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日本人の物語00890【建武期】神器は何セットあったか

     後醍醐天皇が誰かに譲位すると称して三種の神器を引き渡したことは、通算で3回あります。
    【1回目: 元弘元/元徳3(1331)年10月6日】
     後醍醐天皇は、鎌倉幕府に捕らわれ、光厳天皇への譲位を迫られた際に三種の神器を引き渡しています(00750回参照)。しかし元弘3/正慶2(1333)年5月25日に、あのとき引き渡した神器は偽物だったとして、
    「量仁(光厳天皇)の即位は無効である」
    と主張し始めました。
    【2回目: 延元元/建武3(1336)年10月9日】
     足利方に京を追われ、比叡山に逃亡した後醍醐天皇は、新田義貞への相談なく足利方との和睦を決めてしまいます。義貞に
    「我々を見捨てるのか」
    と迫られ、
    「では恒良に譲位する。義貞には恒良を付けよう」
    と言って、神器を恒良に引き渡しました。
    【3回目: 延元元/建武3(1336)年10月10日】
     その翌日、今度は足利直義から光明天皇への譲位を迫られ、またまた神器を引き渡しました。
     以上のとおり、後醍醐天皇は3度に渡って神器を引き渡しているわけです。
     少し先の話をしてしまうと、後醍醐天皇はこの後、12月21日に
    「三種の神器の本物は今も私が持っている」
    と宣言します。つまり、恒良に渡したものも、光明天皇に渡したものも、いずれも偽物だったというのです。ずいぶん偽物をたくさん用意していたものですね。
     足利方の光明天皇を騙すために偽物の神器を渡すのは、まだ理解できます。しかし、息子の恒良親王にまで偽物の神器を渡して騙すのは、全く理解できません。結局、後醍醐天皇は生涯退位するつもりはなく、天皇位にしがみつくためには尊氏のみならず味方である義貞や息子をも平気で騙す、そういう人間だったとしか解釈のしようがありません。
     越前に落ち延びた恒良親王が発出した「綸旨」(天皇の命令書)が現存しているので、どうやら恒良親王は騙されたことに気づいておらず、自らを天皇だと考えていたようです。南北朝時代とは「天皇が2人いた時代」と考えられていますが、厳密には、後醍醐天皇が自らの保身を図るために犠牲となった哀れな恒良親王を含め、天皇が3人いた時期もあったのです。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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