
付録 身体の漢字考第⑤裏作 ※表版を読んだ方への、もう一層深い考察
身体の漢字考
第五考「非」―裏―
※表版を読んだ方への、もう一層深い考察
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今日も、思い通りにいかなかった。
準備していたことが崩れた。
期待していた返事が来なかった。
信じていた流れが、逆を向いた。
悲しい、と思った。
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ふと気づいた。
「悲」という字、
心の上に「非」が乗っている。
非が来たとき、
心の上に乗っかってくる。
心が非に押しつぶされている、
そういう象形なのかもしれない。
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「非」という字を調べたら、
左右対称に羽が広がった象形で、
本来あるべき方向と
逆を向いている状態だという。
「非」はいつも外からやってくる。
「過」が自分で踏み越えていくのとは違い、
「非」は向こうからぶつかってくる。
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でも少し立ち止まって考える。
「逆を向いている」と判定したのは、誰か。
正しい方向を決めたのは、誰か。
是と非の境界線を引いたのは、
自分だった。
正しさ、理想、願い、期待。
その基準との乖離が「非」を生む。
嘆きも、非難も、怒りも、
全部自分が引いた境界線の産物だ。
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もう少し「非」という字をじっと見ていたら、
気になることがあった。
左右が、背を向け合っている。
向き合っているのではなく、
そっぽを向いている。
是と非は対立していない。
ただ、背を向け合っているだけだった。
振り返れば、そこにいる。
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腹と背中のことを考える。
腹は柔らかく、開いている。
背中は硬く、守っている。
相反するように見えて、
一枚の体幹を表と裏から支えている。
腹だけでは立てない。
背中だけでは動けない。
是と非も、同じかもしれない。
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バイ菌と常在菌の話がある。
「バイ菌」と呼んで排除しようとするものが、
実は腸内環境を守る常在菌だったりする。
非と判定したものが、
実は是の一部だった。
身体はとっくに知っている。
相反するものを共存させることが、
生きることだと。
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生命は勾配で動いている。
プロトン勾配がATPを作り、
イオン勾配が神経を動かし、
力学的勾配が姿勢を保つ。
是か非か、ゼロか一か、ではない。
生命はすべて、グラデーションの中にある。
是と非の間にある
この広大な勾配区域こそが、
生命が動く場所だ。
境界線は妄想だった。
いや、正確には、
補助線だった。
幾何学の補助線のように、
是非の境界線は
答えを導くためだけに存在して、
最後は消える運命にある。
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脳は予測と現実の誤差、
つまり勾配を最小化しようとする。
「非」な出来事とは、
予測と現実の間に生まれた
急峻な勾配だ。
その勾配を埋めようとして、
嘆き、非難し、怒る。
でも勾配は埋めるものではなく、
流れるものだった。
勾配があるから、動ける。
勾配があるから、届く。
勾配があるから、生きている。
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横隔膜が動かなくなるとき、
腹腔内圧の勾配が失われる。
迷走神経の張力が落ちて、
身体のダイナミクスが
ゆっくりと平衡に向かう。
勾配が消えることが、死だ。
「非」な出来事は、
勾配を急峻にする。
急峻すぎる勾配は苦しい。
でも勾配がゼロになるよりずっといい。
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「非」を受け取れる身体を作る。
それは是非の判定をやめることではなく、
勾配として受け取ること、だ。
急峻な勾配が来たとき、
横隔膜を固めて防ごうとするのではなく、
腹を揺らして、
勾配を身体全体に分散させる。
是非の境界線が溶けるとき、
嘆いていた自分も、
嘆かれていた出来事も、
同じ勾配の中にいたことに気づく。
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「非」という字に戻る。
左右対称に羽が広がった象形。
逆を向いているのではなく、
両方向に開いていた
のかもしれない。
背を向け合っていた是と非が、
同時に羽を広げている。
是も非も、
両方の羽があって、
はじめて飛べる。
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腹が動くとき、
勾配が身体を流れる。
心の上の「非」が、
少し軽くなる。
是非の補助線が薄れて、
非の打ち所が、なくなっていく。