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歌は、人を殺せる——戦えと歌った私たちは

    あらすじ

    現代の人気13人組アイドル『REBEL 13』。熱狂のライブ中、暗転の一秒が異様に長かった。次に光が灯ったとき、彼女たちはドームではなく、昭和十九年八月の帝都にいた。軍部に捕捉された十三人は「第十三特別挺身音楽隊」として慰問公演を強要される。マイクも照明もない飛行場の広場で、声と身体だけで組み上げたステージ。客席最前列には、翌朝特攻で死ぬ青年・誠がいた。「戦え」というひかるたちの歌声は、現代では安全に消費されるエンタメだった。しかし今夜、その歌は誠を死地へ送り出す。センター七瀬ひかるは知っていた。それでも歌った。歴史は変えられない。ただ、目の前の一人の最後の夜を、自分の声で満たすことだけができた。


    絶対に人が死なない場所で『戦え』と叫んでいた。
    昭和十九年に来るまでは。

    エンタメは、人を殺せる。それでも、歌った。


    第一章 暗転

     照明が、死ぬほど眩しかった。

     七瀬ひかるは自分の喉から出ている音が何なのか、もはやよくわからなくなっていた。声なのか、叫びなのか、あるいは身体のどこかが裂ける音なのか。二万人分の熱が天井にぶつかって戻ってくる。アリーナの空気は湿って重く、ひかるの肺に入るたびに、誰かの体温を押しつけてくる。

     センターポジション。

     REBEL 13の十三人の中で、この場所に立つことを許されているのは、今夜はひかる一人だった。

     ラインアレイスピーカーが、空気を叩いていた。

     音ではなかった。物理的な圧力だった。胸郭の内側から押される感覚。心臓の鼓動と別の鼓動が、身体の中に生まれる感覚。プロになって三年、毎公演それがあった。慣れない、とひかるは思い続けていた。慣れていい感覚ではないと思っていた。

     照明が、0.1秒単位で変わった。

     どこかのブースで、プログラムされた通りに光が落ちてくる。ひかるが右手を上げれば赤が落ちる。左に走れば白が追う。三ヶ月前のリハーサルで決めた通りに、今夜の光が動く。二万人の目に届く前に、すでに設計されている。

     モニタースピーカーが、ひかるの足元で鳴っていた。

     自分の声が、耳に戻ってくる。ピッチのズレを確認できる。音程を修正できる。失敗を訂正できる。このシステムの中では、声は出した瞬間に管理下に置かれる。どこにも逃げない。誰も傷つけない。二万人に届く前に、安全なエンタメとして整形される。

     絶対に人が死なない場所だった。

     反逆を叫んでいた。戦えと叫んでいた。フェイクの軍服を着て、飾りの階級章をつけて、マイクとスピーカーとレーザーと防音壁に守られて、二万人に向かって叫んでいた。誰も本当に戦わなかった。誰も本当に傷つかなかった。翌朝、全員が日常に帰っていった。

     それがポップミュージックの正しい在り方だった。

     ひかるは三年間、それを疑わなかった。

     疑う理由がなかった。

    「——戦え、戦え、お前たちの声で」

     マイクを通さなくても届くんじゃないかと思うほどの声量が、客席から押し寄せてくる。二万人が同じ言葉を叫んでいる。ミリタリー調のジャケット、意匠として縫い付けられた階級章、飾りのベルト。エンタメとしての「戦い」を纏った少女十三人が、エンタメとしての「革命」を叫ぶ。

     誰も本当に戦ってなんかいない。それがポップミュージックの正しい在り方だった。

     ひかるはイヤモニ越しに夏希の声を聞いた。

    「ラスサビ、入るよ」

     キャプテンの声は、本番中でも事務的だ。感情の体温がない。だからこそ信頼できる。

     ひかるは息を吸った。ステージの端から端まで走りながら、客席の顔をひとつひとつ拾っていく。これがひかるの癖だった。どれだけ会場が大きくても、自分が今夜歌っているのは、目の前の一人一人に向けてだと思い込もうとする。思い込むことで、声が変わる気がした。

     最前列の青年と目が合った。

     二十歳前後だろうか。サイリウムを振る手が止まっていた。ただこちらを見ていた。泣いているのか、笑っているのか、判別できない顔で。

     ひかるはそのまま歌いながら、彼に向けて人差し指を突きつけた。お前に歌っている、という意味の振付だった。

     青年の顔が崩れた。

     曲のクライマックスが来た。

     会場の照明が一斉に落ちる、その直前の一瞬——ひかるはいつも、この暗転の瞬間が好きだった。次の光が来るまでの、何秒かの完全な暗闇。真っ暗な中で二万人が同じ場所にいる、あの奇妙な一体感。

     照明が、落ちた。

     暗闇が、長かった。

     いつもなら、次の光が来るまで0.8秒。身体が覚えていた。しかしその0.8秒が、来なかった。1秒が過ぎ、2秒が過ぎ、——あるいは、時間そのものが、一瞬だけ、どこかへずれた感覚があった。網膜に残像が焼きついて、そのまま外れない感覚。自分の身体が、身体の置かれている座標から、ほんのわずかに切り離される感覚。

     暗闇の中でひかるは走ることをやめた。次の定位置へ向かうために足を動かしたが、床の感触がおかしかった。

     固い。

     ステージの床材ではない。もっと、土に近い硬さだった。

     イヤモニから音が消えていた。夏希の声も、バックトラックも、何もない。

     焦げた匂いがした。

     ひかるは暗闇の中で立ち止まった。観客の気配がない。あの、二万人分の熱と湿気と音が、消えていた。代わりにあるのは夜の冷気と、どこか遠くで燃えているものの匂いと、——虫の声だった。

     照明が、来た。

     ただしそれは、スタッフがタイミングを計って落とすLEDの白い光ではなかった。

     月だった。

     ひかるは空を見上げていた。

     見上げた先に天井はなく、八月の夜空があった。星が多すぎた。東京の夜にこんなに星は見えない。

     背後で誰かが「——え?」と言った。

     夏希の声だった。

     ひかるはゆっくりと周囲を見回した。十二人のメンバーが、思い思いの場所で立ち尽くしていた。全員、ステージ衣装のままだった。ミリタリーコートに階級章、飾りのベルト。

     彼女たちが立っている場所は、広場だった。砂利を踏み固めた、殺風景な広場。周囲に建物があったが、ひかるの知っているどの建物とも似ていなかった。低く、黒く、軒が深い。

     広場の向こうに、男たちがいた。

     軍服だった。

     本物の、軍服だった。

     飾りではない。

     暗がりの中でも、ひかるにはそれがわかった。遠目にも質量が違った。分厚いウール地が、血と泥と何か別のものを長く吸って、本来の色を忘れたような、黒に近い緑をしていた。革帯が月明かりを鈍く返した。使い込まれた光沢だった。きらきらしていない、磨り減った光だった。

     あれは、死に何度も近づいた人間の服だ、とひかるは思った。

     論理ではなかった。皮膚がそう言った。


    第二章 命令

     蝉が、うるさかった。

     ひかるは縁側に座って、庭を見ていた。夏の朝の光が、何も知らない顔で地面を照らしていた。空が青かった。雲一つなかった。東京ドームの屋根の下で、照明の白い光の中にいた六時間前と、同じ空だとは思えなかった。

     メンバーは全員起きていた。誰も眠れなかった。

     朝になっても、何も変わらなかった。それがひかるには一番こたえた。目が覚めれば終わっているかもしれないと、起きながらにして思っていた。しかし八月の朝は容赦なく明るく、縁側の木の感触はリアルで、隣に座る夏希の横顔は疲れて目が充血していて、昭和十九年は続いていた。

     将校が来たのは、朝食の後だった。

     昨夜と同じ男だった。名前は教えられていなかった。ひかるの中では「あの人」のままだった。

     男は縁側には上がらず、庭に立ったまま、十三人を見渡した。

    「第十三特別挺身音楽隊。今日からそう名乗れ」

     夏希だけが、すぐに答えた。

    「慰問ですか」

    「そうだ。三日後、陸軍の飛行場で公演を行う。搭乗員たちへの激励だ」

     搭乗員。ひかるはその言葉を咀嚼した。

     飛行機に乗る人間。昭和十九年の八月に、飛行場にいる搭乗員。

    「……特攻ですか」

     声に出たのは自分でも驚いた。

     男がひかるを見た。夏希も見た。メンバー全員が見た。

     男はひかるから視線を外さなかった。

    「搭乗員への慰問だと言った」

    「でも——」

    「ひかる」

     夏希が言った。それだけで止まった。

     男は続けた。

    「曲目の指定がある。昨日、広場で歌っていたものだ。あの歌を歌え」

     沈黙が落ちた。

     麻衣が小さく「え」と言った。里桜が息を呑む音がした。

    「……確認させてください」と夏希が言った。「私たちが昨日歌っていた曲は、軍歌ではありません。現代の——私たちの時代の、ポップミュージックです。歌詞の内容も、軍とは無関係で」

    「聞いた」

    「歌詞の意味は」

    「関係ない」

     男は初めて、感情らしいものを声に滲ませた。軽蔑ではなかった。苛立ちでもなかった。もっと別の何か——確信、とひかるには聞こえた。

    「昨夜、広場であの歌を聴いた兵士が何人かいた。今朝、その者たちが言っていた。死ぬのが怖くなくなった、と」

     蝉が鳴いていた。

    「歌詞の意味などわからなくていい。あの熱量が要る。搭乗員たちに、あれを浴びせろ。出撃前夜に」

     ひかるは庭の土を見た。

     昨夜、里桜が言っていた。歌ったら、本当に、戦いに行かせちゃうんじゃないかって。

     その通りだった。軍はそれを狙っていた。狙っているどころか、確信していた。昨夜すでに効果を確認して、三日後の公演を決めていた。

    「断ったら」

     また声が出た。今度は自分で驚かなかった。

     男は少し間を置いた。

    「お前たちは国籍不明の不審者だ。今は私の温情で、ここにいる」

     答えになっていなかった。答えになっていなかったが、答えだった。

    「二点、交渉させてください」

     夏希が立ち上がった。

     男が見た。

    「一点目。公演の形式について、こちらに裁量をください。曲目、順番、演出。軍歌は歌いません。私たちが歌える曲を、私たちのやり方でやります」

    「……続けろ」

    「二点目。メンバーの食事と、衣装の返還を。昨日没収した衣装を返してください。あれがないと、私たちはパフォーマンスができません」

     男は夏希を見ていた。長く見ていた。

    「衣装は返す。食事は約束する。裁量については——公演の内容を事前に報告しろ。問題があれば止める」

    「わかりました」

     夏希は頭を下げた。深く、丁寧に。

     男が踵を返した。足が止まった。庭の砂利の上で、革靴の音が止まった。

     男は振り返らなかった。背中を向けたまま、低く言った。

    「兄がいた」

     ひかるは男の背中を見た。

    「去年の夏に、南方で死んだ。——あの歌が、何かの役に立てばいい」

     それだけ言って、男は歩き去った。砂利を踏む音が遠くなった。角を曲がって、消えた。

     蝉の声だけが残った。

     ひかるは夏希の背中を見た。立ったまま動かない。頭を上げている。背筋が伸びている。

    「夏希」

    「三日ある」と夏希は言った。振り返らなかった。「セットリストを考える。十三人で出来ること、出来ないことを洗い出す。音響も照明もない。楽器もない。声と身体だけでどこまでできるか」

    「……そっちじゃなくて」

    「そっちじゃなくて?」

    「歌って、いいの」

     夏希がようやく振り返った。

     目が充血していた。昨夜から変わっていなかった。

    「良くない」と夏希は言った。「良くないけど、歌わなかったら私たちはここで消える。歌ったら、あの人たちは死地に行く。どっちも最悪」

    「じゃあ」

    「最悪の中でマシを選ぶのが仕事だって、デビュー前の研修で習わなかった?」

     ひかるは答えられなかった。

     夏希は庭に降りた。土の上に立って、メンバー全員を見回した。

    「三日で作る。REBEL 13として、最高のステージを。——それだけ考えよう」

     誰も言葉を返さなかった。

     しかし誰も、反論もしなかった。


     その夜、美月が泣いた。

     最年少の十七歳だった。加入して半年しか経っていなかった。畳の上で顔を伏せて声を殺していた。ひかるはその隣に座った。

    「家に、帰れるかな」と美月が小さく言った。

    「帰れる」とひかるは言った。理由はなかった。しかし言った。言わなければ、美月が朝まで持たなかった。

    「ひかるちゃんは、なんでそんなに落ち着いてるの」

     ひかるは答えなかった。

     落ち着いていないからだ、とは言わなかった。落ち着いていないから、落ち着いているふりをしている、とも言わなかった。美月が自分より三つ下であることだけが、今のひかるを縁側から落とさない重しになっていた。下がいる。下の人間が泣いている。下の人間を泣き止ませなければならない。そのことだけが、ひかるに役割を与えていた。

     ひかるは美月の背中を撫でた。

     撫でる手のひらが、震えていることに、ひかるは気づいていた。美月は気づいていないように祈った。


     ひかるは昭和十九年を、知っていた。

     知っていた、というのは、文字として知っていた、という意味だった。教科書のページに印刷された、黒い活字として知っていた。テストに出る年号として知っていた。スマホで検索すれば三秒で出てくる情報として知っていた。

     その全部が今、息をしている男たちの顔に貼りついた。

     東京大空襲は来年の三月だ。B-29が東京の下町を焼く。一夜で十万人が死ぬ。ひかるはその数字を知っていた。十万という数字を。しかし今、自分の前に立っていた将校は汗をかいていた。革帯の金具が月明かりを反射していた。呼吸していた。兄を失っていた。十万という数字の中に、この男の兄は、もう入っていた。

     広島は来年の八月六日だ。

     長崎は九日だ。

     沖縄では、今年の秋から戦闘が激しくなる。来年の春に地上戦が始まる。民間人を含めて二十万人以上が死ぬ。ひかるは二十万という数字を知っていた。知っていた。しかしそれは今まで、終わった話だった。決着がついた話だった。歴史という名前のついた、変更不可能なファイルの中に格納されていた話だった。

     そのファイルが今、開いていた。

     しかも、ひかるは結末を知っていた。

     日本は負ける。来年の八月十五日に、昭和天皇がラジオで終戦を告げる。その日まで、何十万人が死ぬかひかるは知っていた。知っていて、何もできなかった。アイドルとして三年間、何かを変えようとして、変えられなかったことは一度もなかった。練習すれば歌がうまくなった。努力すればセンターになれた。諦めなければ何かが変わった。

     しかしこれは変わらない。

     どれだけ歌っても、どれだけ叫んでも、来年の八月十五日は来る。その前に、この目の前の男たちの何人かが死ぬ。ひかるがここで何をしても、歴史は一秒も動かない。

     これから一年が、ひかるには見えた。

     現代では一年は未来だった。次のツアーの準備をする時間だった。新曲を出す時間だった。ファンが増える時間だった。しかし昭和十九年の一年は、死に向かうカウントダウンだった。このカウントダウンを、ひかるは止められない。誰も止められない。すでに止まらなかった記録が、ひかるの頭の中にあった。

     夏希の「それが仕事ですので」という声が、耳の奥に残っていた。

     仕事、とひかるは思った。

     変えられないものの前で、それでも仕事をする、ということの意味を、ひかるはこのとき初めて考えた。答えは出なかった。出なかったが、夏希は答えていた。


    第三章 セットリスト

     広場の隅に、屋根だけある空間があった。

     柱と屋根だけで、壁がない。農具か何かを置くための場所だったのかもしれなかった。夏希はそこを練習場所として将校から許可を取った。理由を聞かれて「身体を動かさないとパフォーマンスが落ちます」と答えた。許可が出た。

     十三人が、土の上に立った。

     夏希が全員を見回した。

    「確認する。マイクなし、音源なし、照明なし、モニターなし。使えるのは声と身体だけ。会場は屋外、飛行場の広場。客席は——」

    「客席じゃない」と誰かが言った。

     夏希は止まらなかった。

    「観客は搭乗員、人数は未確認。おそらく数十人から百人程度。距離は近い。ということは——」

    「夏希」

     ひかるは言った。

    「何」

    「本当にやるの」

     静止。

     全員がひかるを見た。夏希もひかるを見た。目が充血したままだった。三日経っても治っていなかった。

    「やると言った」

    「でも、これは普通のライブじゃない。私たちが今から作るもの、何なのかわかってる? セットリスト会議って言ってるけど、私たちが今から話し合うのは、どうすればあの人たちを——」

    「わかってる」

     夏希の声が低くなった。

    「わかった上で言ってる。ひかる、あなたも昨日聞いたはずだよ。歌わなかった場合どうなるか、あの人は何も言わなかった。言わなかったけど、言った。私たちには歌う以外の選択肢がない。だったら——」

    「だったら最高のものを作る、でしょ」

     ひかるは自分の声が荒れているのを聞いた。

    「それがおかしいって言ってるの。私たち、プロだから。始まったら本気になる。どうすれば伝わるか考え始める。気がついたら最高のステージを作ろうとしてる。それって——」

    「それがプロだから」

    「それが怖いって言ってる」

     沈黙が落ちた。

     蝉が鳴いていた。遠くで何か機械の音がした。飛行機のエンジンかもしれなかった。

     夏希が一度、目を閉じた。

     開いた。

    「怖くていい」と夏希は言った。「怖いまま考える。怖いまま動く。怖いまま歌う。怖くなくなったら終わりだと思う。——始めるよ」

     誰も動かなかった。

     三秒あって、里桜が立ち上がった。次に麻衣が立った。一人ずつ、順番に立っていった。最後にひかるが立った。


     夏希は数式を解いていた。

    「野外で十三人の声の位相を揃えるには、全員が同じ方向を向いていてはいけない。声は球状に広がる。全員が前を向けば、後方に音が逃げる。半円が正解」

    「波長のずれが半波長を超えると、完全に打ち消し合う」と咲良が言った。

     全員が咲良を見た。咲良は恥ずかしそうに下を向いた。

    「中学まで合唱部で。音楽理論の副教材で、ちょっと」

     夏希が頷いた。

    「じゃあ咲良、位相の調整は任せる」

    「できるかな」

    「できる」

     咲良は顔を上げた。赤くなっていた。咲良はアイドルになる前、音大の声楽科を受けようとしていた少女だった。両親と揉めて、結局REBEL 13のオーディションを選んだ。音大を蹴った経歴が、三日後に役立つとは、誰も思っていなかった。咲良自身も思っていなかった。咲良の顔から、一瞬だけ、赤みの意味が変わった。恥ずかしさではなく、違う何かに変わった。

     夏希はそれを見ていたかもしれなかった。見ていなくても、夏希は次の問いへ進んだ。

    「低音がない。ベースも太鼓もない。この中で一番声が低い人間は」

     三人が手を挙げた。

    「その三人を半円の端に置く。低い声が左右から来ると、身体が揺れる感覚が出る。重低音の代わりになる」

     試した。なった。完全ではなかった。しかし百人分の身体を揺らすには足りなかった。

    「足を使う」と夏希は言った。「ステップの音を揃える。土の上だから振動が伝わる。低い音の代わりに、振動で揺らす」

     瑠香が前に出た。

    「歩幅を揃える。踵から着く。つま先で押す。それだけで音の立ち方が変わる」

     瑠香は元バレエ少女だった。十二歳から十七歳までバレエをやっていて、アイドルに転向したとき、「跳び方の質感が違う」と最初の振付師に言われた少女だった。今、そのバレエの素養が、土の上の十三人分の足音の精度を決めようとしていた。

     瑠香は一人で踏んでみせた。土が鳴った。乾いた、短い音だった。

    「これを十三人で揃える」

     全員が足を踏んだ。瑠香が首を振った。

    「踵から」

     もう一度踏んだ。瑠香が頷いた。

     揃ったとき、土が震えた。

     それが正解だとわかった。揃えるほど振動が増した。数の暴力だった。技術ではなく、質量だった。十三人の足が同時に土を叩けば、百人の身体の底に届く振動が生まれた。

     夏希はそれを確認して、次に進んだ。

    「声量の配分。全員が常に全力では、十五分で枯れる。最初の二曲は七割。三曲目で八割。最後で全部出す。全部出した後は枯れていい。最後が終わればいい」

     最後が終わればいい。

     その言葉をひかるは聞いた。

     最後が終わった後のことを、夏希は考えていなかった。考えないようにしていた。百人の兵士たちが翌朝どこへ行くかを、セットリストの外に置いていた。置かなければ、数式が解けなかった。

     ひかるには、夏希の手が震えているのが見えた。

     紙の上で計算する、その手が、数字を書いているあいだだけ止まっていた。計算が終わって手が紙から離れると、震えが戻った。一瞬だった。すぐに次の計算に入って、また止まった。ひかるは気づいた。夏希は計算に逃げているのではなかった。計算だけが、手の震えを止めていた。キャプテンの声が事務的なのは、感情が薄いからではなかった。事務的な声を作ることだけが、今の夏希の全身を一つにまとめていた。他の声を出した瞬間に、夏希は崩れる。崩れることを、夏希は自分に許さなかった。

     それがひかるには一番、苦しかった。

     苦しかったが、ひかるも同じことをしていた。

     どうすれば声が届くかを考えていた。どのフォーメーションが熱量を伝えるかを考えていた。翌朝のことを、考えの外に置いていた。置かなければ、次の問いに進めなかった。

     プロとして身体に刻まれた回路が、状況の倫理より先に動いた。

     動いていた。今も動いていた。


     三時間後、ひかるは土の上に座っていた。

     全身が汗で濡れていた。喉が痛かった。借り物の着物の裾が砂で汚れていた。

     セットリストが決まっていった。

     一曲目は静かに入る。まず音として届ける。二曲目で身体を使う。三曲目で声量を上げる。そして——

    「四曲目は『REBEL』で」と夏希が言った。

     沈黙。

     REBEL。REBEL 13の代表曲。戦え、戦え、お前たちの声で。

    「それを最後に持ってくる理由は」とひかるは言った。

    「一番熱量が高いから」

    「それを使うの」

    「使う」

     夏希の目に迷いがなかった。迷いがないのが、ひかるには一番苦しかった。

     夏希は迷っていないのではなかった。迷いを全部、キャプテンという役割の後ろに押し込んでいるのだとひかるにはわかった。わかるから言えなかった。

    「……わかった」

     ひかるは答えた。

     その瞬間に、自分たちが何を作っているのかを、もう一度確認した。

     声と身体だけで作る、十三人の、最高のステージ。

     観客は、明後日の朝には死んでいる。


    第四章 誠

     洗濯物が、風に揺れていた。

     木綿の白い布が、竿に何枚も干してあった。ひかるはその下を歩いた。布が顔に触れた。乾いた、日光の匂いがした。柔軟剤ではない匂いだった。太陽と風だけで乾かした布の匂いだった。

     夏希は将校のところへ行っていた。明日のステージの最終確認と、衣装着用の許可を取りに。他のメンバーは建物の中で休んでいた。ひかるだけが外にいた。理由はなかった。座っていられなかった。

     誠は、建物の陰にいた。

     壁に背をもたれて、空を見上げていた。膝を立てて座っていた。軍服ではなかった。白い開襟シャツと、くたびれた綿のズボン。外出を許されている時間なのかもしれなかった。

     ひかるは三歩手前で止まった。

     わかった。

     論理ではなかった。東京ドームの最前列で、サイリウムを持ったまま手を止めて、泣いているのか笑っているのかわからない顔でこちらを見ていた青年と、同じ顔だった。同じ、という言葉が正確かどうかひかるにはわからなかった。しかし網膜が言った。同じだ、と。

     誠が気配に気づいて、ひかるを見た。

     少し、目を丸くした。

     次に、小さく頭を下げた。

    「昨日の、広場にいた人たちですよね」

     誠の声は思ったより低かった。

    「……うん」

    「歌、聴きました」

     ひかるは答えられなかった。

    「不思議な歌でした。言葉の意味はよくわからなかったけど」誠は空に視線を戻した。「なんか、動いた気がして」

    「動いた?」

    「ここが」

     誠は自分の胸のあたりを、拳で軽く叩いた。強くではなかった。確認するように、そっと叩いた。

    「三日間、何も感じなかったので。動くものがまだあったんだと思って、少し、驚きました」

     ひかるは誠の横顔を見た。

     二十一歳、とひかるは思った。自分より三つ上だった。しかし老けているとは思わなかった。ただ、静かだった。感情を使い切った後の静けさだった。嵐が来る前ではなく、嵐が来ることをすでに知っている人間の静けさだった。

    「あんたたち、どこから来たんだ」

     誠が言った。

    「遠いところから」

     誠は少し笑った。目だけで笑った。口元がわずかに動いた。

    「そうか」

     それだけ言って、また空を見た。

     ひかるも空を見た。青かった。雲が一つ、ゆっくり動いていた。

    「ご家族は」

     ひかるは聞いた。聞かなくていいことだと、聞きながら思った。しかし聞いた。

     誠は少し黙った。

    「熊本に。親と、弟妹が四人」

    「……四人」

    「一番上が俺。次が妹で、十七歳。その下が弟、十四。下の妹が九歳。一番下の弟が七歳」誠は指を折りながら数えた。折り終えて、手を握り直した。「一番下の妹が、肺が悪い。去年から床に伏せてる」

    「薬は」

    「高い」

     それだけ言って、誠はまた黙った。

     ひかるは誠の横顔を見た。

    「師範学校に入ってた。三年になった夏に、志願じゃなく、命令で航空に回された。先生になりたかった。国語の先生に」誠は空を見たまま言った。「下の妹に、本を読んでやるのが上手くなりたかった」

     蝉が鳴いていた。

    「給料は家に送ってる。特攻で死ぬと、遺族年金が出る。今より多く出る。それで妹の薬代が続けられる」

     ひかるは息を止めた。

    「それが志願の理由ですか」

    「志願じゃない」と誠は言った。「でも、行く理由にはなってる」

     誠の声は変わらなかった。声を作っていない声だった。感情を抜いた声ではなく、最初から感情が届かないところに置かれた声だった。ひかるはその声を聞いて、三日間の沈黙の正体を知った。誠は死を怖がっているのではなかった。誠は、自分が死ぬことで妹の薬代が続く、その構造を受け入れていた。受け入れた瞬間に、心が静かになった。静けさは諦めではなく、決着だった。

     それを昨日、ひかるたちの歌が、ほんの一瞬、動かしてしまった。

     三日間凍っていたものが、動いた。

     動いたことで、誠は「怖い」と「怖くない」の区別を、もう一度持ってしまった。

    「明日、来るんですか」と誠が言った。「公演」

    「……来るの?」

    「行けと言われました」誠は空を見たまま言った。「まあ、行きます。最後ですし」

     最後。

     その言葉をひかるは身体で受けた。胸でも頭でもなく、もっと低いところで受けた。

    「怖い?」

     聞いてから後悔した。聞くべきことではなかった。しかし出てしまった。

     誠は少し黙った。

    「前は怖かったです」と誠は言った。「最初に命令が出たとき、夜中に何度も目が覚めて、ずっと手が震えてた。でも今は、よくわからなくなりました。怖いのかどうかも、嫌なのかどうかも。ただ、明後日の朝になったら飛ぶんだなと思って、空ばかり見てる」

     蝉が鳴いていた。

     洗濯物が揺れていた。

     ひかるは明日のセットリストを頭の中に持っていた。三時間かけて作ったものが、そのまま入っていた。一曲目、二曲目、三曲目、四曲目。最後は『REBEL』だった。戦え、戦え、お前たちの声で。

    「歌、また聴いてほしいですか」と誠が聞いた。

     ひかるは誠を見た。

     誠はひかるを見ていた。泣いているのか笑っているのかわからない目をしていた。東京ドームで見たのと、同じ目だった。

     ひかるは答えなかった。

     答えられなかった。

     はい、と言えば嘘だった。いいえ、と言っても嘘だった。

     誠は少し待って、また空を見た。

    「聴きます」と誠は言った。自分で答えを出すように言った。「最前列で聴きます。あんたの歌、また聴きたいから」

     またという言葉を、誠は何でもないように言った。

     ひかるは昨夜の東京ドームを思い出した。最前列の青年に人差し指を向けた瞬間を思い出した。お前に歌っている。

     その指が今、誠に向いていた。

     向けていない。しかし向いていた。

     明後日の朝、この人は死ぬ。

     そして自分は明日、この人の前で歌う。全力で歌う。プロとして身体に刻まれた回路が動いて、最高のステージを作ろうとする。そして誠の中の、三日間凍っていた何かを、もう一度動かす。

     それが何を意味するか、ひかるにはわかっていた。

     わかっていて、止められなかった。

    「……うん」とひかるは言った。

     声が掠れた。

    「聴きに来て」


    第五章 開演

     飛行場の広場は、思ったより広かった。

     土を固めただけの地面。遮るものが何もない空。八月の太陽が、真上から全員に等しく落ちてきた。ひかるは目を細めた。舞台袖がなかった。照明ブースがなかった。客席とステージを分ける段差がなかった。ただ、広場の一端に十三人が立って、もう一端に兵士たちが集まっていた。

     百人、いるかいないか。

     全員、軍服だった。直立していた。私語がなかった。ライブの開演前の空気ではなかった。整列して命令を待つ人間の空気だった。

     ひかるは衣装を着ていた。

     没収されていたミリタリーコートが返還されていた。薄い化繊の生地が肌に触れた。三日ぶりに着たそれは、異物のように身体に馴染まなかった。昭和十九年の空気に、この素材は浮いていた。

    「始めるよ」と夏希が言った。

     誰も返事をしなかった。全員、顔を上げた。


     一曲目は、静かだった。

     マイクがないから、ひかるは声の出口を変えた。喉ではなく、身体の中心から引っ張り上げるように出す。野外の空気は音を吸う。吸われる前に、遠くの一点を狙って飛ばす。夏希に言われた通りにやった。

     最初の一節が終わったとき、兵士たちの中に動きがあった。

     数人が、顔を上げた。

     命令を待つ顔ではなくなっていた。何かを聞いている顔だった。ひかるにはそれが見えた。距離があっても見えた。三年間、ステージから客席の顔を拾い続けてきた目が、自動的に動いた。

     咲良の声が、ひかるの左から来た。

     位相が揃っていた。咲良がフォーメーションの端で、他のメンバーの声の波を拾って、自分の声をそこに重ねていた。理論通りだった。百人の兵士の中心に、音が集まるように、咲良は自分の位置だけで調整し続けていた。ひかるには、咲良の顔が見えないまま、声の集まり方でわかった。

     二曲目で身体を使った。

     ステップの音が土に吸われた。それでも十三人が同時に踏めば、振動が地面を伝わった。瑠香の足踏みが、最初の一打を刻んだ。踵から、正確に。残り十二人の足が、瑠香の一打に合わせて、土を叩いた。

     兵士たちが動き始めた。

     直立が崩れた。崩れた、というより、解けた。棒のように張っていた背筋が、音につられて前のめりになった。数人が列を外れて一歩前に出た。

     三曲目の途中で、ひかるは気づいた。

     泣いている兵士がいた。

     声を出さずに泣いていた。口を閉じたまま、顔だけが濡れていた。隣に立つ兵士はそれを見ていなかった。見ていても、何も言わなかった。ここでは泣くことが恥ではないのかもしれなかった。あるいは、もうそういうことを気にしている段階を、全員が過ぎているのかもしれなかった。

     ひかるは歌いながら、セットリストの残りを数えた。

     次が最後だった。


     『REBEL』のイントロは、なかった。

     音源がないから、夏希のカウントで始まった。夏希が四拍を刻んだ。十三人の息が揃った。

     最初の一音が、広場に放たれた。

     空気が変わった。

     ひかるにはわかった。三年間ステージに立ち続けて、空気が変わる瞬間というものを身体で知っていた。スイッチが入る瞬間。観客が聴衆から何か別のものに変わる瞬間。それが今、音響も照明も何もない昭和十九年の飛行場で、起きていた。

     兵士たちが動いた。

     一人が声を上げた。言葉ではなかった。叫びに近かった。それが隣に伝染した。波のように広がった。百人近い男たちが、熱を持ち始めた。凍っていたものが溶けていく音がした。

     ひかるは歌いながら、最前列を探した。

     いた。

     誠が、最前列にいた。

     約束通りだった。約束通りに来ていた。他の兵士たちが叫び声を上げる中で、誠だけが静かだった。静かに立って、ひかるを見ていた。泣いているのか笑っているのかわからない目で、まっすぐに見ていた。

     東京ドームで見たのと、同じ目だった。

     ひかるの身体が動いた。

     プロとして刻まれた回路が動いた。考えるより先に動いた。

     ひかるは歌いながら、走った。最前列へ向かって走った。土を踏んだ。距離が縮まった。誠の顔が近くなった。泣いているのか笑っているのかわからない顔が、近くなった。

     ひかるは誠の目を見た。

     見たまま、人差し指を向けた。

     お前に歌っている。

     誠の顔が崩れた。

     東京ドームで見たのと、同じように崩れた。口元が歪んだ。目が細くなった。笑っているのか泣いているのかやはりわからなかった。しかしその顔の中に、三日間凍っていたものが溶けているのが見えた。動いていた。誠の胸の中の何かが、また動いていた。


     その瞬間、ひかるの視界が広がった。

     誠だけを見ていた目が、広場全体を拾い始めた。

     里桜が、泣きながら歌っていた。

     声は出ていた。音程も取れていた。フォーメーションも崩れていなかった。ただ、顔が濡れていた。昨夜「歌ったら戦いに行かせちゃう」と言っていた里桜が、今、誰よりも高く跳んでいた。着物の裾が土埃を巻き上げた。跳ぶたびに巻き上げた。泣きながら跳んでいた。止まらなかった。止められないのか、止めないのか、ひかるにはわからなかった。

     麻衣が声を張り上げていた。

     マイクなしで出せる限界まで声を出していた。首筋に筋が立っていた。目が赤かった。怒っているような顔だった。誰に怒っているのかわからない顔だった。軍に怒っているのか、この状況に怒っているのか、あるいは全力で歌っている自分自身に怒っているのか。それでも音は飛んでいた。遠くまで飛んでいた。

     美月が、歌っていた。

     ひかるは美月を見た。昨夜畳の上で泣いていた十七歳が、今、真ん中に立っていた。半円の中央。半円の中で声の中心になる位置。夏希がそこに美月を置いていた。美月は声を出していた。泣いていなかった。昨夜の美月ではなかった。自分より下の人間、助けなければならない人間の位置に立っていた美月が、今、百人の兵士の顔に向かって、声を飛ばしていた。ひかるは喉の奥で何かが鳴った気がした。自分が昨夜、美月の背中を撫でて、震える手を隠していたあの時間が、今、この位置に結実していた。

     夏希は動かなかった。

     フォーメーションの端に立って、全員の位置と音程を確認し続けていた。誰かのピッチが下がると手で合図した。フォーメーションが崩れると目線で修正した。感情の体温がなかった。なかった、のではなく、全部を切り離して指揮だけをしていた。切り離すことで、立っていた。

     ひかるにはわかった。夏希は今、崩れないために崩れていない、のではなかった。崩れないことだけを、今夜の仕事にしていた。


     兵士たちが、溶けていた。

     最初は整列していた。名前と階級を持った、個人の集まりだった。しかし三曲目が終わる頃には、それが失われていた。百人の男たちが、名前のない熱の塊になっていた。

     叫んでいる者がいた。両腕を上げていた。軍服の袖が土埃で薄く白くなっていた。隣の男の肩を叩いていた。叩かれた男も叫んだ。連鎖した。伝染した。止まらなかった。

     泣いている者がいた。声を上げて泣いていた。恥ずかしそうではなかった。泣いていることに気づいていないようだった。身体が泣いていた。

     足を踏む者がいた。

     一人が踏んだ。隣が合わせた。また隣が合わせた。百人の足が土を叩いた。乾いた広場に土埃が舞った。埃が夕暮れの光の中で輝いた。十三人の声と土埃が混ざった。混ざって、空へ向かった。

     空へ向かった。

     ひかるはその瞬間、一度だけ視線を上げた。

     広場の上に空があった。八月の夕暮れが、端から赤くなっていた。どこまでも高く、どこまでも広く、何も遮るものがなかった。この熱狂の全部が、あの空に向かっていた。明後日の朝、誠たちが飛んでいく空に向かっていた。

     地面の振動がひかるの足の裏を伝わった。

     百人分の足踏みが、土を通じて伝わってきた。アリーナの床が揺れるのと同じ振動だった。同じだった。それが今夜だけは許されない等価だとわかっていても、身体は同じように受け取った。

     ひかるは歌い続けた。

     戦え、戦え、お前たちの声で。

     わかっていた。この熱量が今夜、百人分の何かを溶かしていた。三日間、あるいは何ヶ月間、凍り続けていたものを溶かしていた。溶けたものがどこへ向かうか、全員が知っていた。全員が知っていて、それでも溶けることを選んでいた。選ぶしかなかったのかもしれなかった。

     ひかるは誠を見た。

     誠は最前列にいた。足を踏んでいた。叫んでいなかった。ただ足を踏んで、ひかるを見ていた。顔が崩れたままだった。笑っているのか泣いているのかわからない顔が、崩れたまま固まっていた。その顔の中に、生きている人間の熱があった。三日間なくなっていたはずの熱が、戻っていた。

     それがひかるの歌のせいだと、ひかるは知っていた。

     知っていて、止めなかった。

     止めない、と選んだ。

     誠の最後の夜を、最高に輝かせることだけが、今夜の自分たちに出来ることだった。世界は変えられない。歴史は変えられない。それでも、目の前の一人の最後の夜を、自分の声で満たすことが出来た。

     それがアイドルの仕事だと、ひかるは思った。

     思いながら、最後まで歌い続けた。

     空が赤かった。

     土埃が光っていた。

     百人の足が鳴っていた。

     里桜が泣きながら跳んでいた。

     夏希が端に立って、全部を見ていた。

     美月が、半円の中心で声を飛ばしていた。

     誠が最前列で、崩れた顔のまま、足を踏んでいた。


    第六章 早暁

     ひかるは眠れなかった。

     畳の上で目を開けていた。隣では美月が眠っていた。息が浅く、苦しそうだった。悪夢を見ているのかもしれなかった。ひかるは起き上がらなかった。起き上がったら、美月を起こしてしまう気がした。美月に、これから聞こえる音を、聞かせたくなかった。

     しかし自分は聞きに行く、とひかるは決めていた。

     昨夜、セットリストの最後の一音を歌い終わったあと、決めていた。逃げない。閉じない。耳に入れる。自分たちが作ったステージが、翌朝何を意味するかを、自分の耳で確認する。それが、歌った人間の責任だった。

     夜明け前に外へ出た。

     空がまだ暗かった。東の端だけが、ほんのわずかに白み始めていた。草の露がひかるの足を濡らした。借り物の着物は裾が汚れて、ほとんど土色になっていた。ひかるは気にしなかった。

     飛行場のほうで、人の動く気配がした。

     夏希がいた。

     いつの間に出てきたのか、ひかるの隣に立っていた。借り物の着物のまま、腕を組んで、飛行場の方向を見ていた。

    「眠れた?」とひかるは聞いた。

    「いや」と夏希は言った。

     それだけ交わして、二人とも黙った。話すことはなかった。話してしまったら、話せなくなる気がした。

     エンジンの音が聞こえた。

     最初は一機だった。低く、鈍く、唸るような音。やがて二機目が重なった。三機目、四機目。音が積もっていった。ひかるは耳を澄ませた。——九機、とひかるは数えた。あるいは十機かもしれなかった。昨夜、最前列で立っていた兵士たちの顔が、頭の中にあった。叫んでいた顔、泣いていた顔、踏んでいた顔。その中に、誠の顔があった。あの顔が、今、機体の中にあった。

     どの機体かわからなかった。

     ひかるは暗い空を見上げた。機影は見えなかった。まだ暗すぎた。音だけが、並んでいた。並んで、どれも同じ音をしていた。

     そのことが、ひかるには一番こたえた。

     百人の兵士の中で、誠は「誠」だった。ひかるの網膜が「誠」として拾った顔があった。声の低さがあった。妹の薬代の話をした指があった。師範学校の制服で、下の妹に本を読んでやりたかった、と言ったあの声があった。しかし今、空には音しかなかった。音は同じ音をしていた。誠の音はなかった。誠は、並んだ音の中の、どれか一つだった。どれか一つ、とひかるは思った。その「どれか一つ」の冷たさをひかるは受けた。名前があった人間が、名前を失う瞬間を、ひかるは聞いていた。

     エンジン音が変わった。

     離陸する音に変わった。一機が動き始めた。滑走路を駆ける音。次の一機が続いた。次、次、次。一機ずつ、等間隔で、地面を離れていった。

     空が、薄く白み始めた。

     ひかるは空を見上げた。暗いままの空に、黒い点がいくつか、一列に並んでいた。十機だった。数えられた。

     どれが誠だろうか、とひかるは思った。

     思って、やめた。

     どれが誠か、わからないまま、ひかるは見送ることしかできなかった。それがひかるに与えられた別れの形だった。不完全な、輪郭のない別れ。自分が昨夜まで見ていた顔を、今は名前のない黒い点の列としてしか見られない別れ。

     これが歴史だ、とひかるは思った。

     歴史は、個別の顔を、数字に置き換える。十万という数字を、二十万という数字を、ひかるは知っていた。知っていた。知っていたが、その数字の一つ一つに顔があったのだと、今初めて知った。一つ一つに、妹の薬代があったのだと、知った。一つ一つに、読んでやりたかった本があったのだと、知った。

     音が遠くなっていった。

     重なったまま、遠くなっていった。

    「夏希」とひかるは言った。

    「うん」と夏希は言った。

     しばらく黙っていた。

    「次のステージ、どこだろうね」と夏希が言った。

     ひかるは夏希を見た。

     夏希は飛行場の方向を見たままだった。泣いていなかった。泣いていなかったが、泣いていた。ひかるにはわかった。泣く場所をどこかに閉まったまま、ずっとキャプテンでいる人間の顔をしていた。

     空が、白くなっていった。

     黒い点は、もう見えなかった。

     エンジン音は、もう聞こえなかった。

     後に残ったのは、蝉の声だった。

     蝉は、何も知らない顔で、鳴いていた。


    第七章 暗転、そして

     それは突然だった。

     理由も条件もなかった。

     夜明けの空を見上げていたひかるの視界が、暗転した。

     暗闇が、長かった。

     来るはずの光が、来なかった。0.8秒が過ぎ、1秒が過ぎ、——時間が、どこかへずれた。

     三日前にも感じた感覚だった。東京ドームの暗転の最中に、ひかるが一瞬だけ受け取った感覚。時間が外れる感覚。あのとき、時間は昭和十九年へずれていた。今、時間は元の場所へ戻ろうとしていた。

     次の瞬間、床が固くなかった。

     固い、スプリングフロアの感触があった。足の裏がそれを知っていた。身体が知っていた。

     照明が、降ってきた。

     白い、LEDの光だった。目を焼く光だった。二万人分の熱が天井にぶつかって戻ってきた。アリーナの空気が、湿って重く、ひかるの肺に入った。

     東京ドームだった。

     暗転の続きだった。

     時間は、一秒も経っていなかった。

     イヤモニから夏希の声がした。

    「ラスサビ、入るよ」

     事務的な声だった。感情の体温がなかった。いつも通りだった。

     ひかるは夏希を見た。

     ステージの下手で、夏希が立っていた。夏希はひかるを見ていなかった。前を見ていた。キャプテンの顔をしていた。しかしひかるは知っていた。あの顔の中に、泣く場所を閉まって飛行場の方向を見ていた人間がいることを。知っていた。知って、頷いた。

     ひかるは前を見た。

     二万人がいた。サイリウムが揺れていた。全員が叫んでいた。戦え、戦え、お前たちの声で。

     最前列に、青年がいた。

     サイリウムを持ったまま手を止めていた。泣いているのか笑っているのかわからない顔で、こちらを見ていた。

     昨夜の誠と同じ顔だった。

     しかし同じではなかった。

     ひかるには、その違いが見えた。この青年は明日、死なない。明日、電車に乗って家に帰る。コンビニで弁当を買う。来週また別のライブに来る。この青年は、誠ではなかった。誠に似ていても、誠ではなかった。

     ひかるはそのことに、初めて気づいた。

     今まで自分は、最前列の顔を「お前」と呼んで、指を向けて歌ってきた。しかしあの「お前」は、顔のない「お前」だった。何万人にも共通する「お前」だった。誠は、顔のある「お前」だった。たった一晩の、たった一人の「お前」だった。

     ひかるは自分の手を見た。

     人差し指を見た。

     昭和十九年の飛行場で、誠に向けて伸ばした指と、今夜二万人に向けようとしている指が、同じ指だった。

     しかし、使い方を、ひかるは変えようとしていた。

     同じ指で、ひかるはマイクを握り直した。

     握った指先に、日光で乾いた木綿の匂いが戻っていた。血と土の匂いも戻っていた。三日間の、昨夜までの、重さが戻っていた。

     ひかるは息を吸った。

     喉の奥に、昨夜の広場の土埃の味があった。最後まで歌い切った喉の、擦り切れた感覚があった。

     声を出す前に、身体の中心が一秒だけ、据わった。

     それは昨夜、誠の目を見たときに、身体の中心に据わったのと、同じものだった。

     ひかるは最前列の青年を見た。

     見て、そのまま、青年の後ろを見た。

     青年の後ろの、誰でもない誰かを、見た。

     顔のない誰かではなかった。ひかるには、見えていた。二万人の一人一人に、顔があった。妹の薬代があった。読んでやりたかった本があった。一人一人が、「誰か」だった。今までひかるが「お前」と呼んでいた塊の中に、一人一人の顔が、初めて見えた。

     それがひかるの、新しい歌い方だった。

     歌った。


    了


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