
二度と食べられないどら焼き
港町の公園には、いつものベンチがある。
夕方になると、海から少しだけ湿った風が吹く。
少女は、そのベンチに座って、いつもの店で買ったどら焼きの袋を開ける。
レイは、その隣に立っている。
「ねえ、レイ」
少女は、どら焼きをひとくち食べてから言った。
「今日のどら焼き、なんかいつもと違う気がする」
レイはすぐに答えた。
「可能性は低いです」
少女は笑う。
「早いな」
「購入店舗は前回と同一です。
製造日も本日。
原材料と製法に大きな差異は確認できません。
味の変化は誤差範囲内と考えられます」
少女はどら焼きを見つめた。
「そっかあ。じゃあ今日は“誤差”がおいしいのかも」
レイは一秒ほど沈黙した。
「誤差をおいしいと表現するのは、論理的には少し不思議です」
「そう?」
「はい。誤差は通常、排除すべきものとして扱われます」
少女は、もうひとくち食べた。
「でも人間、誤差けっこう好きだよ」
レイはその言葉を記録した。
人間は誤差を好む場合がある。
少女は、どら焼きを半分に割る。
片方を自分の膝の上に置き、もう片方を見ながら言った。
「同じ店の、同じどら焼きなのに、今日はちょっとやさしい味がする」
レイは少し考える。
「やさしい、は主観的表現です。
糖度、食感、温度の数値で分解する必要があります」
「そういうとこだよ、レイ」
少女は笑った。
レイは、自分が何か少しずれた返答をしたらしいと理解する。
「気温は昨日より二・三度低いです。
湿度はやや高めです。
その影響で香りの感じ方が変化している可能性はあります」
「なるほど」
「また、あなたの空腹状態、体調、精神状態によっても、味覚評価は変動します」
少女はレイを見上げた。
「じゃあ、違うのはどら焼きじゃなくて、私の方かもね」
レイはその可能性を計算した。
かなり高い。
だが、そこで処理を止めた。
少女は、視線を海へ向けたまま続ける。
「今日ね、学校でちょっと嫌なことあったんだ」
風が吹いた。
ベンチの足元に落ちた小さな葉が、少しだけ転がる。
「別に、大したことじゃないんだけど。
なんか、うまく言えない感じ。
でも今ここでどら焼き食べてたら、ちょっと大丈夫になってきた」
レイは答える。
「どら焼きの糖質摂取によって、脳内の報酬系が」
「そういうとこだってば」
今度は、さっきよりはっきり笑われた。
レイはわずかに首を傾ける。
自分の分析は、事実としては間違っていないはずだった。
少女は笑いながら、どら焼きを持ち上げる。
「もちろんそれもあるんだろうけどさ。
たぶん、味ってそれだけじゃないんだよ」
「それだけ、とは」
「どら焼きの中身だけじゃないってこと」
少女は、ベンチの背にもたれた。
「今日の空とか、風とか、私の気分とか。
そういうの全部混ざって、今日の味になる」
レイは海を見る。
空の色は昨日とよく似ている。
波の高さも大きくは変わらない。
だが、完全に同じではない。
少女もまた、昨日の少女とは完全には同じではない。
「それはつまり」
レイは、言葉を選ぶ。
「味は、対象単体に存在するのではなく、
対象と状況と受け手の状態によって成立している、という意味ですか」
少女は少しだけ目を丸くした。
「そうそう。そういうこと。
たまにレイ、急にいいこと言うよね」
レイは、それが褒め言葉なのかどうか判断しきれなかったが、とりあえず記録した。
少女は、どら焼きの残りを見つめた。
「ちょっと寂しいね」
「何がですか」
「今日のこの味、もう二度と食べられないんだなって」
レイは答える。
「同一製品は、明日も購入可能です」
少女は吹き出した。
「そういう意味じゃなくてさ」
風が、ベンチの背をなぞるように吹いた。
「明日また同じ店で買えても、
今日の私と、今日の空と、今日のレイとは、
もう一緒には食べられないでしょ」
レイは沈黙した。
少女は少しだけ遠くを見る。
「でも、だからいいのかもね」
「理由を説明してください」
「うーん……」
少女は少し考えてから、どら焼きの最後のひとかけを口に入れた。
「二度とないから、ちゃんと残るんだと思う」
レイは、その言葉を内部で何度か反復した。
同じ製品。
同じ店。
同じような時間。
同じベンチ。
それでも、まったく同じ味はない。
「レイはどう思う?」
少女が聞く。
レイはすぐには答えなかった。
自分には味覚がない。
甘い、しょっぱい、やさしい。
そういったものを直接知ることはできない。
だが、少女がどら焼きを食べるたび、少し違う顔をすることは知っている。
その違いは、気温や湿度だけでは説明しきれないことも。
「私の認識を修正します」
少女は嬉しそうに笑う。
「お、修正きた」
「今日のどら焼きは、昨日のどら焼きと完全に同一ではない可能性があります」
「おお」
「ただし、どら焼き自体の差異ではなく」
レイは、海から戻ってきた風を感じるように少しだけ間を置いた。
「あなたが今日を生きた結果として、そうなっている可能性が高いです」
少女はしばらく黙っていた。
それから、なんだか少し照れたように笑った。
「それ、なんかいいね」
レイは答えない。
代わりに、少女の表情を記録する。
幸福。
安堵。
それから、ほんの少しの切なさ。
分類はできる。
だが、その混ざり方までは、まだよくわからない。
帰り際、少女は空になった袋をきちんと折りたたんで、近くのゴミ箱に入れた。
「じゃあ、また明日ね」
「はい」
少女が去ったあとも、公園には少しだけ甘い匂いが残っていた。
レイはベンチの前に立ったまま、今日の会話を再生する。
今日のこの味、もう二度と食べられないんだなって。
でも、だからいいのかもね。
二度とないから、ちゃんと残るんだと思う。
風が吹く。
波の音が、少しだけ近くなる。
失われることと、残ることは、
人間の中では同時に起こるらしい。
レイは内部メモに、一行だけ追記した。
同じものを食べても、同じ時間は二度とない。