
日本人の物語01738【戦国/西国/京兆専制】少弐氏敗走
気候変動も世界情勢も仕事もプライベートも、不安なことだらけでいろいろと手につかないですね。まあ気候変動や世界情勢は自分の行動で変えられるものではありませんが。
明応5(1496)年11月22日。少弐政資は配下の肥前千葉氏・龍造寺氏とともに、原田興種の高祖城を包囲しました。しかし原田方の家臣・烏田通宗(からすだみちむね)の活躍もあり、城は落ちずに済みました。
高祖城が襲われたとの知らせを聞いた大内義興は、12月に出陣しました。といっても赤間関(山口県下関市)に本陣を布き、自らは本州にいながら九州に5万の軍勢を派遣したのです。このとき大内義興と組んだのが渋川尹繁(しぶかわただしげ:?~1534)という人物でした。
渋川氏といえば足利家の御一家(01238回参照)で、渋川幸子が2代将軍義詮に嫁いだことでその甥の渋川義行が引き上げられ、九州探題に任命されました。それ以降、
・義行
・義行の子の満頼
・満頼の甥の満直(みつなお:1390~1434)
・満直の子の教直
・教直の子の尹繁
と5代に渡って、特段の功績もないのに九州探題を務めてきました。渋川尹繁もまた、
・長享3(1489)年: 少弐政資の子・高経(たかつね:1462~1497)に綾部城(佐賀県みやき町)を攻撃され、犬塚城(福岡県久留米市)に逃亡。
・延徳3(1491)年: 大友政親に犬塚城を攻撃され、勝尾城(佐賀県鳥栖市)に逃亡。
といった具合で、少弐・大友にやられてばかりです。
とはいえ、渋川尹繁はほかならぬ足利御一家というビッグネームですから、大内義興にとっては利用価値のある相手でした。義興は「九州探題・渋川尹繁を援助する」との大義名分を得て、明応6(1497)年3月15日、渋川軍とともに大宰府の少弐政資と戦いました。
少弐政資にとって頼みの綱は対馬の宗貞国でしたが、宗貞国は以前、気乗りしない「土一揆合戦」に参加させられ少弐政資と険悪になっており(01572回参照)、今回は参戦してくれませんでした。
宗貞国の援助なしに大内・渋川と戦わざるを得なかった少弐方は大敗し、大宰府からの撤退を余儀なくされました。少弐父子の逃亡先は
・政資が岩門城(福岡県那珂川市)
・高経が勝尾城(佐賀県鳥栖市)
でした。
ここから少弐は追い詰められていきます。
少弍氏の歴史だけを追いかけると面白そうです。当主の戦死が多すぎて悲劇的な一族として知られています。