
日本人の物語01695【戦国/東国/長享の乱】長享の乱始まる
「長享の乱」というチャプタータイトルにしていたものの、なかなか戦が始まりませんでした。やっと勃発です。
道灌の死によって勢いづいた勢力が2つありました。
1つは長尾景春勢。景春自身はどこに潜伏しているか分かりませんが、上野国内に景春の味方が多少いるようです。もう1つは本佐倉城の千葉孝胤たちです。
勢い付いた景春党を討つべく、文明18(1486)年11月、山内上杉顕定と長尾顕忠(ながおあきただ:?~1509)は、惣社長尾氏の本拠である蒼海城(群馬県前橋市)を拠点に、箕輪城(群馬県高崎市)の長野業尚(ながのなりひさ:?~1503)と戦いました。ちなみに長尾顕忠とは忠景の嫡男で、惣社長尾氏の当主となっていた人物です。
景春対策はちゃんと進んでいましたが、一方で千葉対策は置き去りにされていました。そのため同じ11月、道灌が千葉対策の拠点としていた馬橋城(千葉県松戸市)が攻撃され、落城してしまいます。さらに道灌の弟・太田資常が城主を務める前ヶ崎城(千葉県流山市)も落城し、資常は戦死しました。
このように下総千葉家は次々と太田領に侵攻していましたが、この後下総千葉家はピタリと戦闘を止めます。その原因は、山内上杉と扇谷上杉の対立にありました。
山内上杉顕定は、扇谷上杉定正が道灌を殺害したことを鋭く非難していました。その怒りはすさまじく、道灌の子・資康や道灌の理解者・三浦父子が山内家に集まり、扇谷家の討伐を検討し始めたほどでした。それを受けて扇谷家も山内家との決戦に備え、かつての仇敵・足利成氏や長尾景春と連携し始めました。そうなると、古河公方成氏の家臣である下総千葉家は扇谷家と同盟関係となり、江戸の太田領に攻め込む必要がないのです。
対立構造をまとめると以下のとおりです。
【山内方】山内上杉家+越後上杉家+(白井)長尾家+太田家
【扇谷方】扇谷上杉家+古河公方+景春党
長享元(1487)年10月には、扇谷上杉定正が江戸城を改修しました。これは千葉家ではなく山内上杉家の来襲に備えたものと考えられます。
閏11月。遂に両上杉は武力衝突しました。山内上杉顕定の兄である越後上杉定昌が白井城(群馬県渋川市)から出陣し、扇谷方の長尾房清(ながおふさきよ:?~1504)が守る勧農城(栃木県足利市)に攻め寄せたのです。これが「長享の乱」と呼ばれる山内上杉と扇谷上杉の18年間に渡る戦いの始まりでした。
「長尾房清というのは長尾氏に属しているのだから、山内方ではないか」
と思われることでしょう。しかし長尾家は「白井長尾」「惣社長尾」「足利長尾」「越後長尾」などに分かれており、山内上杉家の家宰を務めているのは白井長尾なのです。今回登場した房清は足利長尾に属しており、その足利長尾は長尾景春の乱において景春党についていたため、今回の長享の乱においても扇谷方に属していたのです。
上杉同士の戦いが始まりました。これさえなければ、戦国時代に上杉家はもっと高い権威を持って君臨できたはずだったのですがね。