
日本人の物語01710【戦国/東国/長享の乱】越後上杉房定死去
もう対立構造が複雑過ぎて訳がわかりません。どうかゆっくり慎重にお読みください。
扇谷上杉定正の時ならぬ横死に続き、山内方も強力な味方を失いました。
そもそも山内家の当主・顕定は越後から送り込まれた養子でしたが、顕定の父にして越後上杉家の当主である越後上杉房定が、明応3(1494)年10月17日に64歳で死去したのです。越後上杉家は子の房能が継ぎました。顕定からみると弟となります。
ちなみに「房能」という名について不思議なことがあります。房能は長享2(1488)年9月に元服して「房能」を名乗り始めたのですが、越後守護代の長尾能景(ながおよしかげ:1464~1506)はそれ以前から「能景」と名乗っていることが確認されています。ということは守護代から守護に一字与えた(偏諱した)のでしょうか。しかし家臣が主君に一字与えるとは、実に不可解です。
真相は分かりませんが、このことは越後における守護と守護代の関係を象徴しているようにも思えます。実際、越後では守護代の長尾氏が強くなり過ぎて、守護の上杉氏が力を失っていくのです。
さて、長享の乱が勃発して7年が過ぎ、対立構造に変化がありました。明応3(1494)年11月、山内上杉顕定が古河公方政氏のもとに書状を送り、出仕する旨を表明したのです。これで古河公方は扇谷家を見捨てて山内家を支援することが決まりました。恐らく政氏は、扇谷上杉定正が落馬死したことを知り、見限ることにしたのでしょう。実に非情な決断です。
一方、長尾景春もまた山内・扇谷のいずれにつくか選択を迫られていましたが、そもそも山内家と対立したから反乱を起こした経緯があるわけですから、アンチ山内の観点から扇谷につくことを選択しました。ところがややこしいことに、景春の嫡子・長尾景英(ながおかげひで:1479~1527)は父に反発して山内方に帰参しました。
対立構造がいかに変遷していったか、まとめておきましょう。
【享徳の乱勃発時:1454年】
公方方: 古河公方
上杉方: 山内上杉家(長尾家含む)+扇谷上杉家(太田家含む)+越後上杉家
【長尾景春の乱勃発時:1476年】(景春党が寝返る)
公方方: 古河公方+景春党
上杉方: 山内上杉家+長尾家(景春党除く)+扇谷上杉家+太田家+越後上杉家
【長享の乱勃発時:1487年】(道灌殺害により山内と扇谷の戦いが始まる)
山内方: 山内上杉家+越後上杉家+長尾家(景春除く)+太田家
扇谷方: 扇谷上杉家+古河公方
【長享の乱再開時:1494年】(古河公方が扇谷を見限る)
山内方: 山内上杉家+越後上杉家+長尾家(景春除く)+太田家+古河公方
扇谷方: 扇谷上杉家+景春党+伊勢宗瑞+今川氏親
変遷をまとめましたが、いまいち分かりやすくなった気がしませんね。