
日本人の物語01726【戦国/西国/京兆専制】細川義春失脚
この頃から足利将軍家は、以前だったら絶対に偏諱を許さなかった低い家柄に対してもどしどしと偏諱を与えるようになります。それだけ、味方を増やしたかったのでしょう。
明応の政変と呼ばれる政権交代によって失脚した人物は、近江守護・六角政堯だけではありません。阿波守護の細川義春もまた失脚していました。
細川家といえば、勝元・政元父子が当主を務めた「細川京兆家」が本家ですが、前述のとおり、それ以外に「典厩家」「野州家」「讃州家」などに分かれていました。そして前将軍の義材(現・義稙)は政元嫌いだったため、讃州家の義春をやたらと優遇していました。本来は足利御一家(吉良家・石橋家・渋川家のこと:01238回参照)と斯波家にしか許されないはずの「義」という将軍家の通字を義春に与えたことからも、義春を特別視していたことが窺えます。
ところが義稙が追放されたことで、義春は一気に後ろ盾を失いました。
明応3(1494)年10月。細川義春は突然自らを山城守護と称して、家臣の三好七郎次郎(みよししちろうじろう)を橋寺(京都府宇治市)に派遣し、政務を仕切らせようとしました。恐らく前将軍から「山城守護に任命してやる」と確約されていたのでしょう。しかし、この行為は本来の山城守護である伊勢貞陸との確執を生んだだけで、結局山城国内での政務を開始することはできませんでした。
12月21日。細川義春は失意のうちに死去し、この騒動は終結しました。義春の子・之持(ゆきもち:1486~1512)は未だ幼少でしたが、義春の父・成之が健在で之持の後見を務めることとなりました。いずれにせよ細川讃州家の影響力は大きく低下したといえます。
さて、政元は義澄を将軍に据えるべく工作し、11月24日に義澄は歴代将軍と同様の正五位下・左馬頭に叙任されました。征夷大将軍への任官はまだですが、これにより対外的には義澄が新将軍と認識されました。
ところが義澄の権威は、ほかならぬ政元のせいで大いに傷つくこととなりました。12月20日に予定されていた義澄の元服式で、加冠の役を政元が務めることとなっていたのですが、当日になって政元が
「烏帽子をかぶるのは嫌だ」
と言い出したのです。周囲がいくら説得しても政元は折れず、元服式は延期されました。12月27日にようやく説得に応じた政元は烏帽子をかぶり、元服式に出席しました。
政元がどうでも良いことであえて元服式を延期させることで、自らの影響力を誇示したかったのか、はたまた本当に烏帽子が嫌だったのか分かりませんが、政元の変人ぶりは周囲を大いに困らせたようです。
何となく政元にそんな深謀遠慮があるとは思えず、本当に烏帽子が嫌だっただけのような気がします。