
「生命力」
「君たちは、どうやって頑張ってきたの?」
「君たちは、どうやって強く生きているの?」
私がそう問いかけたいのは人ではなく、植物だ。
植物は話せないし、大きく移動はできないし、人によって手を加えられる。文句一つ言えず。
それなのに、みずみずしい野菜を生み出し、美しい花で人を魅了する。そう考えると、人のために生きているのが植物とも言えるかもしれない。
光を求めて伸びてゆく。葉には透けた葉脈という命綱。少し踏まれても、折れてもまた立ち上がる。
私はそんな強者に問いたい。
「どうやって強く生きているの?」
「生命力」
って何だろう。
ご飯を食べて栄養を蓄えて、病気になっても元気になる生理的な強さ?
それとも明日も頑張って仕事をして、週末は遊んで楽しく過ごそう!という感情的な強さ?
それとも我慢して我慢してとりあえず明日が来るようにタスクをこなす強さ?
正直違いも曖昧だし、他にも生命力ってあるのだろうけれど…
言葉そのままの意味では、
「生きる力、生き抜く力」
となっている。
それでは、人によって生命力には違いがあるのだろうと思う。
私は少し踏まれただけで起き上がれない。少し根を切られただけで泣き叫ぶ。まるでこの世の終わりかのように、自分だけ辛いと被害者ぶって。話せるし、感情があるし、植物の命をいただいているのに、なんてわがままなのだろう。
「感情」
これこそが1番私を一喜一憂させるからだろう。しかし、植物には感情はないのだろうか?光を求める姿、栄養を欲する姿。話せないけれど、最大限の感情表現なのではないだろうか。
それでも頑張って実をつける。寿命は短いのに。そしてその実を人間は一瞬にしてお腹の中へ。数ヶ月、数年の植物の努力は、人間にとって数秒で消えていく。人が生きるために生きていることは否定できないだろう。
私は、水をやらずに枯らしたことがある。どれだけ残酷なのだろう。自分が求めている時にだけ大切にして、用がなければほったらかし。
そして今、働くということに疲弊した私はまた植物を求めている。癒しを求めている。自分勝手にもほどがある。ごめんなさい、そしてありがとう。
もし話すことができたなら、友達になれるだろうか。どうやって私を癒してくれるのだろうか。きっと話さずに美しい緑を私の目に映してくれることを超えることはないだろう。
「強く生きるモチベーションは何ですか?」
私は明日の自分がわからない。現在の自分もわからない。何が言いたいのかもわからない。
ただ、こうして言葉を並べていくことは自分を知ることにもなるし、頭の中の言葉を取り出すことができる。自分の考えを誰にも邪魔されることなく表現できる。そしてこの表現で誰かを救うことができたなら、この人生に悔いは残らないだろう。
私は何かを成し遂げられていない違和感に毎日襲われている。それが何なのか、いつまでもわからない。何となく一つ挙げられているけれど、その先にはまた自分を壊す未来が見える。周りへの影響も見える。そして努力も足りていない。
何がしたいの?やりたいことができないわがままで生きていっていいの?自分より大変な人はたくさんいるのに、少しも頑張らずに逃げてばかり。それを逃げととるのか、始める勇気ととるのか、判断材料を示すのは、私しかいない。
何に泣いているのだろう。1日でも楽しい時間を過ごせている日があるのに。
このわがままさに最も絶望し、自分を地の底まで追いやりたくなる。
明日の自分はどうやって生きていくのだろう。
今日もまた、君の生命力に圧倒されて、自分の生命力へと変換していく。
辛いなんて、簡単に言えたことではないのは知っている。でも辛い。
君に問いたい。
「辛いを乗り越えた先の感情は豊かですか?」