
日本人の物語01707【戦国/東国/長享の乱】長享再乱
長享の乱は和睦したり再戦したりを繰り返していて、非常に地味な戦乱です。
明応3(1494)年7月21日。停戦協定が破られ、長享の乱が再開します。これを「長享再乱」といいます。その始まりは、扇谷上杉定正が松山城(埼玉県吉見町)や稲付城(東京都北区)に兵を準備し始めたことでした。明らかに山内方との戦いを意識した動員でした。
一旦矛を収めた扇谷がなぜ再び立ち上がったのかというと、恐らく伊勢宗瑞による茶々丸追放が原因でしょう。かねてより茶々丸と懇意にしていた山内上杉顕定が茶々丸を支援したのに対して、茶々丸と険悪だった扇谷上杉定正は宗瑞を支援しようと考えたのです。
古河公方政氏は扇谷方を応援しました。古河公方にとって堀越公方茶々丸は政敵ですから当然でしょう。そもそも政氏は、両上杉が和睦中であった前年閏4月15日に山内方の武井城(群馬県桐生市)を攻撃しており、和睦などくそくらえと思っていたはずです。
和睦を破って先に手を出したのは扇谷方でした。明応3(1494)年8月15日、扇谷軍が山内方の関戸城(東京都多摩市)を陥落させます。さらに9月19日には、これまた山内方の玉縄城(神奈川県鎌倉市)を陥落させました。山内方の大将・矢野右馬助(やのうまのすけ:?~1494)を戦死させるほどの大勝利でした。
一見すると扇谷家は順調に見えますが、同時に危機も迫っていました。8月26日に小田原城主を務める有力家臣・大森氏頼が死去したのです。
大森氏頼は、道灌亡き後は扇谷上杉定正に意見できる唯一の家臣でした。書かれた時期は不明ながら『氏頼意見状』という書状が残っており、こんなことが書かれています。
「長享以来の両家の不和に際して、山内方は顕定公お一人が中心でありましたが、扇谷方は古河公方(政氏)や伊玄(長尾景春)がお味方して下さったので、かろうじて勢力を保つことができました。しかし、今もなお鉢形城の顕定公が滅びないのは、定正公が古河公方(政氏)をお見捨てになったためであります。眼前の賢と不賢、天地の清濁をよく見極めて、古河公方を見捨てずにいたならば、関東の万民は定正公お一人に帰服するでしょう」
つまり氏頼は、味方であるはずの古河公方政氏を大事にしない主君定正の態度に憤っており、諫言しているのです。このような有能な家臣を失ったことは定正にとって痛手だったでしょう。大森家は氏頼の子・実頼が継ぎましたが、さすがに氏頼ほどの存在感は発揮できなかったようです。
さらに8月28日には、山内上杉顕定の父に当たる越後上杉房定が、越後国人衆の発智(ほっち)氏・楡井(にれい)氏に動員をかけている書状が残っています。山内家を救援するべく準備しているのでしょう。
山内家が越後勢を味方につけた一方で、扇谷家にとって有力な味方となるはずの伊勢宗瑞は、同じ8月に今川軍の総大将として遠江に進軍し、高藤城(静岡県掛川市)を陥落させていました。甥の今川氏親の援軍要請に応じたものでしょう。果たして宗瑞はどこまで扇谷家の味方として動いてくれるのか、不透明な状況です。
「発智」という苗字の人を見たことがありますが、越後国人衆の流れを引く新潟県人なのか、聞いておけば良かったなと思いました。