
49歳、奄美で50kmを歩く ──自分の歩き方研究所 奄美よーりよーり編
48歳11ヶ月のとき、私は一枚のチラシのような情報に出会った。奄美大島で行われる「奄美よーりよーり ラン」という大会。50kmを歩いて渡る、という競技だった。
50km。
数字だけ見れば、ただの長い距離だ。けれどそのとき、私の中で何かが小さく音を立てた。50歳になる前に、50kmを歩き切れたら。自分への当てつけのような、けれど妙にしっくりくる目標だった。
それから1年弱。49歳8ヶ月で、私は本当に50kmを歩き切った。これは、その8ヶ月間と、たった一日のレースの記録であり、49歳のおじさんが「いつだって今日が一番若い日」という言葉を、頭ではなく体で理解するまでの話だ。
消えていた「戦う精神」
正直に言うと、最初の一歩は格好良くなかった。
大人になってから、大会というものに出たことがなかった。「勝ちたい」「負けたくない」。高校3年生のあの夏まで当たり前に持っていたはずのその感覚が、いつの間にか遠い記憶の引き出しの奥に、しまい込まれていた。
大会の2ヶ月前、試しに本気を出そうとして、出なかった。頭では「本番だ」とわかっているのに、体と心がついてこない。長い間、競争から離れて生きてきたツケだった。これはまずい、と思った。技術や体力以前に、戦う心がもう錆びついている。
だから私は「戦う精神を呼び戻す」ことを、練習することにした。30分のランニングを全力で。60分のランニングを全力で。距離やタイムではなく、「全力を出し切る」という感覚そのものを、体に思い出させる作業だ。苦しくなってから諦めない。その一瞬の積み重ねが、錆を少しずつ削っていった。最初は空回りしていたのに、ある日ふと、あの頃の自分が戻ってくるような手応えがあった。
私には一つ、信じている言葉がある。
「練習以上は出せないが、練習した事は出せる」
本番でどれだけ気合を入れても、練習していないことは出てこない。逆に言えば、練習してきたことは必ず出せる。だとしたら、「戦う心」だって、本番までに練習しておくべきものだった。

引き算の8ヶ月
トレーニングを始めて最初の1ヶ月は、10kmすら歩けなかった。3ヶ月目に、ようやく10kmを歩き通せる感覚をつかんだ。体は段階的に変わる。一日に少しずつ。90日で1kgが入れ替わるような、地味な変化の積み重ねだ。
12月には月間320kmを歩いた。けれど、面白いのはここからだ。大会が近づくほど、私のトレーニングは「足し算」から「引き算」に変わっていった。
大会の3週間前には、もう体力は決まっている。受験勉強で前々日に徹夜して、寝て、起きたら頭に入っていた、あの感覚に似ている。詰め込むのではなく、回復させる。だから最後の長距離は1月12日の26kmで終わりにして、あとはひたすら整える時間にした。
これを私は「サイヤ人理論」と呼んでいる。漫画の中で、ボロボロになった彼らは、回復した後に前より強くなって戻ってくる。強くなるのは、傷ついている最中ではない。休んで、回復した後だ。ここを勘違いすると、ただ疲れた体を本番に持っていくことになる。頑張ることと、強くなることは、似ているようで違う。
社会人になって、病気でもないのに自分の体を休ませる時間を取るのは、とても贅沢なことだ。でも、目標があると、堂々と休める。罪悪感が出ない。これは目標を持つことの、思いがけない効能だった。
引き算は、生活そのものにも及んだ。
奄美といえば黒糖焼酎。現地で飲むあの一杯が毎回の楽しみだったのに、2週間の禁酒を決めた。迷いはなかった。「飲みたい」より「走り切りたい」が、静かに、でも確実に上回っていた。48時間あけて飲んでいても、たぶん完走はできた。でも、完走できなかったときの言い訳にしたくなかった。やれることは全部やった、と言える状態でスタートラインに立ちたかったのだ。
食事も削り、また少し戻した。減量のために炭水化物を抜いたら、1週間で体の芯から寒くなった。体重は落ちているのに、体が喜んでいない。数字だけを追いかけて、大事なものを見落とすところだった。お米を少し戻すと、芯から温かさが戻ってきた。あって当たり前のものの大切さは、無くしてみて初めてわかる。
そしてもう一つ、決めたことがある。「ケガをしない生活」だ。
昔読んだ本に、こんな話があった。ある剣豪が畦道で釘を踏んで足を痛めた。最初は不運だと思ったが、自分よりも優れた剣豪なら、そもそも落ちている釘を踏むような不用意なことはしないだろう、と。世の中の出来事の多くは「運」ではなく「察知できなかった自分」なのだ。若い頃はピンとこなかったこの話が、年を重ねるほど腑に落ちる。大会前の私は、段差にも、人混みにも、くしゃみ一つにも気を配って歩いた。
目的は、一つでいい
準備の最後に、私は自分にこう問いかけた。タイムを縮めたいのか。完走したいのか。それとも、その土地の空気を味わいたいのか。
初めての50km。答えは決まっていた。完走だ。
「よーりよーり」とは、奄美の方言で「ゆっくりゆっくり」という意味らしい。大会の名前そのものが「焦らないで」と語りかけてくれているようで、私の目的とまっすぐ重なった。
目的を一つに絞ると、計画が立つ。計画が立つと、迷いが消える。迷いが消えると、本番で自分を信じられる。50kmの道のりは、走り出す前に、もう半分始まっていた。

2月1日、午前6時8分
前日に奄美へ入った。空港の空気は少し湿っていて、東京よりずっと柔らかかった。前夜祭でおにぎりとパスタを食べ、装備を順番通りに椅子に並べ、明日のコースを頭の中で何度か歩いてから、目を閉じた。やることを全部やった後の眠りは、深い。不思議と、よく眠れた。
当日。午前4時、アラームが鳴る前に目が覚めた。霧雨。気温12℃。日差しを奪う曇り空は、長距離を歩く者にとっては神様からの贈り物だ。
私のスタートは6時8分。ヘッドライトで足元を照らし、まだ暗い道へ踏み出した。
最初の失敗は、すぐに来た。6km地点、二人のランナーに追いついた。「おはようございます、頑張りましょう」。挨拶を交わし、追い抜くためにペースを上げた——そして、そのまま上げ続けてしまった。颯爽と進む姿を見せたい、という心が動いた結果だ。長距離で学んだはずの「自分のペースを守る原則」を、目の前の体裁に売り渡してしまった。
幸い、すぐ先の給水所で我に返り、1km9分のペースに戻せた。情けない区間だ。でも、初めての50kmで序盤に張り切ってしまうのは、人間らしい反応でもある。「カッコつけた反省」という名前のついたこの失敗は、きっと次の局面で、私にそっとブレーキをかけてくれる。失敗を残す価値とは、そういうことだと思う。

10kmから25kmまでは、不思議なくらい充実していた。1km8分台でリズムが揃う。海に突き出たあやまる岬の景色を眺めながらの給水。給水所間隔は約5kmで、補給のリズムが体に刻まれていく。途中、右の股関節に軽い痛みが出たが、これは危険信号ではなく「使い込みのサイン」だ。過去の経験を頼りに、痛みを片足で抱えず、体幹も腕も骨盤も総動員して、全身で分け合う歩き方に切り替えた。
楽しい。25kmを越えたとき、ハーフを過ぎた達成感と、残り25kmへの覚悟が、静かに同居していた。

26kmから41kmの、ひとり旅
地獄は、いつも穏やかな顔をしてやってくる。
26km地点で、今度は左の足首が痛み出した。右をかばうと、左が痛む。想定の範囲内だ。痛みが出ない位置を探して歩けば、やがて引いていく。知識も経験もあった。問題は、痛みそのものより、孤独だった。
同じペースで歩く人の姿が、視界から消えた。次の給水所は41kmまでない。馴染みのない海岸沿いの山道を、ただ一人で進む。マラソン中継で「周りの応援が力になりました」と選手が言うのを、私はそれまで少し大げさだと思っていた。違った。あれは本当だ。ランナーも、係員も、沿道の声も、すべてが消えたとき、1kmがこんなにも長い。
リタイアは、考えなかった。ただ、ここが一番の勝負所だと、自分でわかっていた。
ここで効いてきたのが、あの「戦う精神を呼び戻す」練習だ。諦めない。勝つ。笑ってゴールするのだと、自分と約束した。頭の中では、音楽が鳴っていた。孤独な区間には「さよならなんかは言わせない」。昔の仲間の顔が浮かび、良い報告がしたくなる。8ヶ月やってきた自信が、一歩ずつ私を前に押した。
第3チェックポイントが見える位置に来たとき、心に安心が広がった。気づけば、左足首の痛みは、消えていた。
あと10kmが、13kmになる
終盤に、思わぬ仕掛けが待っていた。
エントリーは50kmの部。ところが前日、「実際は52.3km」と告知された。30分の余裕を見込んでいたので問題ない、と判断していた。だが当日、スタートが8分ずれ込み、さらに歩いてみると距離はじわじわ伸びて、最終的に53.47km。用意していた予備30分が、気づけば0分、そしてマイナスに突入していた。
立ち止まって計算はできない。歩きながら、頭の中で何度も時刻を割った。到着予定14時30分。制限時間も14時30分。間に合う、はずだ。けれど意識せざるを得ない数字だった。
43km、44km、45km。疲れ切った脚に鞭を入れ、8分台までペースを上げて貯金を作る。頭の中の曲は「オールマイトレジャー」に切り替わっていた。世界陸上の気分。ゴールに織田裕二さんが待っているかもしれない、なんて本気で思いながら、力を振り絞った。アップダウンで脚が上がらなくなっても、平坦区間が来ると信じてピッチを保った。
最後の数百メートルは、もう、楽しんで歩いた。
ゴールタイム、14時27分。
8時間22分。53.47km。距離はプラスマイナスいろいろあったけれど、心の満足と達成感は、文句なしの最高だった。ゴールした後、自分の後ろから走ってくる8人ほどのランナーに、勝手に声が出た。「頑張れ!」。スタート前、暗闇の中で他のランナーを応援したときと同じ、無意識の声だった。

サイヤ人みたいに
ゴール地点は、私が泊まっていたホテルそのものだった。歩き切った体で、そのまま部屋に戻れる。奄美黒糖バニラのジェラートを頬張り、完走の賞状を受け取った。夜は、我慢していた黒糖焼酎を、ようやく。我慢した分だけ、味が増す。これも禁酒の副産物だ。
翌々日の早朝、まだ暗い奄美を、大会で使ったヘッドライトを点けて散歩に出た。脚に疲労は残っているのに、出発前より明らかに体が強くなっている。気づけば5km歩いていた。サイヤ人みたいだ、と一人で笑った。50kmを歩き切った体は、もう、出発前とは別物だった。

いつだって今日が一番若い日
48歳11ヶ月で大会を知り、49歳3ヶ月でエントリーし、49歳8ヶ月で完走した。50歳になる前に、50km。1年弱で、人生に新しい一本の線が引けた。
若いままでいたい。肉体も、年齢も。でもそれは叶わないし、人生は誰もが一度きりだ。だからこそ、今日始めることに意味がある。
60歳でピアノを始めた御婦人の話が、ずっと心に残っている。「もっと早く始めれば良かった」と思いながらも、結局90歳まで弾き続けられた。遅かったかもしれない。それでも、あの日始めて良かった、と。思い立った日に動けたなら、振り返ったとき、後悔は残らない。
やっておけば良かった、と言う前に、やることをやっておく。
第1話を書き始めた頃の自分に、今は「始めてくれてありがとう」と伝えたい。過去には戻れない。だから感謝するなら、未来の自分のために、今日もまた何かを始めたい。
49歳の私が、奄美の暗い道を、ヘッドライト一つで歩きながら掴んだ答えは、とてもシンプルだった。
練習以上は出せない。けれど、練習したことは、必ず出せる。
そして——いつだって、今日が一番若い日だ。