
【エッセイ】元フレンチ料理人の僕が、20代の修行時代に「かぼちゃの煮物」から教わった料理の本質
(写真:筆者)
20代、フランス料理店で修行していた頃の話です。
当時の僕たち若手コックの間で、密かな「勝負」がありました。
魚をさばく速さの競い合いです。
誰が最初に言い出したのかも覚えていない。
気がついたら、仕込みの時間になると自然と張り合っていた。
同期同士の切磋琢磨で、どこかゲームみたいな感覚がありました。
包丁を持つ手が震えるような、あの緊張感が今も蘇ります。
隣のスタッフがアジを3枚におろす音が聞こえるたびに「負けてられるか」と思って、手が速くなる。
鱗が飛んで、内臓を取って、身を骨から外す。
早く、きれいに、正確に。
そこだけに全神経を注いでいたわけです。
認められたかった。
うまいと思われたかった。
腕を見せたかった。
20代なんてそんなものかもしれません。
当時頭の中にあったのは「どうすれば料理長に一目置かれるか」ほとんどそれだけでした。
■ まかない当番の日に、ふと立ち止まった
その店のまかないは、若手3人の順番制でした。
フランス料理店ということもあって、まかないにも自然と「見栄」が入り込んでいた。
誰かがフレンチ風のソースを使えば、次の番の人はイタリアンっぽくまとめてみる。
食材を工夫して、盛り付けに凝って、腕を見せる場として使っていたわけです。
そんな空気の中で、ある日の当番が回ってきた。
さて何を作ろうかと考えながら、ふと立ち止まりました。
料理長とマダムは、当時40歳前後。
毎日フレンチの料理に囲まれて仕事をしている。
きっと洋食には食べ飽きているはずだ——そう思ったとき、
自分の中で何かが反転した感覚がありました。
僕が「見せたい」と思っているものは、食べる人が「食べたい」ものとは、全然違うんじゃないか。
料理は、見せるものじゃなくて、相手を思うものなんだ。
■ あえて選んだ「かぼちゃの煮物」と「鶏肉の卵とじ」
その日作ったまかないは、かぼちゃの煮物と鶏肉の卵とじでした。
和風です。
フレンチでもイタリアンでもない。
派手さもない。
盛り付けに工夫を凝らす余地もない。
フレンチの料理人としての「技」を誇れるような料理では、まったくありませんでした。
正直、「手を抜いたと思われるかもしれない」「評価されないかもしれない」という不安はありました。
それでも鍋に向かいながら、「今日は、食べる人がほっとできるものを作ろう」と思っていた。
それだけを考えて、かぼちゃを煮て、鶏肉を卵でとじた。
まかないの時間。
一口食べた料理長が、ぽつりと言ったんです。
「今日のまかない、落ち着くな」
マダムも「こういうの、いいわね」と静かに笑ってくれた。
派手な褒め言葉ではない。
でも、あの言葉は30年以上経った今も、ちゃんと覚えています。
魚さばきの競争で誰かに勝ったときの記憶より、よっぽど鮮明に。
■ 50代になって、あの日を思い出す理由
あれから30年以上が経ちました。
フレンチの修行を積んで、大阪でビストロを開いて、10数年経営して、そして料理人を引退した。
長い時間が流れたわけです。
その間にたくさんの料理を作って、たくさんの人に食べてもらいました。
今でも時々、あのかぼちゃの煮物を思い出します。
特別な食材も、難しい技術も、必要なかった。
ただ「食べる人のことを思って作った」それだけの料理が、なぜ今も記憶に残っているのか。
たぶん、あの日に初めて「料理の本質」に触れたんだと思います。
みせる料理を作ることより、誰かを思うことのほうが、ずっと大事なのだと。
魚をさばく速さを競い合っていた20代の自分に言ってやりたいです。
「包丁の速さよりも、こっちやぞ」って。
……まあ、あの頃の自分には届かなかったでしょうが。
「うまい料理」は技術で作れる。
でも「忘れられない料理」は、思いやりでしか作れない。
■ 今も変わらない、料理の原点
料理人を引退した今、台所に立つのは完全に自分のためです。
畑で育てた野菜を収穫して、晩酌のつまみを作る。
誰かに評価されるわけじゃない。
料理長の顔色をうかがう必要もない。
でも、だからこそわかることがあります。
誰かのことを思いながら作る料理と、自分だけのために作る料理は、
やっぱり違う。
家族のために、友人のために、「今日はこれを食べたら喜ぶかな」と考えながら作るとき、料理はただの「食事」から、もう1ステージ上のものに変わるのだと思います。
あの日の料理長の「落ち着くな」という一言が、料理人としての原点になっている。
今夜は自分ひとりのための晩酌ですが、あの日の「誰かを思う気持ち」をどこかに残しながら、また静かに包丁を握ろうと思います。
#創作大賞2026 #フード部門 #料理エッセイ #エッセイ #まかない #修行時代 #フランス料理 #かぼちゃの煮物 #料理の原点 #私の仕事