あの橋に行こう
【あらすじ】
部活動中の事故で右目を負傷し、選手ではなくマネージャーとなった高校生は、放課後になると決まって橋へ向かう理科教師の存在が気になり始める。
ある日、理科準備室で見つけた古い自由研究ノート。その最後のページには、『またあした。』という返事と、先生には見えていないような『おいでよ。』の文字が残されていた。
それ以来、高校生は毎日のように橋へ足を運ぶようになる。
橋の下では何も起きない。
それでも先生は橋の下を見つめ続け、ノートには少しずつ新しい言葉が増えていく。
橋が繋ぐのは、こちら側と向こう側なのか。
それとも、人が置いてきた何かなのか。
気づけば高校生もまた、橋の上に立ち続けていた。
【第1章:あの橋】
人を見るようになったのは、右目を怪我してからだった。
失明したわけじゃない。
日常生活にも、ほとんど支障はない。
けれど、競技では違った。
距離感がずれる。
一瞬、判断が遅れる。
医者は言った。
「治る可能性はあります。ただ、今は無理をしない方がいいですね。」
終わったわけじゃない。
でも、続けられるわけでもない。
その中途半端さが、一番つらかった。
私は選手を外れ、マネージャーになった。
ストップウォッチを持つ。
タイムを測る。
記録を書く。
走る代わりに、人を見る。
最初は嫌だった。
同じグラウンドにいるのに、自分だけ外側にいる気がした。
選手でもない。
観客でもない。
マネージャー。
その曖昧な場所は、今の私にはよく似合っていた。
放課後になると、先生はいなくなる。
最初にそう教えてくれたのは、同じ部の後輩だった。
「また橋ですよ。」
「橋?」
「川のところです。」
「毎日?」
「毎日です。」
変わった先生だな。
その時は、それくらいにしか思わなかった。
先生は理科の先生だった。
授業は分かりやすい。
怒ることも少ない。
実験の時だけ、少し楽しそうに話す。
生徒からも人気があった。
でも放課後だけは違った。
チャイムが鳴る。
職員室へ戻る。
荷物を持つ。
そして、同じ時間に学校を出る。
急ぐわけでもない。
誰かを待つわけでもない。
ただ、橋へ向かう。
それが先生の日課だった。
ある日。
理科準備室で備品の整理を手伝っていると、棚の下から古い段ボール箱が出てきた。
「先生、これどうしますか。」
「ああ……。」
先生は箱を見て、少しだけ笑った。
「中だけ見ておこうかな。」
箱の中には、古いノートが何冊も入っていた。
観察日記。
植物採集。
自由研究。
どれも色あせている。
私は何気なく一冊を手に取った。
最後のページを開く。
『自由研究はまだ終わっていない。』
その下に。
『またあした。』
誰かが返事を書いていた。
昔の友達だろうか。
そう思ってページを閉じようとして、指が止まった。
その下に、もう一行。
『おいでよ。』
「先生。」
「ん?」
「これ。」
先生はノートを受け取り、最後のページを開いた。
しばらく眺める。
それから、不思議そうに首をかしげた。
「どうした?」
「最後のページです。」
「最後?」
先生はもう一度見る。
そして静かにノートを閉じた。
「懐かしいな。」
それだけ言って、箱へ戻してしまう。
私はノートを見ていた。
『またあした。』
『おいでよ。』
ちゃんと書いてある。
先生は、その文字に気付いていないようだった。
その日の帰り道。
気付けば私は、いつもと違う道を歩いていた。
夕暮れの川。
一本の橋。
欄干にもたれ、橋の下を見つめる先生がいた。
私は立ち止まる。
先生は動かない。
何を見ているんだろう。
そう思って、橋の下へ目を向けた。
カタン。
小さな音がした。
【第2章:毎日】
次の日も、先生は橋へ向かった。
偶然じゃなかった。
放課後のチャイムが鳴る。
職員室へ戻る。
荷物を持つ。
そして学校を出る。
毎日。
同じ時間。
同じ道。
誰にも何も言わない。
私は、その姿を何度も見送った。
「先生って、毎日橋に行くんだね。」
部室でそう言うと、後輩が笑った。
「有名ですよ。」
「何があるの?」
「さあ。」
「誰かいるとか?」
「見たことないです。」
誰も知らない。
でも誰も気にしていない。
それが少し不思議だった。
私は記録用紙をまとめる。
タイムを書く。
走った順番を書く。
今日の練習内容を書く。
マネージャーになってから、毎日文字を書くようになった。
記録は嘘をつかない。
今日走れた人。
走れなかった人。
少しずつ積み重なっていく。
「ありがとう。」
先生が後ろから声を掛けた。
「字、きれいだね。」
「読みやすい方がいいかなって。」
「うん。」
先生は私の記録用紙を眺めた。
「記録って面白いよ。」
「面白いですか?」
「その日には分からないことが、あとで見えてくる。」
私は少し笑った。
理科の先生らしい言い方だと思った。
「だから残しておくんだ。」
先生はそれだけ言って職員室へ戻っていった。
その日の帰り道。
私は昨日と同じ橋へ向かった。
理由は分からない。
気付けば足が向いていた。
橋の上には、もう先生がいた。
欄干に手を置き、静かに橋の下を見つめている。
私は少し離れたところで立ち止まった。
「先生。」
先生はゆっくり振り返る。
そして、少し笑った。
「今日は早かったね。」
私は返事ができなかった。
先生も、すぐに表情を変えた。
「あ……。」
困ったように笑う。
「ごめん。」
「え?」
「見間違えた。」
それだけだった。
誰と。
そう聞こうとしたけれど、やめた。
先生自身にも分からないような顔をしていたからだ。
私は先生の隣へ並ぶ。
橋の下を見る。
何もいない。
流れる水。
橋脚。
夕日。
それだけだった。
「先生。」
「ん?」
「毎日ここへ来るんですか。」
「そうだね。」
「何を見てるんですか。」
先生は少し考えてから笑った。
「分からない。」
「分からない?」
「気付いたら来てるんだ。」
その答えが、一番変だった。
風が橋を渡る。
私は橋の下を見つめた。
カタン。
昨日と同じ音。
私は反射的に欄干から身を乗り出す。
誰もいない。
「聞こえました?」
先生は首をかしげた。
「何が?」
私は橋の下を見る。
橋脚の影が揺れている。
それだけだった。
帰ろうとした時だった。
先生がポケットを探る。
小さな飴玉だった。
包装も開けず、そのまま橋の欄干へ置く。
私は思わず見つめる。
先生は何事もなかったように橋を離れた。
「帰ろうか。」
「……先生。」
「ん?」
「飴。」
先生は振り返る。
欄干を見る。
「ああ。」
少しだけ考えてから笑った。
「忘れ物かな。」
そう言って、そのまま歩き出した。
私はもう一度、橋を見る。
夕日に照らされた飴玉が、小さく光っていた。
【第3章:置いていくもの】
あの日から、放課後になると橋へ向かうようになった。
毎日ではない。
でも気付けば、足がそちらへ向いている。
理由は分からない。
先生がいるかどうか、確かめたくなるだけだった。
橋へ着くと、今日も先生はいた。
欄干にもたれ、橋の下を見ている。
昨日と同じ姿だった。
「先生。」
「お疲れさま。」
先生は笑う。
それだけだった。
橋の下には何もない。
少なくとも私にはそう見えた。
風が吹く。
川が流れる。
夕方の町は静かだった。
「今日は部活、どうだった。」
「いつも通りです。」
「そう。」
会話はそこで終わる。
先生はまた橋の下を見る。
私も何となく視線を落とした。
カタン。
また、あの音だった。
橋の下。
橋脚の影。
流れる水。
何もいない。
私は目を細めた。
「先生。」
「ん?」
「本当に何を見てるんですか。」
先生は少しだけ困ったように笑う。
「分からない。」
「分からないのに来るんですか。」
「気付いたら来てる。」
昨日と同じ返事だった。
私はそれ以上聞けなかった。
帰ろうとした時だった。
先生はポケットへ手を入れた。
部員からもらったらしい、小さな袋。
中にはクッキーが入っていた。
包装のまま、一枚だけ取り出す。
食べるのかと思った。
先生は、そのまま橋の欄干へ置いた。
「先生。」
思わず声が出る。
先生は振り返る。
「どうした?」
「食べないんですか。」
「ああ。」
先生はクッキーを見る。
少しだけ考える。
「そうだね。」
そう言いながらも、手は伸びない。
そのまま歩き出した。
「先生。」
「ん?」
「忘れてます。」
先生は立ち止まる。
橋を見る。
クッキーを見る。
それから少し笑った。
「いいよ。」
たった三文字だった。
私は橋を見る。
夕日に照らされたクッキーは、誰もいない欄干の上に置かれたままだった。
その夜。
どうしても気になって、私は理科準備室へ向かった。
先生は職員会議でいない。
古い段ボール箱を開ける。
自由研究ノート。
最後のページを開く。
『自由研究はまだ終わっていない。』
『またあした。』
『おいでよ。』
その下に、新しい文字が増えていた。
『まってる。』
私は息を止めた。
昨日はなかった。
そう思う。
いや。
昨日、ちゃんと見たはずだ。
もう一度開く。
『まってる。』
やっぱり書いてある。
カタン。
どこかで音がした。
私は振り返る。
理科準備室には誰もいない。
それでも私は、急いでノートを閉じた。
その帰り道だった。
橋を渡る時、ふと思い出す。
欄干の上のクッキー。
まだあるだろうか。
橋の上から覗き込む。
もう、なかった。
【第4章:帰り道】
橋を通るのが、いつから帰り道になったのかは覚えていない。
最初は先生が気になっただけだった。
そのはずなのに。
気付けば、放課後になると自然と足が橋へ向いている。
橋を通らない日は、どこか忘れ物をしたような気持ちになった。
自分でも少し、おかしいと思った。
「また先生ですか。」
後輩が笑う。
私は橋の方を見た。
「今日もいる?」
「たぶん。」
「見てきます。」
そう言うと、後輩は苦笑いした。
「好きですね。」
自分でもそう思う。
何が気になるのか、説明はできなかった。
その日も先生は橋にいた。
欄干にもたれ、橋の下を見ている。
「先生。」
「お疲れさま。」
先生は笑った。
それだけだった。
二人で橋の上に立つ。
夕焼けが川を赤く染めている。
私は何となく橋の下を見る。
何もいない。
何も変わらない。
それなのに先生は、毎日ここへ来る。
「今日は何もないですね。」
そう言った時だった。
先生がポケットへ手を入れる。
部員にもらった飴だった。
少し眺める。
それから、橋の欄干へそっと置いた。
私はもう驚かなかった。
先生は、そのまま橋を渡り始める。
「先生。」
「ん?」
「飴。」
先生は振り返る。
欄干を見る。
「ああ。」
それだけ言って、小さく笑った。
「また明日。」
そう言って帰っていく。
私は一人、橋に残った。
欄干の上には飴がある。
拾おうかと思った。
でも、なぜか手が伸びない。
その時だった。
カタン。
私は橋の下を見た。
誰もいない。
ほんの一瞬だけ目を離す。
風が吹く。
飴は、もうなかった。
「……え?」
欄干の下を見る。
橋の上を見る。
どこにもない。
風で飛んだのかもしれない。
そう思うことにした。
帰ろう。
そう思って歩き出す。
数歩進いたところで、ポケットが軽いことに気付いた。
部の記録を書いていたボールペンがない。
制服のポケットを探す。
鞄の中を見る。
どこにもない。
最後に使ったのは。
橋の上だった。
私は振り返る。
夕暮れの橋には、もう誰もいない。
戻ろうか。
そう思った。
でも、不思議と足は動かなかった。
「まあ、いいか。」
自然にそんな言葉が口をついた。
あのボールペンは、気に入っていたはずなのに。
そのまま家へ帰った。
夜になって、机で記録をまとめようとして初めて思い出す。
あのボールペンは、大会の前に部員みんなで色違いを買ったものだった。
「なくしたんだ。」
そう呟いた。
それだけだった。
翌日の放課後。
私はまた、橋へ向かっていた。
【第5章:訪れる人】
橋へ通うことが、当たり前になっていた。
先生はいる。
私は橋へ向かう。
少し話をして帰る。
それだけの毎日だった。
部員たちも、もう何も言わない。
ある日の放課後だった。
橋の上に、一人の女性が立っていた。
黒い服を着ている。
手には小さな紙袋。
町の人ではない。
そんな気がした。
女性はゆっくり橋を渡り始める。
先生はいつものように欄干にもたれ、橋の下を見ていた。
二人は橋の真ん中ですれ違う。
先生は振り返らない。
女性も何も言わない。
ただ一瞬だけ先生を見て、そのまま歩いていく。
風が吹いた。
紙袋の口が少し開く。
白い花びらが一枚だけ舞い上がり、橋の上へ落ちた。
女性は気付かない。
立ち止まることもなく、そのまま歩いていく。
私は何となく、その花びらを目で追った。
橋の真ん中に残ったまま、風に揺れている。
「先生。」
「ん?」
「知り合いですか。」
先生は橋の向こうを見る。
「誰が?」
「さっきの人です。」
先生は少し困ったように笑った。
「誰もいなかったよ。」
私は思わず振り返る。
黒い服の女性は、まだ橋の先を歩いている。
夕暮れの光の中を、ゆっくりと。
見えている。
ちゃんと見えている。
私はもう一度先生を見た。
先生は首をかしげるだけだった。
「見間違いじゃない?」
その言葉が妙に引っ掛かった。
気付いていない。
そうじゃない。
先生には、見えていないようだった。
カタン。
橋の下で、小さな音がした。
先生は静かに橋の下へ目を向ける。
私はもう一度、橋の真ん中を見る。
さっきまであった花びらは、もう見当たらなかった。
【第6章:忘れ物】
その日から、橋のことが頭から離れなくなった。
先生。
橋。
ノート。
そして、あの女性。
全部が繋がっているようで、何も繋がっていない。
放課後になる。
私はまた橋へ向かった。
先生は、いつもの場所にいた。
欄干にもたれ、橋の下を見ている。
「先生。」
「お疲れさま。」
昨日と同じ笑顔だった。
「昨日の人、本当に気付かなかったんですか。」
「昨日?」
「橋にいた人です。」
先生は少し考えた。
「誰かいたっけ。」
本当に覚えていないようだった。
私はそれ以上聞かなかった。
風が吹く。
先生はポケットへ手を入れる。
今日は何も持っていない。
そのまま橋を渡り始める。
私は少し安心した。
今日は何も置いていかない。
そう思った。
橋を渡り切ろうとした時だった。
先生の胸ポケットから、小さな紙切れが落ちた。
風もないのに、橋の真ん中で止まる。
先生は気付かない。
「先生。」
返事はない。
「先生。」
少しだけ大きな声を出す。
先生は振り返った。
「どうした?」
「紙、落ちました。」
先生は橋を見る。
紙を見る。
それから、少しだけ笑った。
「ああ。」
拾いに戻る様子はない。
「いいんですか。」
「うん。」
「大事なものじゃないんですか。」
先生は少し考える。
「分からない。」
そう答えた。
私は紙切れを見る。
拾えばいい。
それだけだった。
それなのに、一歩が踏み出せない。
橋の真ん中だけ、空気が重い。
そんな気がした。
カタン。
橋の下で音が鳴る。
私は反射的に橋の下を見る。
何もいない。
もう一度、紙切れへ目を戻す。
もう、なかった。
「帰ろうか。」
先生は何事もなかったように歩き出す。
私はその背中を追うしかなかった。
帰り道。
私は制服のポケットを探った。
部活で使っていたボールペンがない。
橋で落としたのだろうか。
そう思った。
でも、不思議と探そうとは思わなかった。
家に帰ってからも、どこか他人事だった。
机に向かい、記録用紙を開く。
新しいボールペンを取り出す。
いつも使っていた一本が思い出せない。
色は青だったか。
黒だったか。
どんな形だっただろう。
考えても浮かばない。
「まあ、いいか。」
小さく呟いた。
その言葉が、自分の口から出たことに少しだけ驚く。
私は、物をなくすと案外平気な人間だっただろうか。
そんなことまで、思い出せなかった。
【第7章:見えない欠片】
橋へ通うようになってから、忘れ物が増えた。
ボールペン。
消しゴム。
プリント。
家へ帰ってから気付くこともあれば、翌日になって思い出すこともある。
いや、本当に同じものなのかは…わからない。
その時は、疲れているだけだと思っていた。
放課後。
私はいつものように橋へ向かった。
先生は、もう橋の下にいた。
「先生。」
「お疲れさま。」
先生は笑う。
初めて会った日と変わらない笑顔だった。
私は先生の隣へ座る。
川は静かに流れている。
「今日は何を見てるんですか。」
「昔は、ここに何かあった気がするんだけど。」
先生は橋の下を見つめたまま言った。
「何ですか。」
「忘れちゃった。」
先生は少し笑う。
思い出そうとしているようにも見えた。
でも、それ以上考えることはやめたようだった。
その横顔を見ていると、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
足音が聞こえた。
私は振り返る。
白いワンピースの女性が橋の近くを歩いていた。
夏の風に裾が揺れる。
橋の近くで立ち止まり、こちらを見る。
いや。
見ているのは先生だった。
「あの。」
女性は静かに振り返る。
「先生のお知り合いですか。」
女性は少しだけ片目を細めた。
「昔……ね。」
それだけ言って微笑んだ。
私は先生を見る。
「先生。」
「ん?」
「お知り合いの方が…。」
先生は橋の向こうを見る。
「誰が?」
私は言葉を失う。
「今、そこに……。」
先生は少し困ったように笑った。
「見間違いじゃない?」
私はもう一度橋を見る。
女性はまだ近くを歩いている。
ゆっくりとでも振り返らずにそのまま町の方へ消えていった。
先生は最後まで橋の向こうを見つめていた。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
帰ろうとして立ち上がる。
その時だった。
先生が何気なく右手で眼鏡を直した。
私は思わず目を止める。
指がない??。
その腕の白さだけが妙に目についた。
でも。すぐに気のせいだと思い直した。
ただの違和感だったのかもしれない。もう分からない。
視界が、ぼやけて見える。
私は何度も瞬きをする。
見えない。
いや、見えている。
でも、形だけがうまく認識できなかった。
「どうした?」
先生が笑う。
「いえ……。」
私は首を振る。
それ以上、見ないようにした。
橋を離れ、家へ向かう。
歩きながら、何度も先生の右手を思い出そうとした。
右手。
指。
五本……だっただろうか。
考えても思い出せない。
翌日になれば、きっと気のせいだったと思える。
私はそう信じることにした。
【第8章:包帯】
その日の夕暮れは、いつもより暗かった。
橋へ着くと、先生はもう欄干にもたれていた。
川を見ている。
私は隣へ立つ。
「先生。」
「お疲れさま。」
いつもの声だった。
その時、先生がポケットへ手を入れた。
右手だった。
何かを取り出そうとしている。
でも夕日が逆光になって、手元がよく見えない。
先生は何かを見つめる。
小さく頷く。
そのまま橋の欄干へ手を伸ばした。
何を置いたのか分からなかった。
風も吹いていない。
音もしない。
先生はそのまま橋を渡り始める。
私は思わず橋の真ん中を見る。
何もない。
「先生。」
呼び止めようとして、やめた。
先生はもう歩いていた。
翌日。
理科室で薬品棚の整理を手伝っていると、先生の右手に包帯が巻かれていることに気付いた。
「先生。」
「ん?」
「手、どうしたんですか。」
先生は包帯を見て笑った。
「ああ。」
「ちょっと切っちゃって。」
それだけだった。
包帯は指先まで巻かれている。
私は何となく気になった。
授業中。
先生はチョークを持つ。
白い粉が包帯につく。
その時だった。
包帯の隙間から見えた右手に、違和感を覚えた。
私は思わず目を凝らす。
何がおかしいのか分からない。
でも、何かがおかしい。
チャイムが鳴る。
生徒たちが教室を出ていく。
私は黒板を消しながら、もう一度先生の手を見た。
包帯の先。
指が一本、足りないように見えた。
思わず息をのむ。
昨日も見たはずだった。
先生の右手。
五本あっただろうか。
四本だっただろうか。
考えても思い出せない。
「どうした?」
先生が笑う。
私は慌てて首を振った。
「いえ。」
それ以上、何も言えなかった。
放課後。
気付けば私はまた橋へ向かっていた。
【第9章:忘れていく】
橋へ向かう足は、もう迷わなかった。
遠回りになる日もある。
それでも私は橋を渡る。
理由を考えたことは、一度もなかった。
先生はいつもの場所にいた。
右手には、まだ包帯が巻かれている。
「先生。」
「お疲れさま。」
私は思わず右手を見る。
昨日見た違和感。
でも今日は、包帯しか見えない。
「手、大丈夫ですか。」
「もう治るよ。」
先生は笑う。
その笑顔が、どこか空っぽに見えた。
「先生。」
「ん?」
「右手……。」
そこまで言って、言葉が止まる。
何がおかしかったんだろう。
昨日は確かに気になった。
でも。
何が違っていたのか、思い出せない。
「どうした?」
「……何でもないです。」
先生は橋の下を見る。
私は橋の欄干を見る。
昨日、先生が何かを置いた場所だった。
何もない。
そう思った。
いや。
小さな何かが落ちている。
白いもの。
私は近付く。
細長い。
骨のようにも見える。
拾おうとした。
その瞬間。
カタン。
橋の下で音がした。
思わず振り向く。
橋の下には誰もいない。
もう一度欄干を見る。
白いものは消えていた。
「先生。」
返事はない。
先生は橋の下を見たまま、小さく笑っていた。
「今日は静かだね。」
誰に話しかけているのか分からない。
風が吹く。
川の匂いがした。
私は急に、自分の右手を見た。
指を一本ずつ動かす。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
五本ある。
ちゃんとある。
それなのに、安心できなかった。
「帰ろうか。」
先生が歩き出す。
私はその後ろを歩く。
橋を渡り切ったところで、ポケットが軽いことに気付いた。
家の鍵がない。
制服のポケット。
鞄。
どこにもない。
さっきまで持っていたはずだった。
橋を振り返る。
戻ろうとする。
でも足が止まる。
「……まあ、いいか。」
自然にそう思ってしまう。
家にはスペアキーがある。
それで済む話だ。
それなのに、胸の奥が少しだけ冷たくなった。
本当に探すのを諦めたのだろうか。
頬を撫でた風が、その疑問をどこかへ運んでいった。
【第10章:名前】
その日、先生は職員室にいなかった。
朝のホームルームが終わる。
一時間目は理科だった。
チャイムが鳴る。
生徒が席につく。
五分過ぎても、先生は来ない。
教室がざわつき始めた頃、ようやく扉が開いた。
「ごめん、ごめん。」
先生はいつものように笑っていた。
右手の包帯は外れていた。
私は思わず、その手を見る。
指の数は数えられなかった。
数えようとした瞬間だけ、視線が逸れてしまう。
何かがおかしい。
そう思うのに、おかしいところが分からない。
先生は黒板へ向かう。
チョークを持つ。
さらさらと文字を書く。
『生物』
そこまで書いて、手が止まった。
先生は黒板を見つめる。
しばらくして、小さく笑った。
「あれ。」
教室が静かになる。
「先生?」
前の席の生徒が声を掛ける。
先生は困ったように頭をかいた。
「続き、何だっけ。」
教室に笑いが起きる。
「先生、寝不足ですか。」
「そうかも。」
先生も笑う。
結局、その日の授業は教科書を読むだけで終わった。
放課後。
私は理科準備室へ向かった。
先生は窓の外を見ていた。
「先生。」
「ん?」
「今日、大丈夫ですか。」
「何が?」
「授業です。」
先生は少し考える。
「ああ。」
笑う。
「忘れちゃった。」
あまりにも軽く言うので、私は何も返せなかった。
先生は白衣を脱ぐ。
ポケットから名札が落ちた。
床へ転がる。
私は拾おうと身を屈める。
先生はそれを制した。
「いいよ。」
「でも。」
「今日は、もういらないから。」
先生は笑って部屋を出ていく。
私は名札を見る。
透明なケースの中。
先生の名前が書いてある。
当たり前のことなのに。
その名前が、読めなかった。
漢字は知っている。
読めるはずだった。
なのに、目が滑る。
何度見ても、頭に入ってこない。
カタン。
どこかで、小さな音がした。
私は顔を上げる。
理科準備室には誰もいない。
窓の外。
夕暮れの橋だけが、静かにそこにあった。
【第11章:自由研究】
橋がおかしい。
そう思ったのは、先生がおかしいと思わなくなった頃だった。
先生は毎日橋へ来る。
毎日何かを忘れる。
それなのに、橋だけは何も変わらない。
変わらないはずなのに。
何かがおかしい。
放課後。
私は橋へ向かった。
先生はいつもの場所にいた。
欄干にもたれ、橋の下を見ている。
「先生。」
「お疲れさま。」
それだけだった。
二人で橋を渡る。
先生は歩きながら、胸ポケットへ手を入れた。
何かを探しているようだった。
少しだけ立ち止まる。
先生は手を開く。
何も持っていない。
それなのに、欄干へ向かって静かに手を差し出した。
何かを置くような仕草だった。
何もない。
何も見えない。
それでも先生は、小さく頷いた。
そのまま歩き出す。
私は橋の真ん中へ近付く。
何もない。
見落としただけだろうか。
橋の上を見回す。
何もない。
それなのに。
ここには何かがある。
そんな気がした。
その時、右目が痒くなった。
包帯の上から、そっと触れる。
指先に当たった感触が、少しだけ変だった。
包帯。
まぶた。
傷。
全部そこにあるはずなのに。
一瞬だけ、自分が何に触れているのか分からなくなった。
怖くなって、手を離した。
カタン。
橋の下で音がした。
私は身を乗り出す。
川しか見えない。
振り返ると、先生はもう橋を渡り終えていた。
「帰ろう。」
私は返事をしなかった。
その夜になっても、橋のことばかり考えていた。
先生ではない。
橋だ。
橋がおかしい。
そう思った瞬間、あることを思い出した。
自由研究ノート。
あのノートには、橋のことが書かれていた。
翌日。
先生が職員会議へ向かった隙に、私は理科準備室へ入った。
棚の奥。
色あせた大学ノート。
表紙には、小さな字で書かれている。
『自由研究』
私は静かにページをめくった。
植物。
昆虫。
天気。
途中から橋の記録が増えていく。
橋の下。
橋脚。
秘密基地。
石。
雨。
その言葉だけで、なぜか喉が詰まった。
最後まで読み進める。
『自由研究はまだ終わっていない。』
『またあした。』
『おいでよ。』
そこまでは知っていた。
私はもう一度、最初からページをめくる。
その時だった。
ページの端。
ほとんど余白に近い場所。
鉛筆で小さく書かれた一文が目に入った。
『橋では忘れ物をする。』
私は息を止めた。
昨日まで、こんな文字は見ていない。
そう思った。
いや。
見落としていただけなのかもしれない。
もう一度読む。
『橋では忘れ物をする。』
それだけだった。
何を忘れるのか。
誰が書いたのか。
続きを探してページをめくる。
何もない。
最後のページまで見ても、それ以上は書かれていなかった。
カタン。
理科準備室のどこかで、小さな音がした。
私はゆっくり振り返る。
誰もいない。
窓の向こう。
夕暮れの橋だけが、静かにそこにあった。
【第12章:白い車】
その日、先生は橋へ来なかった。
私は一人で橋へ向かった。
夕暮れの橋は静かだった。
川の音だけが聞こえる。
欄干に手を置く。
冷たい。
昨日読んだノートの言葉が頭から離れない。
『橋では忘れ物をする。』
忘れ物。
先生。
包帯。
指。
鍵。
全部が繋がりそうで、繋がらない。
その時だった。
一台の白い車が、ゆっくり橋へ入ってきた。
私の横を通り過ぎる。
橋の真ん中で静かに止まった。
私は無意識にナンバーを見る。
「わ……21。」
記録を取る癖だった。
理由もなく、数字を覚えてしまう。
運転席の窓がゆっくり開いた。
白いワンピースの女性だった。
「あの。」
女性は私を見る。
「乗ってく?」
突然だった。
私は橋を見る。
女性を見る。
少し迷ってから、助手席へ乗り込んだ。
ドアが閉まる。
車がゆっくり走り出す。
橋を渡り終える。
その瞬間だった。
右目の痒みが消えた。
頭の奥に張りついていた霧も、少しだけ薄くなった気がした。
女性はしばらく黙って運転していた。
橋が見えなくなった頃、ようやく口を開く。
「あの先生。」
私は顔を向ける。
「昔……ね。」
それだけだった。
それ以上は何も言わない。
「先生、昔からあの橋にいたんですか。」
女性は少し考えた。
「毎日いた。」
短い返事だった。
「橋が好きだったんですか。」
女性は静かに首を横へ振る。
「好きだったのかもしれない。」
窓の外を見つめる。
「でも、帰る場所でもあった。」
その意味が分からなかった。
しばらく沈黙が続く。
やがて女性が、小さく笑った。
「橋はね。」
私は息をのむ。
「置いて帰る場所なの。」
それだけだった。
「置いて帰る……?」
聞き返しても、女性は答えない。
信号が赤になる。
車が止まる。
私は何気なく右目に触れた。
痒みは消えていた。
さっきまであんなに気になっていたのに。
「橋では。」
女性は前を向いたまま言う。
「持って帰ろうとしない方がいい。」
青信号になる。
車は静かに走り出した。
私は窓の外を見る。
橋はもう見えなかった。
それなのに。
胸の奥だけが、まだ橋の上に残っている気がした。
【第13章:帰り道】
その日から、私は橋を避けるようになった。
避けようとしていた。
それなのに。
気が付くと橋へ向かう道を歩いている。
何度目だっただろう。
校門を出る。
交差点を曲がる。
商店街を抜ける。
橋が見える。
「あれ……。」
私は立ち止まった。
今日は橋へ行かないと決めていたはずだった。
白い車。
女性の言葉。
『持って帰ろうとしない方がいい。』
そこまで思い出しても、足は止まらない。
まるで帰り道を思い出したみたいに、自然と橋へ向かって歩いていた。
橋の上には先生がいた。
昨日までと同じように。
欄干にもたれ、橋の下を見ている。
「先生。」
「お疲れさま。」
先生は振り返る。
包帯はもうなかった。
右手は制服のポケットに入ったままだった。
「今日は一人ですか。」
「そうだね。」
先生は橋の下を見たまま答えた。
「寂しくないですか。」
先生は少しだけ笑う。
「いるから、誰かしら。」
私は思わず橋の下を見る。
誰もいない。
川が流れているだけだった。
「……誰ですか。」
先生は答えない。
まるで聞こえなかったように、小さく頷いている。
風が吹く。
橋の上を乾いた葉が転がっていく。
先生はそれを見送るように目を細めた。
「先生。」
「ん?」
「橋って、何なんですか。」
先生は少しだけ考える。
そして静かに笑った。
「忘れちゃった。」
その笑顔は、どこか子どものようだった。
私は何も言えなくなる。
先生はゆっくり歩き出す。
橋の真ん中で立ち止まる。
ポケットへ手を入れる。
何も取り出さない。
それでも、そっと手を開く。
何かを置いたような仕草。
その瞬間だった。
先生の姿が、一瞬だけ消えた。
思わず右目を掻く。
何度か瞬きをする。
先生は何事もなかったように歩いていた。
橋を渡り終える直前、不意に振り返った。
「君。」
「はい。」
「名前……。」
先生は困ったように笑う。
「ごめん。」
私は答えようとした。
「私は……」
そこまで言って、言葉が止まる。
一瞬だけ、自分の名前が思い出せなかった。
胸の奥が冷たくなる。
私は慌てて生徒手帳を開いた。
写真。
学年。
クラス。
そして名前。
そこに書かれた自分の名前を見て、ようやく息をついた。
風が吹く。
ページが勝手にめくれる。
閉じようとした、その瞬間。
生徒手帳が手から滑り落ちた。
橋の上に落ちる。
私は拾い上げようとして、手を止めた。
女性の言葉が頭をよぎる。
『橋はね。
置いて帰る場所なの。』
風が吹く。
生徒手帳の表紙がゆっくり開く。
私は黙って見つめていた。
そのまま帰ればいい。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
私は静かに生徒手帳へ背を向けた。
橋を渡る。
一歩。
また一歩。
胸が苦しかった。
何か大切なものを置いてきたような気がした。
橋を渡り切る。
振り返る。
橋の上には、もう何もなかった。
生徒手帳も。
風だけが静かに吹いていた。
【第14章:大雨】
朝から雨だった。
天気予報では、夕方にかけてさらに強くなると言っていた。
教室の窓を叩く雨音が、一時間目から途切れない。
先生は来なかった。
理科の時間。
教壇に立ったのは、別の先生だった。
「今日は担当の先生がお休みです。」
それだけだった。
誰も気にしていない。
私は窓の外を見る。
灰色の空。
橋のある方角だけが、妙に暗く見えた。
放課後になっても、雨は止まなかった。
帰ろう。
そう思って昇降口まで来た。
なのに。
気付けば橋へ向かう道を歩いていた。
制服はすぐに濡れた。
靴の中まで雨が入り込む。
橋が見える。
川は濁っていた。
水位も高い。
橋の上には誰もいない。
私は少しだけ安心した。
その時だった。
一台の白い車が、ゆっくり橋へ入ってきた。
ワイパーが忙しく動いている。
橋の真ん中で止まった。
私は無意識にナンバーを見る。
「わ……21。」
運転席の窓が静かに開く。
白いワンピースの女性だった。
「乗って。」
私は迷わなかった。
助手席へ滑り込む。
ドアが閉まる。
雨音が遠くなる。
右目の痒みも、不思議と消えていた。
女性は橋を渡り切るまで、一言も話さなかった。
やがて橋が見えなくなる。
小さく息を吐いた。
「間に合った。」
その言葉だけが、小さく聞こえた。
私は女性を見る。
「先生は。」
女性は首を横に振る。
「もう。」
その先は言わなかった。
沈黙だけが車内を満たす。
私は思い切って尋ねた。
「あなたは……。」
女性は少しだけ笑った。
「私はね……。」
橋が映るバックミラーへ、ほんの一瞬だけ目を向ける。
「偶然……ね。」
意味は分からなかった。
「あの橋って……。」
女性はハンドルを握ったまま、小さく頷く。
「置いて帰る場所。」
昨日と同じ言葉だった。
「先生は、何を置いていったんですか。」
女性は答えない。
赤信号で車が止まる。
フロントガラスを流れる雨だけが、時間を刻んでいた。
やがて青になる。
車はゆっくり走り出す。
「あなたは。」
女性が静かに言った。
「もう行かないで。」
その声は、お願いというより祈りに近かった。
私は黙って頷く。
その時だった。
スマートフォンが震えた。
学校からの連絡だった。
『増水のため、橋周辺には近付かないでください。』
私は画面を閉じる。
女性は何も聞かなかった。
何気なくバックミラーへ目を向ける。
雨に霞む橋が、小さく映っている。
欄干に、白いものが掛かっていた。
一瞬だけ。
先生の白衣に見えた。
思わず振り返る。
激しい雨が窓を叩く。
もう一度橋を見た時には、何も見えなかった。
車は静かに、橋から遠ざかっていった。
【第15章:雨のあと】
翌朝、雨は止んでいた。
空だけを見ると、昨日の嵐が嘘だったように青かった。
学校へ着くと、いつもと変わらない朝だった。
笑い声。
チャイム。
誰も昨日の雨を気にしていない。
理科の時間。
教壇に立ったのは昨日と同じ先生だった。
「今日も自習です。」
それだけだった。
私は何度も職員室を見た。
先生の机は、そのままだった。
積まれたプリント。
湯飲み。
読みかけの本。
全部昨日のまま。
なのに。
先生だけがいない。
昼休み。
教室のテレビでは、昨日の大雨のニュースが流れていた。
『昨夜の記録的な大雨により、市内では一部河川が増水しました。』
画面が切り替わる。
上空から映した町並み。
川。
そして橋。
ほんの数秒だった。
橋の欄干に、小さな白いものが掛かっている。
私は思わず身を乗り出した。
一瞬だけ。
先生の白衣に見えた。
次の瞬間には、別の映像へ切り替わっていた。
「すごい雨だったよな。」
誰かがそう言った。
誰も橋なんて見ていなかった。
放課後。
私はまっすぐ帰るつもりだった。
橋とは反対の道へ足を向ける。
それで終わるはずだった。
なのに。
昨日から頭の中に引っ掛かったままの映像が離れない。
少しだけ。
確認するだけ。
私は自分に言い聞かせるように呟き、遠回りを始めた。
橋は静かだった。
昨日までの雨が嘘みたいに、川はゆっくり流れている。
欄干には何もない。
白衣も。
先生も。
最初から何もなかったように。
私は橋へ近付くことができなかった。
踵を返し、来た道を戻る。
胸ポケットが気になった。
生徒手帳。
昨日、橋へ置いてきたはずだった。
恐る恐る手を入れる。
あった。
私は息をのむ。
ゆっくり開く。
写真。
学年。
クラス。
そのページをめくる。
私は固まった。
名前と写真のページだけが、なくなっていた。
破いた跡はない。
まるで最初から存在しなかったように、きれいになくなっている。
何度もページをめくる。
やっぱりない。
昨日までどうだったのか。
思い出せない。
胸の奥がざわつく。
私はスマートフォンを取り出した。
アルバムを開く。
昨日まで撮った覚えのある写真が、何枚か見当たらない。
削除した記憶はない。
ただ、その場所だけがぽっかり空いていた。
カタン。
どこかで、小さな音がした。
私は反射的に振り返る。
橋までは、もう見えない距離だった。
それでも。
風だけが、橋の方から吹いてきた。
【第16章:偶然】
あの頃は、毎日が楽しかった。
川の匂い。
蝉の声。
橋の下だけは少し涼しくて、三人だけの秘密基地だった。
男の子は、いつも先を歩いていた気がする。
あの子は、いつもノートを持っていた。
虫を見つければ書く。
雲を見れば書く。
橋を見ても書く。
私はそんな二人を見ながら、河原の石を拾っていた。
何となく積んでみる。
崩れる。
また積む。
理由なんてなかった。
男の子が笑う。
「また崩れた。」
「あっちにも積もう。」
私は黙って頷く。
何度でも積み直した。
橋の上を車が通る。
ゴトン。
泥が落ちる。
男の子が見上げる。
「まただ。」
「あはは。」
三人で笑った。
それだけだった。
あの日までは。
秘密基地は燃えた。
赤い炎。
焦げた匂い。
黒くなった板。
積んでいた石だけが、河原に転がっていた。
悲しかった。
でも。
涙は出なかった。
どうしてだったのか。
今でも分からない。
次の日。
雨だった。
朝からずっと降っていた。
その日のことだけが、思い出せない。
気が付けば。
秘密基地へ行くのは、二人になっていた。
誰も何も言わなかった。
私も聞かなかった。
聞けなかったのかもしれない。
大人になった今でも、それが当たり前だったような気がしてしまう。
それでも。
橋を見ると、胸が苦しくなる。
私は車を運転する。
橋の前を通るたび、少しだけ速度を落とす。
理由は分からない。
ただ。
そうしてしまう。
橋を見上げる。
静かな橋だった。
「どうして石を積んでたんだっけ。」
思い出そうとする。
思い出せない。
私は小さく笑う。
「偶然だったんだよ。」
そう言ってアクセルを踏む。
左目でバックミラーを見る。
橋が少しずつ遠ざかっていった。
【第17章:帰れなくなる前に】
車は学校の近くで止まった。
私はシートベルトを外す。
ドアを開けようとした時だった。
「ねぇ。」
女性が私を呼び止めた。
私は振り返る。
女性は少し黙り込んだ。
無意識に右目へ指を添える。
そっと押さえる。
必死に、なにかを思い出そうとしているようだった。
「どうかしましたか。」
女性は小さく笑った。
「ううん。」
そう言って、手を下ろした。
「また会えますか。」
女性は少し笑った。
「どうかな。」
それ以上、何も言わなかった。
私は車を降りる。
ドアが閉まる。
白い車は静かに走り出した。
私は、その車が角を曲がって見えなくなるまで立っていた。
家に帰ると、母が夕飯の支度をしていた。
「おかえり。」
「ただいま。」
いつもと同じ声。
いつもと同じ匂い。
味噌汁。
焼き魚。
テレビの音。
何も変わらないはずだった。
「ご飯、先に食べる?」
母が私の名前を呼んだ。
私は返事をしようとして、少し遅れた。
「……うん。」
母が振り返る。
「どうしたの?」
「ううん。ちょっと疲れただけ。」
私は笑った。
けれど、胸の奥に変な感覚が残っていた。
今、呼ばれた名前。
それは確かに私の名前だった。
母は何度もそう呼んできた。
小さい頃から。
ずっと。
それなのに、一瞬だけ思った。
私って、こんな名前だったっけ。
食卓についても、その違和感は消えなかった。
でも、箸を持って、味噌汁を飲んで、テレビの音を聞いているうちに、少しずつ薄れていった。
きっと疲れているだけだ。
そう思うことにした。
その夜は、夢を見た。
橋は出てこなかった。
先生も出てこなかった。
ただ、誰かに名前を呼ばれていた。
何度も。
何度も。
私は返事をしようとする。
でも、どれが自分の名前なのか分からなかった。
朝。
母の声で目が覚めた。
名前を呼ばれる。
私は布団の中で、ぼんやり天井を見ていた。
もう一度、名前を呼ばれる。
今度は少し強い声だった。
「起きなさい。」
私はようやく体を起こした。
「起きてる。」
そう返してから、胸元を押さえる。
まただ。
一拍遅れた。
自分の名前に返事をするのに、少しだけ時間がかかる。
洗面所へ向かった。
顔を洗う。
冷たい水が頬に触れる。
左側は分かる。
右側は、少し鈍い。
私は鏡を見る。
右目はある。
傷もある。
いつもの顔だった。
それなのに。
右目に触れる。
何も感じない。
まぶた。
目尻。
頬。
指先は確かに触れている。
鏡の中でも、指は右目に触れている。
なのに、触られている感覚だけがなかった。
私は鏡を見つめる。
右半分の顔が、少しだけ遠い。
目もある。
鼻もある。
口もある。
何も欠けていない。
でも、右半分だけが、自分の顔だとすぐに分からなかった。
怖くなって、鏡から目を逸らした。
もう一度見る。
今度は普通だった。
私は深く息を吐いた。
学校へ行けば、いつも通りになる。
そう思った。
終業式が近いせいで、学校は少し浮き足立っていた。
廊下では誰かが夏休みの予定を話している。
部室では、後輩が大会の話をしていた。
私はいつものように記録用紙を整理する。
タイム。
名前。
日付。
書ける。
読める。
大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。
放課後、顧問が校庭を見回しながら言った。
「走ると危ないから、石を拾って集めておいて。」
私は頷いた。
マネージャーの仕事だった。
しゃがみ込み、小石を拾う。
土の付いた石。
角ばった石。
靴で踏まれて欠けた石。
一つずつ集めて、バケツへ入れていく。
その中に、一つだけ丸い石があった。
白っぽくて、つるりとしている。
校庭の石にしては、妙に滑らかだった。
私は手のひらに乗せる。
河原の石みたいだ。
そう思っただけだった。
それだけのはずだった。
けれど、その石を見ていると、右目の奥が少し重くなる。
痛いわけではない。
痒いわけでもない。
ただ、感覚が遠のいていく。
私は右目に触れた。
やっぱり、何も感じない。
「先輩?」
後輩の声がした。
私は慌てて石をバケツへ入れた。
「大丈夫。」
そう答える。
声は出た。
でも、自分の声が少し遠かった。
校庭の隅に集めた石が、小さな山になっている。
それを見ていると、なぜか胸がざわついた。
私は一歩下がる。
もう見ない方がいい。
そう思った。
けれど、目が離せなかった。
丸い石。
白い石。
積まれていく石。
どうしてだろう。
ただの校庭の石なのに。
手のひらに、さっきの感触だけが残っていた。
右目には、何も残っていなかった。
【第18章:置いていくもの】
終業式まで、あと数日。
校庭には、夏の匂いが満ちていた。
照り返す日差し。
遠くで鳴く蝉。
グラウンドでは、最後の練習が続いている。
私はいつものようにストップウォッチを握っていた。
右目の違和感は、まだ残っていた。
触っても感覚がない。
それでも、昨日よりは少しだけ楽だった。
気のせいかもしれない。
そう思うことにした。
「マネージャー。」
顧問が私を呼ぶ。
「昨日の石、まだ残ってるから集めておいて。」
「はい。」
私は校庭の隅へ向かった。
昨日集めた石が、小さな山になっている。
まだ取り切れていなかったらしい。
私はしゃがみ込む。
一つずつ拾い上げる。
その中に、昨日見つけたような丸い石が混じっていた。
手に取る。
やっぱり、河原の石に似ていた。
どうして校庭にあるんだろう。
そんなことを考えながら、バケツへ入れる。
その時だった。
右目の奥が、すっと冷たくなった。
私は反射的に右目を押さえる。
何も感じない。
頬も。
まぶたも。
何も。
「先輩?」
後輩がこちらを見ていた。
「顔色、悪いですよ。」
「平気。」
笑ってみせる。
ちゃんと笑えたはずだった。
でも。
後輩は少し心配そうな顔をしていた。
私は立ち上がる。
その瞬間。
足元がふらついた。
景色が、ゆっくり傾く。
深呼吸をする。
大丈夫。
まだ立てる。
そう思った。
顧問が近付いてくる。
「無理するな。」
その声が、少し遠い。
私は返事をしようと口を開いた。
言葉が出ない。
何を言おうとしていたのか。
それさえ分からない。
手の中の石が滑り落ちる。
カラン。
乾いた音が響く。
私はその音だけを聞いていた。
「誰か保健室!」
誰かが叫ぶ。
周りが急に騒がしくなる。
私はその場に膝をついた。
右手で地面を支える。
熱い。
夏の土だった。
誰かが肩を支える。
「しっかり!」
私はその人の顔を見た。
知っているはずなのに。
誰だか分からない。
怖かった。
右目へ手を伸ばす。
感覚はない。
左目だけで周りを見る。
世界が少しだけ欠けて見えた。
「救急車!」
誰かの声が聞こえる。
遠くでサイレンが鳴り始めた。
その音だけが、少しずつ近付いてくる。
私は空を見上げた。
真っ青だった。
雲一つない夏空。
その青さだけが、やけにはっきり見えた。
ゆっくりと瞼を閉じる。
最後に聞こえたのは。
誰かが何度も私の名前を呼ぶ声だった。
その名前が、本当に私のものだったのか。
もう、自信がなかった。
【第19章:夏の境界】
目を開けると、白い天井が見えた。
薬品の匂い。
規則正しく鳴る電子音。
私はゆっくりと瞬きをした。
右目は開いている。
左目も開いている。
天井は、ちゃんと見えた。
「先生。」
母の声がした。
医師が病室へ入ってくる。
「目が覚めましたか。」
私は小さく頷いた。
「気分はどうですか。」
「……大丈夫です。」
声はちゃんと出た。
医師はカルテを閉じる。
「検査の結果ですが、大きな異常は見つかりませんでした。」
私は黙って聞いていた。
「脳梗塞も疑いましたが、その所見はありません。」
「ただ、しばらくは様子を見ましょう。」
原因は分からない。
その言葉だけが、頭の中に残った。
母は安心したように息を吐いた。
私は右目へ触れる。
感覚があった。
ちゃんと触れている。
頬も。
まぶたも。
昨日までの違和感が嘘みたいだった。
その夜。
ふと目が覚めた。
病室は暗い。
カーテンの隙間から廊下の明かりだけが差し込んでいる。
腕が冷たかった。
点滴を見る。
透明だったはずの管に、赤い色がゆっくりと戻っていく。
私は息をのんだ。
点滴の袋は空になっていた。
「え……。」
慌てて体を起こした、その拍子だった。
プツッ。
軽い音がして、管が外れた。
腕から血が垂れる。
ぽたっ。
白いシーツへ、小さな赤い染みが落ちた。
私は慌てて立ち上がる。
腕を押さえたまま病室を出る。
廊下へ一歩。
また一歩。
歩くたびに、小さな赤い点が床へ落ちた。
静かな病院。
自分の足音だけが響く。
「すみません……!」
ナースステーションへ声を掛ける。
看護師さんがこちらを見る。
私の腕を見るなり、小さく笑った。
「あら。」
「管、外れちゃったんだね。」
それだけだった。
慣れた手つきで腕を押さえる。
新しいガーゼ。
テープ。
あっという間に処置は終わった。
「もう大丈夫だからね。」
私はほっと息を吐いた。
病室へ戻る。
廊下を見る。
さっきまで点々と続いていた血の跡は、きれいになくなっていた。
何事もなかったように。
私は布団へ潜り込む。
今度はすぐに眠れた。
数日後。
退院の日。
病院を出ると、夏の空気が肌にまとわりついた。
蝉が鳴いている。
私は深く息を吸った。
家へ帰る車の中で、母が言った。
「もうすぐ終業式だったのにね。」
私は窓の外を見る。
「そうだね。」
その時だった。
母が何気なく私の名前を呼んだ。
私は返事をしようとして、一瞬だけ言葉に詰まる。
まただ。
ほんの少しだけ。
その名前が、自分のものではないように聞こえた。
「どうしたの?」
「ううん。」
私は笑ってごまかした。
翌週。
学校へ戻った。
教室はいつも通りだった。
「大丈夫?」
「びっくりしたよ。」
友達が笑う。
私は笑い返した。
何も変わっていない。
そう思った。
理科の時間になる。
私は無意識に廊下へ目を向けた。
あの先生の姿はない。
職員室へ向かう。
扉を開ける。
見慣れた机が並んでいる。
私は辺りを見回した。
何かがおかしい。
先生の机がない。
私は職員室の先生へ声を掛けた。
「あの。」
「はい?」
「理科の先生は……。」
先生は少し首を傾げた。
「理科なら、今授業中ですよ。」
「違うんです。」
私は言葉を探す。
「前の先生です。」
先生は困ったように笑った。
「前?」
「今年は最初から今の先生ですよ。」
私は何も言えなかった。
職員室を出る。
廊下の掲示板を見る。
職員紹介。
写真が並んでいる。
何度見ても。
あの先生はいなかった。
昼休み。
ホームルームで一枚のプリントが配られた。
『○○橋 補修工事のお知らせ』
先日の大雨の影響により、橋脚の一部に損傷が確認されました。
今後、安全確保のため調査および補修工事を実施します。
工事期間は約三年を予定しております。
期間中は橋周辺への立入りをご遠慮ください。
誰もプリントを最後まで読まなかった。
机の中へしまう者。
鞄へそのまま入れる者。
教室では、もう夏休みの話題で持ちきりだった。
私はプリントを折りたたむ。
ふと窓の外を見る。
青い空。
白い雲。
夏休みは、もうすぐだった。
その時。
校庭の向こうを、一台のトラックがゆっくり走っていくのが見えた。
荷台には、黄色と黒の工事用フェンスが積まれていた。
私はそのフェンスを見つめる。
どうしてだろう。
少しだけ。
安心した。
【終章:あの夏】
終業式の日。
教室には夏休みを待ちきれない声があふれていた。
黒板には大きく「よい夏休みを」と書かれている。
私は窓の外を眺めていた。
蝉が鳴いている。
あの日と同じ夏だった。
先生のことを口にする人は、もう誰もいなかった。
理科室にも。
職員室にも。
最初から、そんな先生はいなかったように。
不思議だった。
退院したばかりの頃は、何度も思い出そうとした。
先生の顔。
声。
笑い方。
ノートを書く姿。
でも。
思い出そうとするたび、霧がかかったようにぼやけていった。
きっと。
私だけが覚えていればいい。
そう思うことにした。
ホームルームが終わる。
担任が最後に言った。
「橋の工事が始まるので、近付かないようにしてください。」
それだけだった。
教室では、もう夏休みの話で盛り上がっている。
海へ行く。
花火大会。
部活。
宿題。
誰も橋の話なんてしなかった。
私は鞄を肩に掛ける。
机の中を確認すると、一枚のプリントが残っていた。
『○○橋 補修工事のお知らせ』
私は少しだけ見つめる。
折り畳み、鞄へ入れた。
なぜ取っておこうと思ったのか、自分でも分からなかった。
昇降口で靴を履き替える。
部室へ向かった。
夏休みに入れば、三年生は引退だ。
部室では後輩たちが片付けをしていた。
「先輩。」
一人の後輩が頭を下げる。
「今までありがとうございました。」
私は少し照れくさくなって笑った。
ロッカーを開ける。
中には使い慣れたストップウォッチが入っていた。
何度も握った。
何度も時間を測った。
私はそれを手に取り、後輩へ差し出す。
「これ。」
「もう私より、あなたが使う方が多いから。」
後輩は驚いたような顔をした。
「いいんですか。」
「うん。」
「頑張って。」
後輩は大切そうに両手で受け取った。
「ありがとうございます。」
私は何も言わず頷いた。
部室を出る。
校庭では後輩たちが走っている。
ストップウォッチの音。
笛の音。
笑い声。
私は少しだけ立ち止まり、その景色を眺めた。
もう私の役目は終わった。
そう思った。
校門を出る。
夏の風が吹いた。
家へ帰る途中、橋の方を見ることはなかった。
それから夏休みが始まった。
部屋の片付けをしていると、教科書の間から一枚の紙が落ちた。
橋の工事のお知らせだった。
私は苦笑する。
「こんなの取ってたんだ。」
折り目を開く。
工事期間、約三年。
その文字だけを見つめる。
しばらく考えてから、私はその紙を小さく折り畳んだ。
そして、ごみ箱へ入れた。
紙は音もなく落ちた。
私は窓を開ける。
暑い風が部屋へ流れ込む。
遠くで蝉が鳴いていた。
その夏が終わる頃には、橋のことを考える時間も少しずつ減っていた。
名前を呼ばれて戸惑うこともなくなった。
右目の感覚も戻った。
先生の顔だけは、もう思い出せなかった。
それから数年が過ぎた。
私は高校生になっていた。
制服も変わった。
通学路も少し変わった。
橋は工事中だった。
黄色と黒のフェンスが橋を囲み、重機が静かに動いている。
古い橋は半分ほど姿を消していた。
私は自転車のペダルを踏む。
工事現場の横を、そのまま通り過ぎる。
立ち止まらなかった。
振り返らなかった。
風が頬を撫でる。
どこか懐かしい匂いがした。
でも。
何を思い出しかけたのかは分からなかった。
私は小さく笑う。
「あの夏は、全部置いてきたんだ。」
自転車は、そのまま夏の道を走り抜けていった。
【エピローグⅠ】
橋の工事が始まってから、一年が過ぎた。
黄色と黒のフェンスは、変わらず橋を囲んでいた。
夏。
秋。
冬。
春。
季節が巡るたび、橋の景色だけが少しずつ変わっていく。
ある日には古い欄干が外され、
またある日には大きなクレーンが新しい橋桁をゆっくりと据え付けていた。
工事は静かに進んでいた。
橋を気にする人はいない。
車は迂回路を走り、
人は少し遠回りをする。
それだけだった。
やがて三年が過ぎた。
橋は新しく生まれ変わった。
白い欄干。
広くなった歩道。
夜には新しい街灯が橋を照らしている。
昔の橋を知る人も、少なくなっていた。
私は高校二年生になっていた。
朝、自転車で家を出る。
坂の途中で友達に追いつかれる。
「おはよう!」
「おはよう。」
他愛もない話をしながら学校へ向かう。
昨日見たテレビの話。
小テストの愚痴。
放課後に寄るコンビニの新作アイス。
そんな話ばかりだった。
昼休みには笑い合い、
放課後には部活を頑張る後輩たちを眺めながら帰る。
あの頃と同じ夏なのに、
私の毎日は、少しずつ前へ進んでいた。
帰り道。
新しくなった橋を、自転車で渡る。
風が心地よく頬を撫でる。
私は少しだけ笑った。
「よし、早く帰ろう。」
そう言って、ペダルを踏み込んだ。
【エピローグⅡ】
鈴虫の声が、静かに響いている。
カタ……ン。
どこかで、小さな音がした。
しばらくして、また。
カタ……ン。
川は何も語らない。
ただ静かに流れ続け、
すべてを、どこか遠くへ連れ去っていくようだった。
「おそいぞ。」
少しだけ間があく。
「かえろうか。」
「うん。」
その声は川の流れにのって、静かに消えていった。
【あとがき】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語では、橋が何だったのかを最後まで明かしませんでした。
本当に不思議な橋だったのか。
すべて偶然だったのか。
あるいは、夏の日の出来事が誰かの記憶を少しずつ変えてしまっただけなのか。
その答えは、あえて描いていません。
物語は作者の手を離れた瞬間から、読んでくださった一人ひとりのものになると思っています。
だから、この橋の正体も、この夏に何が起きたのかも、それぞれの中で自由に想像していただけたら嬉しいです。
もしこの物語を読み終えたあと、近所の古い橋や、子どもの頃によく遊んだ場所を思い出したり、何気なく通り過ぎていた風景を少しだけ違う目で見てもらえたなら、作者としてこれ以上嬉しいことはありません。
皆さまの夏の記憶の片隅に、この物語が静かに残り続けることを願っています。
最後まで、本当にありがとうございました。