
日本人の物語01712【戦国/東国/長享の乱】岩松家の内紛
このチャプターの初めに、「戦国時代初期は地方トーナメント予選第一回戦のようなもの」と説明しましたが、まさに岩松家の内紛というのはそれに該当しそうですね。
岩松家では、新当主の尚純と家宰の横瀬国繁・成繁父子との間で対立が起こりました。
そもそも尚純が当主になれたのは、横瀬父子が敵陣から決死の覚悟で尚純を連れ戻したからであり、尚純にとって横瀬父子は恩人のはずなのですが、なぜ争うことになったのでしょう。横瀬父子がそれを傘に着て傍若無人に振る舞ったのかもしれません。
横瀬国繁は明応3(1494)年10月に由良(群馬県太田市)に隠居済みだったので、尚純は横瀬成繁を除こうと、明応4(1495)年4月17日、成繁が草津温泉(群馬県草津町)に湯治に出かけた隙をついて挙兵し、横瀬家の拠点・金山城(群馬県太田市)を攻撃しました。「屋裏(おくり)の錯乱」と呼ばれる事件です。
岩松尚純の味方となったのは、足利長尾家、伊丹家、沼尻家、金井家、渋河家、綿打家といった面々でした。つまり上野・下野を拠点とする豪族ほとんどです。
これほどの面々が攻撃に参加したのに、金山城は難攻不落の名城で、半年かけても攻略できません。見かねた古河公方政氏が仲介し、12月18日にこの内紛は和睦をみました。
ところがこの和睦の条件が何とも不思議なものです。
①尚純は引退して佐野荘(栃木県佐野市)に蟄居すること
②尚純の子・昌純(まさずみ:1485~1529)を人質として横瀬成繁に預けること
岩松尚純の全面降伏といってもよい内容です。金山城の戦いの詳細が残っていないので何ともいえませんが、これが受け入れられたということは、つまり横瀬方が大勝利を収めたのでしょう。これ以降、岩松家は家臣の横瀬家に事実上乗っ取られることになります。
岩松家が内紛に揺れていた頃、南関東ではいくつもの戦乱が発生していました。
まず明応4(1495)年8月、伊勢宗瑞が甲斐に侵攻し、山内方の武田信縄を攻撃しました。
明応5(1496)年2月には、山内方についた長尾景英と太田顕資(おおたあきすけ)が扇谷方の拠点である七沢城(神奈川県厚木市)を攻撃しました。なお、太田顕資は道灌の甥に当たります。
そして7月4日には、長尾景春・景英父子の直接対決がありました。山内方の景英が、扇谷方の景春の籠もる小田原城を陥落させたのです。扇谷方は宗瑞の弟・伊勢弥次郎(いせやじろう)が戦死するほどの大敗北を喫したそうですが、翌年に弥次郎の生存が確認できる史料もあり、「弥次郎戦死」は勝利した側の過剰な戦果報告によるものと考えられます。
勝利した景英は、さらに上田正忠(うえだまさただ)が守る扇谷拠点・実田城(さなだじょう:神奈川県平塚市)の攻撃に向かいました。敗北した景春も実田城の救援に向かい、鉢形城の山内顕定もまた参戦したようですが、この戦いがどうなったかは史料がなく不明です。
分からないことだらけで、本稿でもどこまで紹介するべきか迷いながら書いています。