
第二話 「今の環境が自分に合っていない気がするのに、なぜ私はここに居続けるのか」
観測者
彼は会うたびに同じことを言った。
「この会社、合わないんですよね」
最初に聞いたのはいつだっただろう。
三年前か。
四年前か。
正確には覚えていない。
だが、その言葉だけは何度も聞いた。
「上司とも合わないんです」
「会社の考え方も古いし」
「やりたい仕事もできないし」
「本当はもっと別のことが向いている気がするんです」
私は黙って聞いていた。
否定する理由もなかった。
彼の話はもっともだった。
実際、その会社には問題もあった。
上司にも問題はあった。
業界にも将来への不安があった。
だが、ある時から私は別のことが気になり始めた。
彼は何年そこにいるのだろう。
一年なら分かる。
二年でも分かる。
準備期間というものがある。
しかし気づけば十年近く同じ話をしている。
環境が悪い。
会社が悪い。
評価されない。
自分にはもっと可能性がある。
それなのに、
彼は翌日も同じ会社へ向かう。
そして翌年も。
さらにその翌年も。
私はある日、思い切って聞いてみた。
「転職は考えないのですか」
彼は苦笑した。
「もちろん考えますよ」
「でも今じゃないんです」
私は頷いた。
そして少しだけ不安になった。
なぜなら私は、
その言葉を何度も聞いたことがあったからだ。
今じゃない。
もう少し準備してから。
もう少しお金が貯まったら。
もう少し自信がついたら。
もう少し状況が良くなったら。
不思議な言葉だ。
その「もう少し」は、
いつまで経ってもやって来ない。
そして私は気づいてしまった。
彼に違和感を覚える理由を。
私は彼を見ていたのではない。
過去の自分を見ていたのだ。
私にもあった。
本当は動いた方がいいと知りながら、
動かない理由を集めていた時期が。
失敗するかもしれない。
向いていないかもしれない。
笑われるかもしれない。
損をするかもしれない。
傷つくかもしれない。
だが今思えば、
それらは未来ではなかった。
私が恐れていたのは、
未来に起こる出来事ではない。
未来によって壊される、
自分の物語だった。
もし挑戦して失敗したら。
「本当は才能がある」
という物語は終わる。
もし転職して上手くいかなかったら。
「環境さえ良ければ」
という物語は終わる。
だから私は動かなかった。
いや。
動けなかったのではない。
動かなかったのだ。
その方が物語を守れたから。
彼は最後にこう言った。
「今の環境、自分に合ってない気がするんです」
私はその問いを持って、
五人の賢者のもとを訪ねた。
誰かが
「その会社を辞めるべきだ」
と言うと思った。
誰かが
「もっと自分らしく生きろ」
と言うと思った。
だが最初に口を開いたのは、
老子だった。
老子
「合わないのなら、なぜそこにいるのだ」
相談者は少し笑った。
「生活がありますから」
老子は頷いた。
「ならば生活のためにいるのだろう」
相談者は黙った。
「環境が合わないのではない」
老子は静かに続けた。
「君は環境を選んでいる」
相談者は眉をひそめた。
「違います」
「選んでなんかいません」
「住宅ローンもあります」
「家族もいます」
「年齢だって若くない」
「そんな簡単な話じゃないんです」
私は内心、相談者に同意していた。
老子の言葉は美しい。
だが現実はそんなに単純ではない。
責任というものがある。
守るものというものがある。
老子は首を横に振った。
「私は辞めろとは言っていない」
「ただ聞いている」
「なぜ君は自分を囚人だと思うのだ」
相談者は戸惑った。
「囚人?」
「そうだ」
「君はまるで選択肢が存在しないように話している」
「だが本当にそうか」
「会社が明日なくなったらどうする」
「転職します」
相談者は即答した。
「ならば選択肢はある」
「それは特別な状況です」
「なぜ特別なのだ」
「会社がなくなるんですよ」
「では会社がある限り、自分の人生は動かせないのか」
相談者は黙った。
その時、アドラーが口を開いた。
アドラー
「老子の言いたいことはこうでしょう」
「あなたは動けないのではなく、動かないことを選んでいる」
相談者は苛立ったように言った。
「だから違うんです」
「そんな簡単な話じゃない」
「失敗したらどうするんですか」
会議室の空気が少し変わった。
相談者は続けた。
「今より悪くなったら」
「家族に迷惑をかけたら」
「転職先が合わなかったら」
「収入が下がったら」
「取り返しがつかなかったら」
言葉は止まらなかった。
まるで長年胸の中に溜め込んでいたものが、一気に溢れ出したようだった。
誰も遮らなかった。
やがてブッダが静かに言った。
ブッダ
「なるほど」
「あなたは環境に苦しんでいるのではないのですね」
相談者は顔を上げた。
「え?」
「あなたは未来に苦しんでいるのでもありません」
「まだ起きていない未来を想像し」
「その想像に苦しんでいるのです」
相談者は何も言わなかった。
だが私には分かった。
それは相談者だけの話ではなかった。
私にも覚えがあった。
始めたいことがあった。
辞めたいこともあった。
だが私は行動しなかった。
その理由を探せばいくらでも見つかった。
時間がない。
お金がない。
タイミングが悪い。
準備不足だ。
だが本当にそうだったのだろうか。
その時だった。
ニーチェが口を開いた。
ニーチェ
「違うな」
ブッダが視線を向ける。
「この男は未来を恐れているのではない」
相談者が顔を上げた。
ニーチェは続けた。
「失敗を恐れているのでもない」
「では何を?」
と私は思った。
ニーチェは迷いなく言った。
「失敗して、自分が特別ではないと知ることだ」
会議室が静まり返った。
相談者の表情が固まる。
「そんなことは……」
否定しようとして、
言葉が続かなかった。
ニーチェは容赦しなかった。
「君は何年も言い続けている」
『もっと向いている仕事がある』
『本当の力を発揮できていない』
『環境さえ変われば』
「なら試せばいい」
「だが君は試さない」
「なぜだと思う?」
相談者は答えなかった。
いや。
答えられなかった。
ニーチェは静かに言った。
「試した瞬間、可能性は現実になる」
「そして現実には結果が出る」
「成功か」
「失敗か」
「才能があるか」
「ないか」
「君はその判決を恐れている」
長い沈黙が流れた。
相談者は机を見つめていた。
そして、絞り出すように言った。
「本当は……」
誰も口を挟まない。
「本当は挑戦したかったんです」
小さな声だった。
「ずっと」
相談者の拳が震えていた。
「でも、もし駄目だったら」
彼はそこで言葉を失った。
そしてようやく本音を口にした。
「自分には才能がなかったって証明される気がして」
会議室は静まり返った。
(第三話へ続く)