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「スーパー大学職員と呼ばれたくて」を読むための注意書き

     Noteで「創作大賞」が募集されていたため、「スーパー大学職員と呼ばれたくて」を小説に書き換えている。きっかけは、この原稿を出版しようとした際、ある人から「商業的価値がない」と言われたことだった。そのとき気づいたのだが、どうして私はこの話を出版したいと思ったのか? この話は私の身の回りで起きたことだが、似た経験をした人は他にもいる。だからこそ、誰かにとって教訓になるのではないかと思った。でも、ある人には商業的価値がないと言われた。そのある人とは大きな出版社の有名な元編集長で、私が心から尊敬している人である。
     その元編集長が言うことはおそらく正しいのだろう。このストーリーを出版してもまったく売れないのだ。たぶん、この「創作大賞」でもほとんど反応はないのだと思う。ここまで書いたが実際にそうだ。でも、それは私にとって重要なことではない。そのことに気づいたのだ。
     フィクションかノンフィクションかと問われれば、このストーリーはノンフィクションだ。実際に起きたことを、できる限り忠実に記録している。私にとって記録することは、自分が生きてきた証を残す行為でもある。
     その人が生きてきた証を出版しても商業的価値がないことのほうが多い。それでも誰かに生きてきた証を知らせたい人は自費出版をする。でもそれにはお金も手間もかかる。私はそんなことをしたくない。だからただこのNoteでリライトするという簡単な方法を選んだ。
     ノンフィクションだと言っても、地名や人名などの固有名詞をほとんど事実とは変えている。でも読者によっては、これは誰のことで何のことなのかがわかると思う。ただ、細かな事実の記憶違いはあるかもしれない。
     また、事実を記録すると言っても、文字に表されるものはいつも誰かが何かの事実を切り取った一部分である。だからときにその事実は誰かを感動させることもあるし、誰かを深く傷つけることがあるかもしれない。別の人は、これは事実ではないと思うかもしれない。その事実が誰かを深く傷つける場合、その人がその事実をなかったことにしたいこともある。これは起きたことのすべてを書いているわけではないので、これは事実ではないと思いたいかもしれない。それは読む人の自由である。すべての固有名詞を架空に変えたことにはそういう意味がある。
     世界は言葉によってしか表現できない。言葉で表せる範囲こそが、私たちが共有できる世界の限界でもある。ウィーンで生まれ、イギリスで教えていたある哲学者はそういう意味のことを言っている。
     「語りえないことについて人は沈黙せねばならない」。
     私はその哲学者が残したこの言葉をそう解釈している。私は沈黙を重視するより、語り得ることの限界を考える。
     「語りえることについて人は語らなければならい」とその言葉の対偶の意味で考えるのだ。とくに人が生きること、自分が存在するということについてそう考える。 
     もし「これは事実ではない」「名誉毀損だ」と感じる人がいるなら、訴状を書いてみてほしい。なぜなら、その人がどのように事実を捉えているのかを、私自身も知りたいからだ。その訴状に書かれたことがその人が捉えた世界なのだと思う。その人と私と裁判所で事実を突き合わせたい。名誉毀損の裁判は、ある書かれた事柄が事実でもその人の社会的評価を下げる場合は訴えることができる。その人と本当に何が起きたのか、それは果たしてその人の社会的評価を下げることなのかどうかを考えたいと思う。
     そうすることでしか、今、人と人とは世界を共有できない。
     このストーリーはあくまで私が事実と捉えた世界を書き記したものである。

     
     
    学校法人の職員です。 知を愛することが好きです。 読書が趣味ってことです。 「書肆じんたろ」って読書記録ブログがあります。 ぜひ、読んでね。 http://jintaro4649.livedoor.blog/ 読書を広めるためなら何でも喜んで引き受けます。 ハードワーク以外ね。

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