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日本人の物語00614【鎌倉前期】和田合戦 滅亡の原因*

     建暦3(1213)年5月5日。和田合戦で戦功を挙げた者に、実朝から恩賞が与えられました。このとき、義時の長男として合戦に参加していた北条泰時は、
    「義盛は主君に逆心を抱いたのではなく、父を恨んだだけである。私は父の仇を討ったに過ぎないので、恩賞をもらうべきではない」
    と主張し、恩賞の受け取りを拒否しました。泰時はこの後、3代執権として鎌倉を率いることとなる人物ですが、吾妻鏡には泰時がいかに徳の高い人格者であったかを伝えるエピソードが多く、これもその一つです。
     それにしても、なぜ和田一族は滅ぼされたのでしょう。梶原は讒言癖のため、比企は幕府内での主導権を握ろうとしたため、畠山は平賀朝雅を侮辱したため、牧の方は将軍実朝を廃することを画策したためと、それぞれに滅ぼされる理由がありました。しかし、和田義盛には特段の理由が見当たらないのです。
     和田義盛は無骨な武人であり、比企能員のように天下を取ろうという野心を持つ人物ではありません。おそらく和田胤長が泉親衡の乱に参加していたというのも、北条によるでっち上げでしょう。つまり、和田側から敵対的な動きは何一つなかったにもかかわらず、北条は和田を滅ぼしたということになります。
     思うに、
    「幕府として御家人たちに継続的に恩賞を与えるためには、誰かをスケープゴートにして滅ぼし、所領を没収しなければならない」
    という本末転倒な事情があったのではないしょうか。鎌倉武士はとにかく戦闘とそれによる恩賞が大好きな人種で、それゆえ鎌倉時代は戦争の絶えない時代であったと私は考えています。
     和田合戦には後日談があります。
     後日、大倉御所において若輩者の千葉胤綱(ちばたねつな:1198?~1228)が、重鎮である三浦義村よりも上席に座り、むっとした三浦義村は
    「下総(千葉県:千葉胤綱の領地のこと)の犬は寝場所を知らぬ」
    と皮肉を言いました。すると千葉胤綱は
    「三浦の犬は友を喰らうぞ」
    と言い返したというのです。和田一族と共に決起を誓っておきながら平気でこれを裏切った三浦に、痛烈な皮肉を返したというわけです。

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    和田一族の墓である「和田塚」。同じ敷地内に戦没者の碑があったり、いろいろまとめられている。和田塚駅から徒歩5分。2022年9月23日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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