
それでも私は、AIに記事は書かせない
昔、と言っても2、3年前のことだが、私はジャズの評論ブログを収益化していた。
ブログを開設した当初、収益化するためには、ある程度の記事数が必要と思い、急いだ私はAIに記事を書かせるという選択をした。
記事数は順調に増え、Google Adsenseの審査も通り、ブログの収益化を達成した。
しかし、物語は「めでたし、めでたし」で終わらなかった。
Google Adsenseの審査に合格さえすれば、確かに収益化したことにはなる。
ブログ記事に広告を挿入し、表示やクリックによって報酬が発生する。
だからと言って、実際に収益が発生するかどうかとは別の話なのだ。
第1章:フェイク・パーフェクト
当時の私が実施したのは、以下の手法によるAIでの記事制作だ。
記事の構成を伝える
記事を書かせる
レビュー、ファクトチェック
修正から公開へ
記事にしようとしたジャズプレイヤーを教えれば、あっという間に記事が出来上がり、私はそのチェックをするだけという寸法になる。
まさに「完璧な作戦」のように思えた。
第2章:誤算
「完璧な作戦」に基づいて公開ボタンを押し続け、記事数は200を数え、運用期間は6か月を超えた。
各記事には間違いなく、さまざまな広告が表示されていることも確認できていた。
フォロワー数を500以上まで増やしたX(当時はまだTwitterだったと記憶している)を使用して宣伝活動にも勤しんだ。
しかし、Google Adsenseの管理画面には、ほとんど毎日「0」が並び、ごく稀に数円の報酬が入る程度だった。
「完璧」に見えた作戦は、実践現場に投入された途端にメッキが剥がれ落ち、ただの「抜け殻」であることを露呈したのだ。
私は約25年間、システムエンジニアとして働いてきた。
長年、「論理が正しければ結果が出る世界」に身を置いてきた私にとって、この「0」の連続は、「収益化失敗」以上の意味を持っていた。
それは、私が構築した効率化のプロセスが「価値」を生み出していないという敗北宣言であり、否定しようのない誤算だった。
第3章:無菌室で生まれた言葉
AIを利用した記事制作は、「情報のプロフェッショナル」を雇ったかのような錯覚を抱かせる。
効率的なことは間違いないが、その実態は、必ずしも期待した結果を生むものではなかった。
さらに、運用を続ける中で、無視できない欠陥が次々と顕在化してきたのだ。
3.1. 得も言われぬ「退屈さ」
AIが生成する文章の特徴であり、かつ最大の欠陥は、それが「統計的な正解」の積み重ねでしかないという点だ。
AIは過去の膨大な学習データ、あるいはインターネットの検索結果から、次に続く可能性が最も高い言葉を確率的に選択していく。
その結果、出来上がる文章は極めて論理的で、文法的にも完璧だ。
しかし、そこには当然のことながら「オリジナリティー」もなければ、何より「面白み」が決定的に欠落している。
読み手の心を揺さぶるのは、情報の正確さそのものではない。
言葉の端々に滲み出る書き手の「驚き」や、時に論理を飛び越えて語られる「偏愛」、そして言葉と言葉の間に漂う「行間の熱量」ではないだろうか。
要は「人間臭さ」だ。
ジャズを例にとるなら、AIを使うことで、リリース年月日、レコード会社、パーソネルなどの基本情報を調べるのは楽だ。名盤の歴史的意義を当たり障りのない正解で記述できる。
しかし、その音楽を聴いて「明日からまた生きていこう」と救われた人間の震えるような感動を、実感を伴った言葉で紡ぐことはできない。
AIが選ぶのは常に「誰もが納得する一般論」であり、裏を返せば「誰の心にも刺さらない最大公約数」でしかないのだ。
事実を整理しただけの「無菌室で生まれ育った文章」は、検索エンジンのクローラーを満足させることはできても、画面の向こう側にいる生身の人の心を揺さぶることはできない。
書いている本人が一番よく分かっていた。自分の心が1ミリも動かない文章で、誰かの心が震えるはずがない。
それでもなお『得も言われぬ「退屈さ」』を心底痛感していながら、AIによる記事作成を続けている私がいた。
3.2. 悪意なき虚言
AIを利用する上で避けられないのが、いわゆる「ハルシネーション(幻覚)」の問題だ。少しでもAI経験があれば頷ける、多くのAI利用者が通過する登竜門だろう。
AIは、もっともらしい文脈を作るために、存在しない事実を平然と捏造する。
例えば、アルバム収録曲を間違えるのは日常茶飯事。実在しないアルバムを「最高傑作」として紹介したり、存命中のアーティストを物故者のように語ることまであった。
これはシステムが「偽のデータ」を生成し、それを真実として出力している状態だ。
タチが悪いのは、本人(AIだから人とは言えないのだが)にはまったくもって悪意がなく、その嘘が非常に「もっともらしい」ことである。
文法が完璧で、文脈が整っているがゆえに、一見しただけでは捏造を見抜くことが極めて難しい。
統計的に「ありそうな言葉」を繋いでいるだけなので、情報の真偽を確認するというプロセスが設計思想の中に最初から存在しないのだ。
本職がITエンジニアの私にとって、この「平然と嘘が混じるシステム」は、本来であれば許容しがたい欠陥品であった。
「情報の効率的な発信」を目指したはずの私の製造ラインは、いつの間にか「もっともらしい嘘」を世に送り出すリスクを孕んだ、極めて不安定なプラットフォームへと変貌していた。
3.3. 消せない「AI臭」 ―― 常套句への逃避
AIが生成する文章には、どれほどプロンプトを工夫しても消せない独特の「AI臭」がある。
その最たるものが、必要以上にドラマチックに仕立て上げようとする大言壮語な表現だ。
例えば、「~という名の~」といった、一見深そうに見えて中身のない常套句を多用することを好み、大げさな比喩や形容詞を必要以上に使いたがる。
表現に困ると、何でもすぐに「構造」や「本質」、「正体」といったような安易な言葉選びで片付けようとする。
また、文章のバランスを考慮する知性がないため、文脈を無視する。重要なことが複数あろうと「最も重要」、他にも手段があっても「唯一の手段」といった断定的な極論を平気で投げ込んでくる。
こういったAI特有の癖には、書き手が本来持っているはずの「迷い」や「謙虚さ」が感じられず、どこか上から目線の、それでいて血の通わない説教臭さが漂う。
200記事も書けば、そのパターンは見え透いてくる。
どこかで見たような常套句のパッチワークの連続。
この「消せないAI臭」が、読者に「これは人間が書いていない」と直感させ、心を閉ざさせる決定的な要因となっていた可能性すらある。
この経験によって、私が得た唯一のメリットは、「AIが作成した文章を一読すれば見抜ける能力」ぐらいかもしれない。
第4章:心と知性の摩耗
「AI臭を嗅ぎ分ける力」が鋭くなればなるほど、私は自分に対して惨めな気持ちを抱くようになっていった。
本来の創作活動とは、新しい何かを生み出したり、誰かの心に届く言葉を考えたりするためのものであって、だからこそ人生の貴重な時間を使う価値がある。
それがいまや、AIが吐き出した「もっともらしい一般論」の山から不純物を取り除くという、極めて付加価値の低い後始末に浪費されているのではないか。
私の心はそんな疑念に支配されていた。
4.1. 終わりのない「片付け」
効率化を目指して導入したAIは、実際には私の時間を奪う要因となり、本末転倒だった。
運用を始めてすぐに直面したのは、あまりに効率の悪い「二度手間」という現実だ。
AIの悪意なき「捏造」のリスクを避けるためには、AIが事実として出力した全てを、改めて自分の手で調べ直さなければならない。
また、鼻につく「AI臭」を消そうとすれば、結局は一字一句を自分の言葉で書き直すことになる。
そのようにして、やっとの思いで完成に漕ぎつけた文章を再読してみると、何の面白みも感じない一般論に終始している。
気がつけば私は、他人が無責任に書き散らした不正確な下書きを、溜息をつきながら修正し続ける「言葉の検品係」になっていた。
私がやっていたのは創造ではなく、AIがしでかしたミスの後始末だ。
「公開」ボタンを押す瞬間の達成感はなく、高揚感も消え、ただ「ようやく不備の修正が終わった」という、疲れの混じった解放感だけが残るようになった。
4.2. 奪われた「癒し」
不毛な修正作業を繰り返す日々の代償は、執筆時間だけでは済まなかった。
私の日常生活にも、じわじわと暗い影を落とし始めたのだ。
何より悲しかったのは、どの音楽ジャンルよりも好きだったジャズが、癒しではなくなってきていることに気づいた瞬間だった。
かつてはスピーカーから流れる音に身を委ねるだけで、一日の疲れが夜の闇に溶け出していくような至福の感覚があった。
しかし、AIに記事を書かせるための「素材」として音楽を聴く習慣がついたせいで、鑑賞中も「この記事をどうAIに書かせるか」「どこをピックアップする指示を出すか」という邪念に捉われることになった。
音楽を聴くことが、ただの「記事を書くためのタスク」と化していたのだ。
「好き」を原動力にして始めたはずの試みが、いつの間にか自分にとって最も大切な救いを、苦痛に満ちた作業へと変質させていた。
塞ぎがちになる日々の中で、いったい何のためにこの「効率化」に拘泥しているのか、完全に迷走し、答えを見いだせないでいた。
この頃には、ジャズブログを始めて約1年が経過していた。
AIそのものも進化し、使い方も格段に上達した。
しかし、成果を生まない泥沼が続くことによって精神は疲弊し、「このままでは心を壊してしまうぞ」と、脳が警鐘を鳴らしていた。
第5章:泥沼からの撤退と、新天地との邂逅
私はジャズブログの更新をやめた。
それからしばらくは、AIの力を借りる必要がまったくないゲーム攻略ブログや、本職のプログラミングブログだけを継続していた。
そして、プログラミングブログでは引き続きAIを使用した。
文章と違い、AIにとってプログラミングは得意分野の筆頭であり、ほとんど完璧に近いプログラムをアウトプットしてくるからだ。
大切なのは適材適所。それに尽きる。
しかし、適材適所による効率化の恩恵を享受しながらも、心の奥底には一つの違和感が澱のように残っていた。
私は何か大切なものを置き去りにしていないか?
その答えは、株式投資を始めたことをきっかけに見つかった。
5.1. 最短距離の誘惑を断ち切る
老後の資産経営のために始めた株式投資は、始めてからたった1ヶ月で20万の損失を出した。
当時の資金が200万ほどだったので、1割を1ヶ月で失ったことになる。
私はその失敗を巻き返すため、SNS頼みの投資からの脱却を図った。
何より重要視したのが、テクニカル分析を捨て、ファンダメンタルズ分析に100%振り切った投資方法だ。
不確かなチャートの動きを追うのではなく、企業の価値そのものを直視するファンダメンタルズを学ぶ過程で、私には運命的な出会いが待っていた。
「投資の神様」の異名をとるウォーレン・バフェットという存在だ。
かつての私なら、彼の投資哲学さえもAIに要約させ、「効率よく」エッセンスだけを抽出して満足していたかもしれない。
しかし、手痛い損失を経験した今の私に必要だったのは、誰かが噛み砕いた「情報の残りカス」ではない。彼が何を考え、どのような歴史を辿り、どうやって今の地位を築いたのかという、伝説的な投資家の思考プロセスそのものだ。
私は、バフェットの「株主への手紙」を、あるいは彼の生涯を綴った分厚い伝記を、自らの目と頭で一字一句追いかける「精読」を始めた。
そこには、AIが生成する最大公約数の答えとは対極にある、凄まじいまでの知識と哲学が詰まっており、圧倒的な熱量を感じられ、そして彼の「失敗」までもが赤裸々に語られていた。
5.2. 自らの手で「投資哲学」を創り上げる
バフェット哲学を通してファンダメンタルズ分析を学び続けるうちに、私の中で明らかな変化が起きた。
自らの時間を投じて一文字ずつ咀嚼しながら得た知識は、株式投資の実践で使用することによって、決して忘れることのない「自分固有の哲学」として脳内に定着していった。
投資において重要なのは、他人が作った数式や、あてにならない「予測」に依存することではなく、自分の中に「納得感のあるルール」を築き、実践することだ。
私は、企業の財務諸表を読み解き、PBRやROEといった指標を企業の意思として捉えられるよう努力した。
それはAIによる「200記事の量産」よりもはるかに時間がかかったが、得られる手応えはその何倍も大きく、確かな達成感を感じられる「実りある作業」だった。
自分で調べ、自分で考え、自分で判断する。
今思えば、当たり前すぎるプロセスをあえて「非効率」に実行することが、唯一にして最大の防衛策であると再認識したのだ。
結果的に、1ヶ月で失った20万という損失は、その後の5か月で含み益プラス10万になり、さらに毎月の平均配当金は1万円を突破した。
第6章:新たな挑戦への意欲
投資デビュー半年で20万の損失から立ち直り、含み益10万、そして月平均1万円の配当という成果は、私にとってひとつの「成功のマイルストーン」となった。
その成果によって、私の中に一つの欲求が芽生えた。
この試行錯誤と数々の失敗から得られた「生きた知見」を、どこかで公開したいと考えたのだ。
それは、かつてのようにAIを使って200記事を量産し、アクセス数だけを追う虚業への回帰ではない。
記事の内容を熟考し、心の底から湧き上がる思いを文章に紡ぐのはわたし自身。そのために必要な情報の検索や、誤字などのチェックはAI。
完全なる「役割の逆転」だ。
こうして私は、新たなフィールドとして「note」を選んだ。
バフェットの言葉を自分流に解釈し、独自の哲学に昇華させる。
企業分析手法を文章化する。
探し当てた「お宝」銘柄について記事にする。
どれもこれも、AIに頼り切って書いていた頃とは比べ物にならない楽しさと満足感がある。
私はようやく「答え」にたどり着いた。そんな気がした。
第7章:結びに代えて
現代の生活にAIは欠かせない存在になってきている。
私自身、今でもプログラムの作成や、面倒な計算処理や調べもの、自分が苦手な画像生成などはAIに頼むことがある。
何より、AIが書いた小説が賞を取っている実例もあるのだから、「AIに文章は書かせない」というのは、私の個人的な独断と偏見に満ちた主張であることは自覚している。
さんざん挙げてきたAIのダメな点についても、プロンプトを工夫するとか、ルール設定ファイルを使うとか、有料版のAIにアップグレードするとか、さまざまな解決方法があることも理解している。
もしかしたら、AIからは、「君の使い方が悪いだけだよ」と反論されるかもしれない。
しかし、それでもやはり、私の価値観に変わりはない。
自分の思考を整理し、哲学を磨き、誰かに何かを届けようとする時、そこには必ず「私」という人間が、その「意志」が介在しなければならないと信じている。
私にとって「文章を書く」という行為は特別な意味を持つ。
私自身が世界をどう捉え、どう生きていくかを再確認するための不可欠な儀式であり、生き甲斐のひとつであり、大袈裟に聞こえるかもしれないが、「私という人間がこの世に生きた証」とさえ思っている。
たとえ不器用でも、時間がかかっても、自らの手で調べ、悩み、選び抜いた言葉で未来を編んでいく。
今やライフワークとなった株式投資についても同じだ。自分の力で分析する過程で得られる「血の通ったメソッド」だからこそ、暴落や困難に直面しても決して揺らぐことのない、一生モノの資産になるのだ。
だから私は、ここに改めて宣言する。
AIには記事を書かせない、と。
こうして、私は今日もキーボードを叩き続ける。
歪んでいようと、誰からも賞賛されなくとも、自らの魂が震えるような確固たる主観を込めて。