100点じゃないなら、最初からやらないことにした
最近、noteをしていて、ときどき思う。
「また100点の時の自分が出てるな」
noteには、もちろん100点なんてない。
でも、スキの数が見える。
記事を出せば、反応が数字になる。
最初はただうれしかったはずなのに、続けているうちに、私はいつの間にかその数字を点数みたいに見るようになっていた。
何度もスキの数を確認する。
もっと読んでもらうために動く。
記事も何度も読み返す。
次に何を書くかは、四六時中考えている。
書くことがなくて困っているわけではない。
むしろ逆で、考えが次々に浮かびすぎて、頭の中で渋滞する。
そんな自分を見ながら、
「また、やりすぎてるな」
とは分かっている。
もっと言えば、
「これ、昔の100点の時と同じやな」
ということにも、かなり早い段階で気づいている。
それでも、その最中の私は止まれない。
この感じを、私はずっと前から知っている。
中学生の頃、テスト前になると怖かった。
中間テストや期末テストは、何教科もまとめてやってくる。
全部の範囲を完璧に覚えるなんて、どう考えても無理だった。
それでも私には、全部90点以上を取らなければならないような感覚があった。
母は、100点なら満足した。
成績のいい子と比べられて、
「あんたはほんまあかん」
と言われることもあった。
点数が悪ければ怒ったり、泣いたりした。
「こんな情けない子どもはいらない」
と言われることもあった。
殴られることもあった。
だから私は、テスト前日の夜、眠る直前まで必死で詰め込んだ。
両親が寝たあとも、一人で机に向かった。
でも、どうやっても間に合わない。
ある夜、机を離れて、ピアノにもたれて泣いた。
親が起きてくるかもしれないので、声は出さなかった。
怖かったのは、点数そのものではなかった。
その点数の向こう側にあるものだった。
高校へ入る前の春休み。
学校から出された課題を見て、
「これ、高校でも全部90点以上なんて無理やな」
と思った。
そして私は、少し変な結論を出した。
だったら、最初からやらなければいい。
頑張って勉強したのに悪い点を取る方が怖かった。
一生懸命やった自分ごと、
「それでもあかんかった」
になる気がした。
勉強していなければ、
「そりゃ、勉強してないからや」
と思える。
最初からやらなければ、逃げ道が残る。
高校に入ると、私はほとんど学校の勉強をしなくなった。
それで完璧主義がなくなったわけではない。
ただ、表に出る形が変わっただけだった。
そのことが、あとになってよく分かった。
看護学校へ行った時、私はまた勉強するようになった。
看護助手として働きながら通っていたので、欠点を取って追試になるのは嫌だった。
追試料金もかかる。
もう一度勉強する時間も惜しい。
だから、欠点を取らなければいい。
本当は、それだけのはずだった。
なのに私は、ほとんどのテストで100点を取るくらい勉強した。
私の中では、
100点を取るには、100点分の勉強では足りなかった。
120点取れるくらいやって、
「これなら、たぶん大丈夫」
と思える。
そこまでやって、ようやく安心できた。
そのくせ、頑張っているところを人に見られるのは嫌だった。
授業中は、ほとんど寝ていた。
「あんなに頑張ってるのに、その程度なんや」
と思われるのが怖かったからだ。
頑張って100点を取る。
でも、頑張っていることは隠す。
ただ、この頃の私は、何も分かっていなかったわけではない。
自分がどうして、こんなに脅迫的なほどやってしまうのか。
子どもの頃の家庭環境が影響しているんやろな、ということには、もう気づいていた。
点数を落とすことが、ただの失敗ではなかった。
評価されることと、認められることが、私の中で強く結びついていた。
そこまでは分かっていた。
でも、
分かったからといって、やめられるわけではなかった。
大人になってからも、対象を変えながら、私は似たようなことを何度も繰り返した。
仕事なら、どこまで上に行けるか、どれだけ稼げるか。
人間関係なら、どんな人とつながれるか。
恋愛なら、どれだけ愛されているか。
そして今は、noteの数字。
もちろん、それぞれに別の理由もある。
仕事を頑張ることも、お金を稼ぐことも、人とつながることも、恋人に愛されたいと思うことも、文章を読んでもらいたいと思うことも、それ自体がおかしいわけではない。
私だって、今も読んでもらえたらうれしい。
スキが増えれば喜ぶ。
でも、ときどきそこへ、
「もっと」
「まだ足りない」
が混ざる。
その感覚をたどっていくと、私はいつも似た場所に戻る。
本当は、親に認めてもらいたかった。
誰かと比べられずに、
「そのままでいい」
と思ってほしかった。
何かができたからではなく、何もできなくても愛してほしかった。
たぶん、私は長いあいだ、その時にもらえなかったものを、別の何かで埋めようとしてきた。
100点で。
仕事で。
お金で。
誰かからの愛情で。
今なら、noteの数字で。
でも、少し冷静になると分かる。
スキがあと100増えたら、子どもの頃の私は満足するんやろか。
もっと仕事で評価されたら、
「あんたはほんまあかん」
と言われた記憶まで消えるんやろか。
もっと愛されたら、あの頃ほしかったものを、あとから受け取り直せるんやろか。
たぶん、そうではない。
そこは、外側に何かを足し続けても埋まらない。
これに気づいてから、私は何かに夢中にならなくなった――という話なら、ずいぶんきれいだと思う。
でも実際は、そんなにきれいではない。
今も私は、やりすぎる。
noteでも、
「あ、また100点の時の自分や」
と気づきながら、しばらく走る。
必死になっている時は、分かっていても止まれない。
まだ自分の中の「足りない」の方が強いからだと思う。
ただ、ある程度やって、
「ここまではやったかな」
と思える頃になると、少しだけ余裕が戻ってくる。
その時になって初めて、それまで自分の中で考えていたことと、今の行動がつながる。
「私、これで何を埋めようとしてるんやろ」
と考える。
そして、
「ここをもっと頑張っても、元の問題は埋まらんやん」
と分かる。
そこまで来ると、ようやく手を緩められる。
最近は、以前ほど空き時間ができるたびにnoteを開かなくなった。
管理することを頭の外へ出すためにツールを作ったことも大きいと思う。
数字がどうでもよくなったわけではない。
次に書くことを考えなくなったわけでもない。
今でも、考えは次々に浮かぶ。
でも、ずっとnoteに張りついていなくても大丈夫な時間が、少しずつ増えてきた。
理由が分かったからといって、昔の怒りや悲しみまで一緒に消えるわけではない。
だから今も、昔の私が「まだ足りない」と顔を出すことがある。
それでも以前と違うのは、その声が何を求めているのかを、少しずつ分かるようになったことだと思う。
原因をたどるのは、昔の誰かを何度も責め直すためではない。
今の自分が追いかけているもので、本当にそこが埋まるのかを確かめるためだ。
100点を取りにいく癖は、たぶんまだ残っている。
これからも、何かを始めれば、
「もっと」
「まだ足りない」
に引っ張られることはあると思う。
でも今は、
100点の向こうに、何を探しているのかを知っている。
それが分かると、少し時間はかかっても、
私は自分で手を止められる。
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