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日本人の物語00319【平安中期】道長の結婚*

     永延元(987)年。藤原道長は源雅信(みなもとのまさのぶ:920~993?)の娘・倫子(みちこ:964~1053)と結婚しました。
     このとき、源雅信は
    「倫子は天皇の妃にしたいと思っているのに」
    と主張し、道長に嫁がせることに反対しましたが、雅信の妻・藤原穆子(ふじわらのあつこ:931~1016)が
    「道長はきっと出世する男です」
    と主張したため、縁談が成立したといいます。妻の方が先を見る目があったということですね。
     そういえば、道長は嫡男の頼通が結婚した際、
    「男は妻がら(めがら)なり。いとやむごとなきあたりに参るべきなめり」
    (男の価値は妻次第で決まるものだ。非常に高貴な家に婿として取られていくのが良いようだ)
    といって喜んだと記録されています。倫子の家柄はそこまで高いわけではありませんが、道長は倫子との結婚によって自身の価値を高めたという実感があったのでしょうか。
     同年。詮子の口利きにより藤原道綱が大納言となりました。藤原実資によると、道綱は「読み書きは自分の名前がやっと」というほどの愚鈍な人物だそうです。そんな人物を大納言にしてしまうほど、詮子の影響力は大きかったということでしょう。それにしても、読み書きすらできない人間に大納言としての仕事が上手くこなせたのでしょうか。
     永祚元(989)年6月26日。関白・藤原頼忠が死去しました。父の後ろ盾を失った皇后遵子は、ますます凋落していきます。
     同年12月9日。藤原兼家の三女・綏子(やすこ:974~1004)が皇太子・居貞親王のもとに入内しました。居貞親王は兼家の孫ながら、どうも兼家を始めとする藤原氏をひどく嫌っていたようで、綏子を試すようなことを言いつけます。
    「私を愛しく思うならば、良いというまでこれを持っていなさい」
    と言って氷を手渡したのです。
     綏子は、手が紫色になるまでこの氷を持ち続けました。居貞親王は
    「かえって興ざめがした」
    と言って綏子を嫌ったといいます。居貞親王は悲劇の天皇として知られており、同情的な評価が多いのですが、この件についてはさすがにひどすぎると思います。

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    道長が住んでいた「土御門第」の跡は、現在の京都御苑の中にある。一見すると、天皇の宮殿の敷地内に道長が住んでいたものと勘違いしてしまいそうだが、現在の京都御苑が天皇の御所となったのは南北朝時代のこと。平安時代当時、天皇はここから西に2.5km離れた場所に住んでいた。2023年12月28日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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