
残響(エッセー)
※
東日本大震災について個人的に回顧しています。
極力配慮をしておりますが、
人によっては、ご不快になるような表現が
あるかもしれません。
ご自身の責任でお読みくださいますよう、
お願いいたします。
毎年3月11日は
人の命について考えます。
私は直接被災したわけではありませんが、
震度4の地域にいながら、
何がただごとではないような揺れであることを
感じたのを覚えています。
その後、
テレビで見た津波の映像
新聞に並んだ無数の名前
様変わりした東北の景色
それらが、
心に刻まれていきました。
特に、
新聞に並んだ無数の名前
それが深く印象に残っています。
新聞の「おくやみ」欄には
毎日亡くなった方の名前が載ります。
その名前は
自分に関係のある人が載れば目にとまるが、
ほとんどの場合、見過ごしてしまう。
関係性がなければ、
ただの情報、ただの文字、ただのインク
しかし、
身近な人の訃報なら目を見開いて読み、
それが本当のことなのか、
何度も疑うでしょう。
それが新聞でなく
誰かからの連絡や
SNSからの情報でも同じです。
東日本大震災の時は、
亡くなった方のお名前が、
かつて見たことのないほど
新聞のページを埋め尽くしていました。
当然ですが、
同じフォント、同じ大きさで、
整然と名前が並べられていました。
私は、
そんな名前の一つひとつが、
顔と体を持った人間であることを思いました。
灰色の空の下、
ひたすらに広い地面へ
整然と並べられた無数のご遺体
その光景を上空へと俯瞰していく映像と
ひとりのご遺体の側で死を悼む人たちの映像
その二つが頭に生まれました。
実際には、
ご遺体がいまだに見つからない方も
多くいらっしゃることと思います。
そうしたことも含め
名前が示す一人ひとりに
一つひとつの存在が、人生があるはずです。
新聞は名前しか伝えられません。
私はその一人ひとりがどんな方なのか、
どんな顔をしていたのか、
どんな体を持っていたのか、
どんな声で、どんなことを語ったのか
名前から知る由もありません。
それでも、それだからこそ
人が遺せるものは何か
人が生きた意味は何か
そうしたことを私は考えます。
人は産み落とされて
へその緒が切られ、物心がつけば
一人の独立した個人になります。
はじめ母親の一部だった「何か」は、
どんどん顔と体と声を持つ「誰か」になります。
そして、
その「誰か」が何かを考え、
言葉にして、行動したことは、
多かれ少なかれ他の誰かに影響を与えます。
同様に、
他の誰かの言葉や行動が、
私に影響を与えます。
これは、音のようなものかもしれません。
音源から発せられた音は、
空気をつたわり、
他の物体を震わせます。
誰かの発した言葉や行動は、
人の間をつたわり、
誰かの心を震わせます。
震えやすい固有の周波数があるから、
同じことにも
響く人と響かない人がいる。
だから、
自分に響くものを見つけた時は嬉しいし、
響く相手を見つけた時も嬉しい。
人の存在は、
音を発する源としての「その人」と
「その人」から発せられた音
その2つから成るのかもしれない。
オーケストラやバンドの生演奏が終わった時、
周囲のものに音が共鳴して、
ほんの一瞬だけ聞こえる残響。
それは、
音を発した源がなくなっても
共鳴した周囲のものに確かに存在する。
人も同じように
愛する誰かがいなくなっても
その人から受けた影響は残る。
その影響こそが、
人が生きた意味なのではないか。
その人から受け取ったものを響かせ続け、
私が忘れなければ、
その人の存在も消えてなくならない。
そうした響きを連綿と継いでいくのが、
人間というものなのかもしれない。
おわりに
最後までお読みいただきありがとうございます!
私は、「人生迷子を1人でも減らす」ために
日々活動をしております。
「人生迷子」を減らすために
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