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日本人の物語00315【平安中期】藤原公任の放言

     貞元3(978)年8月17日。兼家の娘・詮子が円融天皇の女御として入内しました。前々から兼家が望んでいたことでしたが、兼通が死んで妨害がなくなったため、ようやく実現したのでしょう。
     ところが同年4月10日。詮子に先立つこと半年。円融天皇の意志によって、藤原頼忠の長女・遵子(のぶこ:957~1017)もまた、女御として入内していました。これを知った兼家はひどく怒り、円融天皇との関係が険悪となっていきます。
     天元3(980)年6月1日。詮子が懐仁親王(ちかひとしんのう:後の一条天皇:980~1011)を出産します。ところが兼家は、詮子と懐仁親王を自邸に下がらせてしまい、円融天皇に会わせようとしませんでした。円融天皇はわが子と対面できないことを悲しんだといいます。ひどい嫌がらせですね。
     天元5(982)年1月28日。兼家が冷泉上皇に入内させていた娘・超子が不審な死を遂げました。当時「庚申待ち」といって神仏を祀って徹夜をする行事があったのですが、明け方に眠るように息絶えているところを発見されたのです。これは、外戚レースに敗れて悶死した藤原元方の怨霊の仕業ではないか、との噂が都に広まっていきました。
     同年3月11日。皇子を産んだ詮子を差し置いて、まだ出産していない遵子が皇后(正室)となりました。これは兼家が関白・頼忠に敗北したことを意味します。
     頼忠一家は、政治的に敗北した兼家一家に追い討ちをかけます。皇后遵子の行列が東三条院(詮子邸)の門前を通ったとき、遵子の弟・藤原公任がわざわざ家を覗きこんで
    「こちらのお妃様はいつになったら皇后になれますかね」
    と放言したのです。あまりに露骨な嫌がらせでした。
     さて、公任のひどい側面を紹介しましたが、公任は極めて風流な文化人として同時代の人々から高い評価を受けていたようです。
     後に藤原道長が開催した宴で、「漢詩の舟」「管弦の舟」「和歌の舟」という3つの舟が用意されたことがありました。それぞれ最も得意な舟に乗って歌に興じようという趣向です。
     しかし公任は3つ全ての才能が優れていたため、どの舟に乗るか迷い、「三舟の才」と評されたといいます。
     なお、公任の和歌で最も有名なのは、
    「滝の音は 絶へて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こへけれ」
    ですね。百人一首に収録されているのでご存じの方も多いでしょう。
     この歌の舞台は京都嵐山にある大覚寺。かつて嵯峨上皇の離宮だった場所です。公任の時代にはすでに枯れていて存在しなかった滝を歌ったものです。詠唱してみると実に口に馴染みやすい名歌だと思います。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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