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言葉の切先をみつめて

     先日、大阪で行われた短歌教室で、歌人の服部真里子さんにお会いした。
     今年の1月に読んだ服部さんの著作『あなたとわたしの短歌教室』は、短歌を作ることに力を入れてみようと思ったきっかけの本であり、これからの私のバイブルとなるであろう本でもある。短歌のバイブルではなく、人生のバイブルに。

     人間の本質は暴力であり、人が人と関わることは、つきつめれば暴力にしかなりえない。
    (中略)
     私たちは、暴力を楽しいと感じるようにできているのです。それは絶望的なことかもしれません。けれど、私はそこに希望を見ます。

    『あなたとわたしの短歌教室』服部真里子

     この本のあとがきから、私が特に引き込まれた部分を引用させていただいた。(もちろん、この文だけでも服部さんの真摯な部分は十分に滲み出ているが、この文章はあとがきを最初から読むと、より心に染み渡る文章なので是非とも本で読んでいただきたい)

     言葉は暴力になり得る。
     これは道徳の授業を受けていたような頃から、数えきれないほど耳にすることだ。人を傷つけないように優しい言葉を使いましょう。人を思いやって行動しましょう。だけど、暴力性のない言葉など、この世に存在するのだろうか?
     友人を慰めようと選んだ一見優しそうな言葉で、逆に友人を傷つけてしまったという経験をした人は案外多いのではないだろうか。悲しみや憎しみの渦中にいないから綺麗事が言えるのだと怒らせたり、優しい言葉を受け入れられない自身の心の醜さに気づき悲しませたり。言葉によって強弱はあるにせよ、言葉は普遍的な暴力性を孕んでおり、暴力性のない言葉などこの世にはないのだと思う。

     SNSや創作活動において、言葉の暴力性は広範囲に威力を持つ。
     自分にとっては当たり前の日常を投稿しただけで、誰かの嫉妬心を仰ぐこともあるだろう。「〇〇が好き」と言えば、それをどう頑張っても好きになれなかった人を落ち込ませることだってある。
     一対一の関係なら、相手に合わせて言葉を選ぶ努力をして、できる限り言葉の悪い力を抑えることができるが、不特定多数に向けた言葉でそれをするのは困難だ。どんな言葉を選んでも、必ずそれに傷ついてしまう人はいるから。
     それをわかっていながらも、私はこうして言葉を世に放つことがやめられない。数えきれないほど、傷つけ傷つけられてきたのに、言葉という手段で心が躍ってしまうのだ。こうして文章を書くことが、誰かの言葉を読むことが、他者と関わり交流することが、何よりも楽しいのだ。

     短歌教室でお会いした服部さんは、とても美しい言葉の刃を持つ人だった。人の前に立ったり、言葉を紡いだものを発表したりする機会が多いほど、刃は研ぎ澄まされ、意識せぬ間に攻撃力が上がってしまう。服部さんは、自身の鋭くなってしまった刃をしっかりと見つめて、胸に抱き、正しく使おうと精一杯努力されている人だと感じた。
     教室が終わってサインをいただくときに、服部さんの本のあとがきに救われたのだということをお伝えしたかったのだけれど、感無量で涙が溢れうまく伝えることが出来なかった。だけど、服部さんはそんな私のボロボロの言葉も受け取ろうとしてくださった。真っ直ぐな目で私にくれた服部さんの言葉は、私にとってはコンパスのようなものになった。

     私が言葉を発する度に、言葉の凶暴性は上がっていくだろう。
     それを理解しているのにも関わらず、言葉を使うことを楽しいと思い、言葉を紡ぎ続けてしまう。そんな私を、私は、許す。その代わり、自分の手に握られた言葉の刃の切先の鋭さを見つめ、暴力性を認識しながら、真摯に向き合うことを私自身と約束しよう。

     またいつか、服部さんにお会いできる機会があったらいいなと思う。その時は、ちゃんと服部さんに思いを伝えられるようになっておきたい。



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