📖『残り香』
あなたがいなくなった部屋には、
静けさより先に
あなたの香りが残っていた。
いつも使っていた香水。
少し苦くて、
その奥にかすかな甘さのある香り。
昔は気にも留めなかったのに、
もう会えないと決まった途端、
こんなにも胸を締めつける。
窓を開ければ、
夜の風がカーテンを揺らす。
消えてしまえばいいと思った。
あなたの香りも、
あなたを待つ癖も、
玄関の音に振り返ってしまう私も。
けれど窓を閉めたあと、
私は少しだけ後悔した。
――まだ、消えないで。
そう思ってしまったから。

大人の恋は、
もっと上手に終われるものだと思っていた。
泣き叫んだりしない。
追いかけたりもしない。
「元気でね」
そんな綺麗な言葉を最後に、
静かに背中を向けられるものだと。
でも本当は、
大人になったからこそ
言えない言葉が増えただけだった。
行かないで。
もう一度抱きしめて。
私じゃだめなの。
まだ好きなの。
喉まで出かかった言葉を、
微笑みの奥へ押し戻して、
「じゃあね」
たった四文字で、
私たちは終わった。

あなたの歯ブラシを捨てた。
読みかけの本を箱にしまった。
冷蔵庫に残っていた
あなたの好きなビールも、
一人で飲んだ。
ひとつ片づけるたびに、
あなたがこの部屋から
少しずついなくなっていった。
それなのに不思議ね。
姿が消えるほど、
記憶は鮮やかになる。
眠る前、
あなたが私の名前を呼んだ声。
仕事で疲れた夜、
何も聞かずに淹れてくれた珈琲。
喧嘩をした翌朝、
気まずそうに差し出された
少し焦げたトースト。
特別なことなんて
何ひとつなかった。
だからこそ、
忘れられないのかもしれない。
恋はきっと、
記念日の中に残るのではなく、
なんでもない夜や、
くだらない会話や、
二人で過ごした沈黙の中に
残っていくものだから。

季節がひとつ過ぎた頃、
街ですれ違った誰かから
あなたとよく似た香りがした。
思わず振り返った。
もちろん、
あなたではなかった。
知らない人の背中が
人混みの向こうへ消えていく。
それだけのことなのに、
胸の奥が、
昔の傷を思い出したように疼いた。
ああ。
まだ好きなのだと思った。
けれど同時に、
少しだけ笑えた。
以前の私なら、
その香りを追いかけていたかもしれない。
でも私は、
もう歩き出していた。
あなたのいない時間を。
あなたのいない季節を。
あなたのいない人生を。

忘れることが
前へ進むことだと思っていた。
でも、違うのね。
忘れなくてもいい。
愛したことも、
愛されたことも、
最後まで言えなかった
「ありがとう」も。
全部抱えたまま、
人は次の朝へ行ける。
あなたの残り香は、
いつか完全に消えてしまうだろう。
この部屋からも、
私の服からも、
そして少しずつ、
記憶の中からも。
それでも――
あなたを愛した私まで
消えるわけじゃない。
あの恋があったから、
私は知った。
誰かを失うほど愛することも。
別れたあとでさえ、
その人の幸せを願えることも。
そして、
終わった恋にも、
人を優しくする香りが残ることを。
今夜、私は窓を開ける。
夏の終わりを告げる風が
静かに部屋へ入ってくる。
もう、
あなたの香りはしなかった。
少し寂しくて、
少しだけ安心して、
私は目を閉じる。
さようなら。
今度こそ、ちゃんと言える。
あなたが残していったものは、
寂しさだけじゃなかった。
愛された記憶も、
愛した記憶も、
私の中で
ちゃんと優しさに変わっている。
だから、もう大丈夫。
香りは消えても、
あの日々は消えない。
恋が終わったあとに残るもの。
それは未練ではなく、
誰かを本気で愛した私の――
最後の、残り香。

💗柊紅葉💗

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