
第37話「鈴木湊」
前話のあらすじ:田中と二人で村上先生の病院を訪ねる。田中が村上先生に一人で礼を言う。村上先生が「先生と同じ道はない。お前の道になる」と言う。食堂で田中が「今日できることをして、また明日できることをする」と言うと、村上先生が「そうか」とだけ返す。それだけで田中には十分だった。帰りの新幹線で田中が「3か月後に何かあるんですか」と聞いてくる。主人公は「ある。今日は言えない。でも3か月後には話す」と答える。
* * *
鈴木湊に連絡を入れたのは、火曜日の夜だった。
桐島から名前を聞いてから、1週間が経っていた。
すぐに連絡するつもりだったが、何から始めればいいか、少し考えていた。
いきなり電話するのは、唐突すぎる。メールは堅すぎる。
Signalが、一番自然だと思った。
桐島が鈴木にSignalを使うよう伝えているはずだ。
メッセージを打った。
鈴木さん、桐島さんからご連絡をいただきました。少しお話できますか。
送信した。
返信を待ちながら、コーヒーを飲んだ。
10分後に返ってきた。
ありがとうございます。お話できます。いつがよいですか。
丁寧な文章だった。
でも、句読点の打ち方が少し硬かった。緊張しているのかもしれない。
今夜、時間はありますか。
あります。何時でも大丈夫です。
20時でどうですか。Signalの通話で。
わかりました。よろしくお願いします。
コーヒーカップを置いた。
20時まで、あと40分あった。
* * *
20時ちょうどに発信した。
2コールで出た。
「もしもし」
若い声だった。
研修医の田中より、少し若いかもしれない。あるいは同じくらいか。
「鈴木さんですか」
「はい、鈴木湊です。よろしくお願いします」
声が少し固かった。やはり緊張している。
「緊張しなくて大丈夫です」と私は言った。「普通に話しましょう」
「はい」鈴木が言った。「すみません」
「謝らなくていいです。桐島さんから少し聞きました。データの問題があると」
「はい」
「詳しく話してもらえますか。あなたの言葉で」
鈴木が少し間を置いた。
深呼吸している気配があった。
「わかりました」と鈴木が言った。「話します」
* * *
鈴木湊は、入社2年目の研究者だった。
大学院でデータ解析を専攻して、去年この会社に入った。内視鏡診断のAIを開発している会社だ。東京に本社がある。
「入ったときは、いい会社だと思っていました」と鈴木が言った。「代表の先生は、本当に医療をよくしたいと思っている人で。技術も、他の会社より進んでいる」
「でも、データに問題があった」
「はい」鈴木が言った。「気づいたのは、半年前です。ポリープの種類別に正診率を分けて見たとき、数字が大きく違った」
「どのくらい違いましたか」
「腺腫性ポリープは90%以上です。でも平坦型病変——」鈴木が少し止まった。「内視鏡で見つけにくい、でもがん化リスクが高い病変の種類なんですが——そこは40%台でした」
「40%台」
「はい。半分以下です」
私はその数字を、頭の中に置いた。
67.4%でも問題だと思った。40%台は、それより深刻だ。
「上司に報告しましたか」
「しました」鈴木が言った。「でも、『全体の数字は高い。問題ない』と言われました」
「全体の数字は何%ですか」
「83%です」
83%。
全体で見れば優秀な数字だ。でも平坦型病変だけ見れば40%台。その差が、承認申請の書類に出てこない。
「その後、どうしましたか」
「もう一度、別の上司に話しました。でも同じでした」鈴木が言った。「その頃から、何かがおかしいと思い始めた」
「桐島さんに連絡したのは、いつですか」
「3か月前です」鈴木が言った。「シンポジウムで桐島さんの発表を聞いて、この人なら話せると思った」
「なぜ桐島さんだったんですか」
「医療AIの承認基準の話をしていたから、です」鈴木が言った。「具体的な事例を出して、内訳のデータが重要だと言っていた。私が抱えていた問題と、全く同じことを言っていた」
私は黙って聞いていた。
「それから桐島さんと何度かやり取りして、先生のことを聞きました」鈴木が続けた。「先生の会社で同じことがあって、委員会で証言したと」
「そうです」
「実名で」
「実名で」
鈴木が少し間を置いた。
「それを聞いて」と鈴木が言った。「私も動かなければと思いました」
* * *
私も動かなければと思いました。
その言葉が、頭の中に落ちた。
西村が廊下で私に話しかけた夜のことを、思い出した。
「先生、実は隠されているデータがあります」
あの夜の西村の声と、今夜の鈴木の声が、少し重なった。
同じ構造だ。
データの問題を抱えた若い人間が、外に声を出した。
でも、今回は違うところがある。
あのとき、私は会社の内側にいた。西村が話しかけてきた側だった。
今夜は、私が話しかけられる側にいる。
渡す側と、受け取る側が、入れ替わっていた。
「鈴木さん」と私は言った。
「はい」
「今、会社の中に、同じ問題を抱えている人はいますか」
「います」鈴木が言った。「同期が一人。でも、まだ話せていない」
「なぜ話せていないんですか」
「怖いから、だと思います」鈴木が言った。「私も怖かった。今も怖い」
「怖いのは正しいです」と私は言った。
「え」
「怖くない人間は、状況を理解していない人間です。怖いということは、何が起きているかわかっている」
鈴木が少し間を置いた。
「桐島さんも、同じことを言っていました」
「桐島さんは、そういうことをよく知っている人です」
「先生は」鈴木が言った。「怖かったですか。証言するとき」
「怖かったです」
「でも、実名でやった」
「実名でしか言えないことを、言いたかったから」
鈴木がまた間を置いた。
今度は少し長かった。
「先生に聞いていいですか」
「どうぞ」
「私は、何をすべきですか」
私は少し考えた。
西村に同じことを聞かれたとき、私はどう答えただろうか。
答えを押しつけなかった。
正直でいることだけを、頼んだ。
「一つだけ言います」と私は言った。
「はい」
「データを、正直に見続けてください。上司に止められても、会社の方針に反しても、自分の目で見た数字を信じることをやめないでください。それだけです」
「それだけですか」
「それだけです」と私は言った。「あとは、私が考えます」
鈴木が静かに息を吐いた。
「わかりました」と鈴木が言った。「やります」
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「そのデータ、今も手元にありますか」
「あります」鈴木が言った。「コピーしてあります」
「安全な場所に保存してください。会社のサーバーや会社のクラウドは使わないで」
「個人のクラウドに、すでに上げてあります」
私は少し止まった。
「最初からそうしていたんですか」
「はい。なくなるかもしれないと思って」
なくなるかもしれないと思って。
西村が同じことを言っていた。
あのとき私は驚いた。入社1年目の人間が、そこまで考えていたことに。
今夜も、驚いた。
「鈴木さん」
「はい」
「よく動けましたね」
「先生の会社のことを知っていたから、です」鈴木が言った。「あの話がなかったら、私も動けていなかったと思います」
先生の会社のことを知っていたから。
委員会での証言が、東京の若い研究者を動かした。
私は知らなかった。
知らない場所で、何かが続いていた。
「3か月後に、私が東京に行きます」と私は言った。
「桐島さんから聞きました」
「それまで、一人でも続けられますか」
「続けます」鈴木が言った。「先生が来るまで、データを守ります」
「頼みます」
「よろしくお願いします」
電話が切れた。
* * *
スマートフォンを置いた。
部屋が静かだった。
鈴木湊。
入社2年目。データを正直に見た。上司に止められた。桐島に連絡した。個人のクラウドに保存した。
西村とほぼ同じ動きをした。
でも、一つだけ違う。
西村は、私が「都合のいいデータだけ見せるな」と言った後に動いた。
鈴木は、私の会社の話を聞いて、誰かに言われる前に動いた。
一段、早かった。
私の会社でのことが、別の場所で誰かの背中を押した。
その連鎖を、今夜初めて、声として受け取った。
コーヒーを飲もうとして、もう冷めていた。
それでも飲んだ。
スマートフォンを取り出した。
西村に打った。
Signalで。
鈴木湊という人間と話しました。あなたに似ています。
送信した。
返信を待ちながら、窓の外を見た。
夜の街が広がっていた。
東京に、鈴木湊がいる。
大阪に、西村がいる。
兵庫に、村上先生がいる。
それぞれの場所で、それぞれが正直でいようとしている。
つながっているのに、顔を見たことがない人間同士が。
外科医の言葉が、一つの会議室から始まって、今夜東京の若い研究者に届いていた。
どこまで届くのか、まだわからない。
でも、届いている。
それだけが、今夜の事実だった。
スマートフォンが光った。
西村からだった。
そうですか。
一行だった。
続きがあった。
その人に、よろしくお伝えください。
私は西村のメッセージを見た。
よろしくお伝えください。
西村が会ったことのない人間に、言葉を送った。
同じ問題を抱えた、別の場所の人間に。
私はSignalを開いた。
鈴木に打った。
西村という人間から、よろしくとのことです。あなたと同じ問題を抱えて、同じように動いた人間です。
送信した。
すぐに返ってきた。
ありがとうございます。いつか会いたいです。
いつか会いたい。
3か月後に、私が東京に行く。
そのとき、鈴木と西村をつなぐことができるかもしれない。
同じ問題を、別の場所で抱えた二人が、同じ場所に立つ日が来るかもしれない。
その日まで、まだ3か月ある。
でも、今夜から、その日は始まっていた。
窓の外の夜が、少し違う色に見えた。