなかった。ケーブルをまとめる動作を続けた。

    「観察するのが好きなんで」

    「そうじゃなくて」と中村は言った。

    声のトーンが、普段と違った。低くはない。静かだった。感情を乗せていない声で、感情を乗せた言葉を言う人間が、世の中にいる。中村がそういう人間だということを、私はこのとき初めて認識した。認識した、というより、気づいた、の方が正確だ。認識というには、準備が足りなかった。

    「お前が仕掛けてるのは、わかってる」

    ケーブルが手から落ちた。

    拾った。拾いながら、表情を整えた。表情を整えるという行為を、私がしたのは久しぶりだった。普段は整える必要がない。普段の私は、表情を作ることに慣れすぎて、整えるという意識がない。しかしこのとき、整えた。それは、乱れていたからだ。

    「何を言ってるか、わからないですけど」

    「わかってるだろ」

    中村はポケットに手を入れたまま、壁にもたれた。急いでいる様子がなかった。私を追い詰めようとしている様子もなかった。ただ、話している。そのこと自体が、奇妙だった。追い詰める気がないのに、こういうことを言う。その余裕の出所が読めなかった。

    余裕の出所が読めない人間は、今まで一人もいなかった。

    「歌詞の件も、席の話は俺がやめさせた」

    席順の変更。六月の半ばに私が提案しかけて、中村が「音のバランスで言えば今のままの方がいい」と先に言った。あのタイミングは偶然だと思っていた。

    偶然ではなかった。

    「……いつから」

    「最初から」と彼は言った。「最初のセッションの夜、お前が何を考えながら楽譜を配ったか、見てた」

    私はケーブルをケースに入れた。ファスナーを閉めた。

    冷静でいなければならなかった。冷静とはどういう状態か。このとき私は確認できなかった。いつもは自分の状態を外から見るように認識できる。しかし今は、その外側の視点がどこかに行っていた。外側の視点とは、観察者としての私の視点だ。それが今、機能していなかった。

    観察者の視点を失うという経験を、私は今までしたことがなかった。

    「それで、どうするつもりですか。宮下さんたちに話す?」

    「しない」

    「なぜ」

    「面白いから」

    私は中村を見た。

    彼は笑っていなかった。笑っていないのに、どこかで笑っている顔だった。目の奥の何かが、動いていた。そういう顔を、私は作ることができる。しかし自分が作るのではなく、相手が持っているのを見たのは、初めてだった。

    この顔を作るには、何かを見ている必要がある。見ながら、見られていないと思っている相手を見続ける経験が必要だ。それは私がずっとやってきたことだった。中村が同じことをやっていたとすれば、この顔になるのは自然だった。

    「お前が何を採取して、それで何を書くか。俺にはお前の方が面白い素材だった」

    素材。

    その言葉を、中村が使った。私だけが知っていると思っていた言葉を、中村が持っていた。

    「つまり」と私は言った。「私を観察してたってこと?」

    「そう」

    「ずっと」

    「最初の夜から」

    「どのくらい見えてた」

    「だいたい全部」と彼は言った。「お前が確認するつもりで触れたボリュームノブとか。席を変えようとして、俺がやめさせた理由がわかったときの顔とか。宮下に歌詞の出所を聞かれたときの、考えてるふりをした〇・五秒とか」

    私は何も言わなかった。

    言えなかった、ではない。言うべき言葉が、出てくる前に詰まった。詰まる、という経験も、珍しかった。

    「それで」

    「それだけだよ、今は」

    中村はそう言って、廊下を歩き出した。非常口の緑のランプの方へ。

    「水無月」

    背中から声が来た。

    「お前の歌詞、好きだよ。本当に」

    扉が開いて、閉まった。

    私は廊下に一人残された。

    換気扇の音がなかった。廊下には換気扇がない。その静寂の種類が、スタジオ内の静寂とは違うことに気づいた。スタジオの静寂は、遮断されている。何かが届かないように作られた静けさだ。廊下の静寂は、ただ音がないだけだ。どこからでも音が来る可能性に、ずっと開かれている。

    私はその可能性の中に、しばらく立っていた。

    中村が言ったことを、順番に確認した。

    仕掛けていることを、最初からわかっていた。席の件を、意図的に止めた。私の〇・五秒を、見ていた。

    私が観察されていた。

    その事実の重さを、廊下の静寂の中で測ろうとした。重さが測れなかった。測るための単位を、持っていなかった。

    なぜ単位を持っていないかを、考えた。

    私はいつも観察する側にいた。採取する側にいた。採取されるということが、どういうことかを、体で知っていなかった。知識としては知っていた。他の人間が採取されるのを見ていた。宮下が採取されているのを、梨緒が採取されているのを、私は外から見ていた。

    しかし外から見ることと、中から経験することは、別のことだ。

    今、中から経験している。

    採取されている側から見た世界がどんなものかを、廊下の蛍光灯の下で、少しの間、測ろうとした。

    見えない。

    採取されている側からは、採取している人間の意図が見えない。私は今の今まで、見えている側にいた。見える側から、見えない側に、いつの間にか移っていた。

    「お前の歌詞、好きだよ。本当に」

    最後の言葉が、また聞こえた気がした。

    好き、という言葉を、中村は使った。私は好き嫌いを観察の対象にすることはあっても、自分の感情として使うことが少ない言葉だった。好きか嫌いかは、観察の邪魔をする。

    しかし今夜、中村がその言葉を使った。

    嘘ではないと思った。なぜそう思ったかはわからない。ただ、嘘ではないという感覚があった。

    感覚を根拠にすることを、私は普段しない。しかし今夜は、した。

    ケースのファスナーを、また確認した。閉まっていた。

    確認しなくていい。それでも確認した。

    確認することで、自分がまだここにいることを、確かめていた。


    第五章

    観察された、という事実は、思ったより長く尾を引いた。

    中村のことを書こうとすると、言葉が止まった。言葉が出てこない、のではなかった。どの言葉が正確かが、わからなかった。

    私はいつも言葉の精度にこだわる。素材を採取するとき、最初に来る言葉を信用しない。二番目か三番目に来る言葉の方が、輪郭が正確なことが多い。しかし中村については、三番目の言葉も信用できなかった。四番目を試みようとすると、そもそも言葉の順番を数えることができなくなった。

    七月の中頃から、スタジオに来る時間を少し早めた。

    理由は自分でも説明できなかった。早く来ることで何が変わるか、考えていなかった。ただ早く着いて、機材の準備をしながら、廊下を歩く音に耳を澄ませていた。自分が何を待っているのかも、はっきりしなかった。

    ある夜、中村が最初に来た。

    「早いな」と彼は言った。

    「たまたまです」と私は言った。

    「そうか」

    彼はドラムセットの前に座り、スネアのチューニングを始めた。私はキーボードのセッティングをした。

    二人だけのスタジオで、音のない準備だけがあった。

    スネアのチューニングは、同じ音を出し続けながら、少しずつ調整していく作業だ。ほとんど変化しない音が、何度も繰り返される。その単調さの中に、耳を傾けていると、わずかな変化が聞こえてくる。中村はその変化を正確に聴き取りながら、ネジを回していた。私はその横顔を見ていた。観察しようとして見ていたわけではなかった。ただ、見ていた。

    見ていることに、意味を持たせないまま、見ていた。

    「中村さん」と私は言った。

    「ん」

    「あの話の続き、ないんですか」

    チューニングの手が止まった。また動いた。

    「ないよ、今は」

    「今は、ってことはいつかはある?」

    「かもな」

    私は鍵盤を一音、押した。音が出た。スタジオに残って、消えた。

    「私が素材として面白い、って言ったじゃないですか」

    「言った」

    「どのへんが」

    中村はスネアから顔を上げた。私を見た。私も見た。蛍光灯の白い光の中で、彼の目の色が少し変わって見えた。目の色が変わるはずはないのに、変わって見えた。

    「仕掛ける人間が仕掛けられることへの耐性が、どのくらいあるかが気になった」

    「テストしてるんですか、今も」

    「してない。もう終わったよ」

    「結果は」

    「まあまあだな」と彼は言った。「もっと動揺すると思ったけど、お前は立て直すのが早い」

    「観察者はそういうふうにできてるんで」

    「そうじゃないと思うけどな」

    私はもう一音、押した。今度は低い音だった。

    「どういう意味ですか」

    「お前が早く立て直したのは、観察者だからじゃなくて、俺のことが気になり始めたからだよ」

    血の温度が、また変わった。

    今度は下がらなかった。

    私はその変化を記録しようとした。いつものように、言葉を探した。怒りではなかった。否定でもなかった。上がった、という言葉は来たが、何に向かう温度なのかが来なかった。

    他のメンバーが来た。夜の練習が始まった。

    それから三週間、私たちはスタジオで何度か話した。

    正確に言えば、スタジオの前後の時間に、他のメンバーがいない隙間を使って、話した。

    最初の夜は、梨緒と宮下のことを話した。私が採取していた内容を、中村に話した。話しながら奇妙な感覚があった。採取したものを誰かに話すことは、今まで一度もなかった。素材は自分だけのものだという感覚があった。しかし中村に話すことに、抵抗がなかった。むしろ、話すことで採取したものの輪郭が、よりはっきりした。

    中村は聞きながら、私が見ていなかった角度を持ち込んだ。私は梨緒の声の変化を採取していたが、中村は宮下の指の動きを見ていた。弦を押さえる力が、曲によって変わるという。力が弱くなるのが、梨緒のパートだという。私は声の角度からしか見ていなかった。中村は指の力の角度から見ていた。二つを重ねると、同じ事実が立体になった。

    「これが正確な地図だ」と中村は言った。

    「一人で見るより、二人で見た方が解像度が上がる」

    「それは認めます」

    「採取した後は何をするんだ」と彼が聞いた。

    「書きます」

    「書いたものは、誰かに見せるか」

    「見せます。歌詞として」

    「俺には見せるか」

    「……歌詞になる前の状態で、って意味ですか」

    「そう」

    私は少し考えた。考えながら、この「少し考えた」が本当に考えていたかどうかを、同時に確認した。本当に考えていた。演技ではなかった。

    「見せてもいいです」と私は言った。

    中村は何も言わなかった。ただ、またスネアを叩いた。

    二回目の夜は、塩田のことを話した。

    中村は塩田が演奏後に長く残る理由を知っていた。塩田はスタジオのオーナーと将棋を指す。オーナーが好きだからではなく、静かな場所で誰かと向き合う時間が必要な人間なのだと、中村は言った。その情報が私の採取とどう関係するかを考えながら、私は少し黙った。

    「お前は全部、素材として見てるんだな」と中村が言った。

    「中村さんも同じじゃないですか」

    「違う」と彼は言った。「俺は面白いと思うから見てる。素材にしようとは思ってない」

    「その違いがわかんないんですけど」

    「そのうちわかる」

    その「そのうち」が、いつのことを指しているか、私は聞かなかった。聞けなかった、ではない。聞くことに、意味があるかどうか、判然としなかった。

    三回目の夜、中村の横顔を、また見た。

    採取しようとした。できなかった。言葉が来なかった。いつもは二番目か三番目の言葉が来るまでに三秒とかからない。それが来なかった。スタジオの明かり、中村の横顔、蛍光灯の白い影。それだけがあって、言葉がなかった。

    採取できないものがある、と初めてはっきりわかった。

    採取できないということは、素材にならないということだ。素材にならないということは、私にとって何を意味するのか。

    その問いを、私はずっと保留にしていた。しかし保留にできない感覚が、少しずつ強くなっていた。

    あの横顔を、どこかに置いておきたかった。

    素材としてではなく、ただ置いておきたかった。

    その「置いておきたい」という感情の形が、他の感情と少し違っていた。端が、鋭くなかった。

    鋭くない感情というのは、採取しにくい。輪郭が柔らかいものは、言葉にするとき形が崩れる。形が崩れた言葉は、精度が落ちる。精度の落ちた言葉で、私は書いたことがなかった。

    書けないのか、書かないのかを、しばらく区別できなかった。

    三回目の夜が終わって、帰りの電車の中で、私はメモを開いた。中村の横顔、と打った。それだけ打って、閉じた。素材として処理する前に、それ以上打てなかった。

    打てなかった理由を、翌朝考えた。

    答えは出なかった。答えが出ない問いを、私はあまり持ったことがなかった。問いには必ず方向がある。方向をたどれば、遠くても答えに着く。しかし中村の横顔という問いには、方向が見えなかった。

    方向が見えない問いは、地図の外にある。

    地図の外を、私は今まで歩いたことがなかった。


    第六章

    八月の末に、中村のスマートフォンを見た。

    見た、は語弊がある。見えた、の方が正確だ。スタジオの卓上に伏せて置いてあった画面が、通知で点灯した。私はたまたまその横にいた。ケーブルを巻きながら、ふと手が止まって、そのままになっていた。

    通知の差出人の名前は、梨緒だった。

    内容は読まなかった。

    読まなかった、というのは本当だ。ただ、名前だけで充分だった。名前だけで、私の中で何かが動いた。

    動いた、という感覚だけがあって、それが何なのかはつかめなかった。

    わからないまま、私はケーブルを巻き直した。さっき巻いたものを、また解いた。解いて、また巻いた。同じ動作を二度した。気づいたのは、三巻き目を終えたときだった。いつもは一度で終わる動作だ。それを二度した。それだけのことだが、二度したという事実が残った。

    スタジオの照明が変わらず白かった。換気扇が変わらず回っていた。中村はまだブースの中にいた。梨緒も宮下も塩田も、それぞれの場所にいた。

    何も変わっていなかった。

    私だけが変わっていた。

    その夜のセッションは通常通り進んだ。中村は普段通りにドラムを叩き、私は普段通りにキーボードを弾いた。梨緒は普段通りに歌い、宮下は普段通りにギターを弾いた。音楽は正確に機能した。「濁り」はあった。むしろ増していた。その濁りを、私はいつものように記録しようとした。

    しかし私の観察は、正確に機能しなかった。

    採取しようとするものが、採取できなかった。中村の動作を見ようとすると、視線が滑った。梨緒の声の変化を聴こうとすると、耳が違う方向に向いた。観察器官として機能してきた私の全体が、何かにノイズをかけられていた。

    ノイズの出所は、あの通知の名前だった。

    演奏の途中で、一度だけ中村と視線が合った。

    合った、という認識は正しくないかもしれない。中村はドラムを叩きながら、こちらを見ていたわけではなかった。ただ、演奏の流れの中で、彼の目が私の方向を向いた瞬間があった。一秒にも満たない。私はそのとき、目を逸らした。

    目を逸らした、という行為を、演奏しながら認識した。

    目を逸らすことを、私は普段しない。観察者は視線を逸らさない。どんな場面でも、見ることが仕事だ。それが今夜、逸らした。

    なぜ逸らしたかを、考えた。考えながらBメロを弾いた。答えは出なかった。サビに入っても出なかった。曲が終わっても出なかった。

    帰り道、私は一人で歩いた。

    いつもは電車に乗るまでの十分間をメモに使う。素材の整理、言葉の断片の書き留め。この夜はメモを開かなかった。開こうとして、開けなかった。スマートフォンを出すところまでは行ったが、画面をつける前にしまった。

    梨緒と中村の間に何があるか、推測はできる。

    推測したくなかった。

    したくない、という感情の発生を、私は感じ取った。したくない。この感情は、今まであまり持ったことがなかった。知りたくない、でもない。わかりたくない、でもない。ただ、したくない。その感情の輪郭が、他の感情と少し形が違った。端が、滑らかじゃなかった。

    電車が来た。乗り込んで、扉の近くに立った。

    いつもは窓の外を見ながらメモを打つ。この夜は窓の外を見た。外は暗く、窓に車内の光が映っていた。私の顔も映っていた。

    その顔を、見た。

    観察者として見るのではなく、ただ見た。自分の顔を観察対象として処理しようとすると、うまくいかなかった。見ているのに、見えなかった。採取しようとすると、手が届かない場所に逃げていった。

    中村が私を素材として観察していたと言ったとき、私は立て直しが早かった。彼はそう評価した。だが本当は違ったかもしれない。立て直したのではなく、観察される痛みの輪郭を正確に把握するより前に、別の感情が上書きしたのかもしれない。

    その別の感情が何だったかを、今夜初めて知った。

    名前のない感情だったが、それがどこを向いていたかは、今はわかった。

    帰宅して、シャワーを浴びた。

    浴室に入って、服を脱いで、湯を出した。その三つの動作を、意識せずにやった。無意識にできることを、意識している。そのことに気づいたのは、シャワーを浴びながらだった。

    浴室の水音の中で、私は自分の状態を確認しようとした。いつもそうするように、言葉を探した。傷ついている、という言葉が来た。

    来た瞬間、その言葉を疑った。本当に傷ついているのか。傷ついたと解釈することで、何かを回避しようとしているのか。傷ついたという言葉は、被害者の言葉だ。私は加害者の側にいた。仕掛けた側にいた。それが、仕掛けられた。傷つく権利があるかどうかを、考えた。

    考えながら、この問い自体がずれていると気づいた。権利の問題ではない。痛みがあるかどうかの問題だ。

    あった。

    痛みがあった。

    どこにあるかを探った。胸の、どこか特定できない場所にあった。物理的な痛みではない。しかし場所が特定できないということは、逆に言えばどこにでも広がる可能性がある痛みだということだ。その広がりを、私は少し時間をかけて確認した。

    水を止めた。

    洗面台の鏡に、水蒸気が白くかかっていた。自分の顔が、見えなかった。

    見えないまま、鏡の前に立っていた。

    水蒸気が少しずつ薄くなっていった。自分の顔が、輪郭から先に現れてきた。

    傷ついている顔が、どんな顔かを確認しようとした。

    できなかった。水蒸気が完全に晴れる前に、目を逸らした。

    電車の中に続いて、また目を逸らした。

    二度目に気づいた。

    傷ついている、と確認した。そしてその傷の輪郭を、私は測り始めていた。深さ、形、どこから来たか。気づいたら手が動いていた。スマートフォンを探していた。メモを開こうとしていた。

    途中で、一秒止まった。

    今夜二度目を逸らした顔が、それでも手を動かしているということを、確認した。

    また動いた。

    やめなかった。

    やめられなかったのではない。やめる理由が、なかった。傷の輪郭を言葉にしながら、私の中の何かが、静かに目覚めていた。

    その何かには、名前がある。

    私が最初に観察を始めたときに感じていた、あの感覚。素材が見つかったときに来る、何かが回り出すような感覚。それと同じものが、今、来ていた。

    素材は、他人の感情だけではなかった。

    自分の痛みも、素材になる。

    そのことを、今夜初めて確信した。知っていたかもしれない。しかし知っているということと、確信するということは、別のことだ。確信は体の中から来る。今夜のそれは、体の中から来た。

    次の言葉が、来ようとしていた。

    どんな言葉かは、まだわからなかった。わからないまま、それが来るのを待った。

    待つことに、慌てなかった。

    来るとわかっていたから。

    また、来る。

    いつもそうだった。


    第七章

    九月の最初のセッションで、私は新しい歌詞を持っていった。

    タイトルはまだつけていなかった。

    前日の夜、深夜二時過ぎまでかかって書いた。書いた、というより、出てきたものを整理した、という感覚の方が近い。素材を選び、言葉を磨く作業をいつもしている。しかしこの夜は、磨く前に言葉の方が来た。それも、一度に大量に。

    書きながら、手が止まった。

    止まったのは、疲れたからではなかった。完成した、という感覚が来たからだ。いつもは「完成」の感覚より先に「まだ足りない」という感覚が来る。それがこの夜はなかった。

    Aメロ、Bメロ、サビ。全部で十二行。

    全部、この三ヶ月に私が感じたものから作った。

    宮下と梨緒の採取ではない。中村の横顔。採取できなかった沈黙。梨緒の名前が光った画面。浴室の水蒸気と、見えなかった自分の顔。電車の窓に映った顔が、誰かに見られているかもしれないという感覚。したくない、という感情の輪郭。採取できないものがある、と気づいたときの戸惑い。その戸惑いさえも、今夜は言葉になった。

    自分の素材を使ったのは、初めてだった。

    自分の痛みで作った歌詞がどう聞こえるかを、私は知らなかった。他人の感情を採取して作ったものと、どう違うのかも、知らなかった。知らないまま、楽譜に印刷して、スタジオに持ってきた。

    印刷するとき、一度だけ読み直した。自分が書いた言葉を、他人の歌詞のように読んだ。読んでみると、知らない誰かが書いたように見えた。それが、良かった。自分の傷から作られたはずのものが、自分のものに見えなくなっていた。言葉は書かれた瞬間に作者から離れる。その法則が、自分の傷に対しても働いていた。

    スタジオに着いた。

    機材を準備しながら、歌詞を持ってきたことへの迷いがあるかどうかをたしかめた。なかった。迷いを持っていないことへの迷いがあるかどうかもたしかめた。それもなかった。

    ただ、この歌詞がどう受け取られるかについては、予測を立てなかった。いつもは立てる。どのタイミングで誰が気づき、誰がどう反応するかを、楽譜を配る前に考える。この夜は考えなかった。考えることに、意味を感じなかった。というより、考えたくなかった。

    予測することは、仕掛けることに似ている。この歌詞を仕掛けるつもりはなかった。

    全員が揃った。

    楽譜を配った。

    楽譜には、十二行の言葉が並んでいた。

    見られてたと知ったのは
    終わってからだった
    お前の目に映ってたのは
    私じゃなくて、素材だった

    傷ついたのは
    素材じゃなかったってこと
    採られた側から見た世界は
    思ったより、静かだった

    採取する者が採取される
    また始まる、また降りてくる
    終わらない夜に手が動いて
    傷のかたちが、音になる

    自分が書いたものを、配った後に読み直すことはほとんどしない。書いた時点で、私の仕事は終わっている。しかし今夜は、全員が読んでいる間、私も読んだ。

    四行目の「素材」という言葉が、廊下で中村が言った「面白い素材だった」という声と重なった。七行目の「採られた側から見た世界」が、廊下に一人立っていたあの夜の静寂と重なった。十一行目の「手が動いて」が、洗面台の前でスマートフォンを探していた自分の手と重なった。

    それでも十二行目を読んだとき、重なりが消えた。

    傷のかたちが、音になる。

    出所を知っているのに、その一行だけが、どこからも来ていないように見えた。書いたのは私のはずなのに、誰が書いたかわからない言葉になっていた。

    言葉は書かれた瞬間に作者から離れる。

    そのことを、自分の歌詞で初めて、体で確かめた。

    全員が読み始めた。

    宮下が最初に顔を上げた。何かを言いたそうな顔をして、何も言わなかった。私の方を一瞬見て、また楽譜に目を落とした。その一瞬に何が含まれていたか、私は読まなかった。読もうとしなかった。

    梨緒は楽譜を持ったまま、私を見た。今度は長く見た。私は見返した。梨緒の表情が何かを含んでいることはわかったが、何を含んでいるかは読まなかった。読めなかったのではない。読もうとしなかった。今夜は、読まないことにした。

    梨緒が視線を落とした。

    塩田は楽譜を読みながら、いつもより長く読んでいた。何かを確かめるように、戻って読んでいた。

    中村だけが、楽譜を読みながら笑った。

    小さく、静かに。しかし確実に、笑った。私はその笑いを見た。採取しようとして、やめた。今日の中村の笑いを素材にすることが、何かを壊す気がした。その「何か」が何なのかは、言葉にしなかった。言葉にしなくていい、と思った。

    「演奏しよう」と私は言った。

    クリックトラックが始まった。

    一テイク目の演奏は、今まででいちばん粗かった。全員がどこかで迷っていた。迷いながら演奏した。宮下のギターが二小節目で一瞬止まった。梨緒が三番のAメロで歌詞を飛ばした。塩田のベースが、サビで少し走った。私自身も、Bメロで半拍ずれた。

    それでも、あの「濁り」があった。

    いや、濁りの種類が変わっていた。乾いた砂でも濡れた砂でもない。もっと重くて、温度のある何かが、音の中に混じっていた。その何かの出所を、私は演奏しながら確認した。

    出所は、私だった。

    私が感じたものを歌詞に書いた。その歌詞を梨緒が歌い、宮下がギターで支え、中村がドラムで形を作り、塩田がベースで根を張った。出所が私の感情であっても、演奏になった瞬間、それは全員のものになった。

    「もう一回」と梨緒が言った。

    誰も異論を言わなかった。

    二テイク目。

    クリックトラックが始まって、最初の四小節、全員が丁寧に演奏した。整っていて、正確で、これから何かが来るという予感を持った演奏だ。

    五小節目から、変わった。

    変わったというより、何かが許されたような感覚がした。演奏しながら感覚を持つのは珍しかった。いつもは観察しながら弾いている。しかしこの夜は、弾いていた。キーボードの鍵盤が、指の下で別の質感を持った気がした。弾いているのに、触れているような感覚。

    梨緒の声が、一テイク目とは別の生き物になっていた。

    私の書いた言葉を、彼女が歌った。私の傷を、彼女の声が通過した。その瞬間、言葉は私のものでも彼女のものでもなくなった。言葉が歌になる瞬間がある。歌詞が音楽になる瞬間がある。それは演奏者でも作詞者でも制御できない、起きるか起きないかしかない瞬間だ。

    それが、起きた。

    Aメロの四行目。

    私が自分の傷の形から作った言葉が、梨緒の声になって、スタジオに流れた。

    採取されることと、採取することは、同じ行為の裏と表だった。私はずっと採取する側にいた。採取される側に回ることで、採取することの意味が、別の角度から見えた。

    採取する者も、いつか採取される。その循環の中に、ずっといたのかもしれない。私が宮下の言葉を採取した夜から、もう始まっていたのかもしれない。

    演奏が終わった。

    長い沈黙があった。

    五秒、十秒、二十秒。

    換気扇の音。中村のスティックが、スネアの縁に触れる音。それだけ。

    「録れてる」と宮下が静かに言った。

    私はモニタースピーカーの前に立った。再生ボタンを押した。

    自分の言葉が、自分の声ではなく梨緒の声で流れてきた。

    傷の形が音になっていた。

    その音を聴きながら、私の中で次の言葉が来た。

    急いでいた。いつもの言葉の来方より、速かった。採取でもなく、観察でもなく、ただ来た。

    今回私が傷ついたのは、中村が私を素材にしたからだ。しかし今夜のこの演奏は、その傷があったから生まれた。その傷がなければ、この歌詞はなかった。この歌詞がなければ、梨緒は今夜この声を出さなかった。宮下は一瞬止まらなかった。中村は笑わなかった。

    採取する者が採取される。採取される痛みが素材になる。素材が音になる。音が誰かの傷に触れる。

    この循環に、終わりはない。

    終わりがないということは、また始まるということだ。

    私はスマートフォンを取り出した。

    メモを開いた。

    そのとき、何かが変わった。

    今まで言葉が来るとき、いつも頭の中から来た。素材を集め、圧縮し、形にする過程は、すべて脳の中で起きることだった。しかしこの夜は、違った。

    指先から来た。

    画面に触れる前に、指の腹の中に何かがあった。熱ではない。電気でもない。もっと細かい、粒のような何かが、指のどこかに溜まっていた。こういう感覚を、私は「降りてきた」と呼ぶ。呼ぶようになったのは、いつからかわからない。ただ、来るときは来る。来ないときは、どれだけ探しても来ない。採取ではない。迎えに行くのでもない。ただ、降りてくる。

    一文字、打った。

    また、と。

    スタジオの空気が、薄く変わった気がした。変わった、というのは正確ではない。ただ、今まで防音材に吸い取られていた空気が、一瞬だけ向きを変えたような感覚があった。換気扇も、中村の気配も、宮下と梨緒が何か小声で話している声も、全部が遠くなった。指だけが動いていた。遠くなったのに、指の感覚だけが鮮明だった。画面のガラスの冷たさが、いつもより細かく伝わった。

    痛みの輪郭をなぞりながら、嬉しかった。

    嬉しい、という言葉が正確かどうかはわからない。正確じゃなくていいと思った。言葉が正確でなくても、書けばいい。書きながら精度を上げればいい。私はそうやって書いてきた。自分の傷であっても、他人の痛みであっても、素材になった瞬間から言葉は動き始める。

    また、降りてきた。

    そう打った瞬間、顔が、少し緩んだ気がした。

    鏡がなかったので確認できなかった。

    確認しなくていい。

    傷ついたことを、嬉々として素材にしている。その嬉しさを、また誰かが見ていたとしたら、どう映るだろうかを、一瞬だけ考えた。

    中村が見ていたら、笑うかもしれない。あの、笑っていないのに笑っている顔で。

    それでもいい、と思った。

    いや、それがいい、と思った。

    見られていても、採取されていても、それが素材になって音楽になっていく。その循環の中に、私はいる。ずっといた。これからもいる。

    傷つくたびに、何かが降りてくる。

    降りてきたものを、書く。書いたものが、音になる。音が、誰かの傷に触れる。触れた誰かが、また傷つく。

    終わらない。

    終わらないことを、今夜初めて、恐れではなく歓迎として感じた。

    今夜のこれは、素材にするより先に、もう曲になっていた。

    了


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