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日本人の物語00312【平安中期】蜻蛉日記 不躾な出会い

     さて、藤原兼家には妻が9人いました。中でも特に有名なのは藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは:936?~995)ですね。蜻蛉日記の作者として知られています。
     そもそもなぜ『蜻蛉日記』というタイトルがついているのかというと、日記の第67段にこんな記述があるからです。
    「かく年月は積もれど、思ふようにもあらぬ身をし嘆けば、声あらたまるも喜ばしからず、なほ、ものはかなきを思へば、あるかなきかの心地するかげろふの日記といふべし」
    (こうして年月が過ぎていったけれど、思い通りにならないわが身を嘆いているので、新年を迎えても喜ぶ気もしない。相変わらずはかない身の上を思うと、あるかないかも分からない、かげろうのような日記とでも言うべきだろうか)
     ここでは、蜻蛉(かげろう)ははかないものの例示として使われており、道綱母は自分の身の上を蜻蛉に例えているのです。
     蜻蛉日記は、タイトルからも分かるように、道綱母がひどく荒んだ気持ちで書きつづった日記で、途中「死にたい」という記述が20回以上出てきます。
     なぜそんなに心が荒れていたのかというと、夫である兼家が全く家に来てくれず、他の女に目移りばかりしていたからです。
     せっかくの機会なので、ここから数回に分けて、藤原道綱母の生涯を紹介していきましょう。
     藤原道綱母は、承平5(935)年頃、藤原倫寧(ふじわらのともやす:?~977)の娘として生まれました。本名は「藤原○子」といった名前だと考えられますが、分かっていません。本朝三美人の一人とされ、和歌の腕前も三十六歌仙の一人に数えられるほどですから、いわゆる才色兼備ということでしょう。
     夫・兼家との出会いは天暦8(954)年。19歳の頃でした。当時兼家は26歳です。藤原家の嫡流であり、出世間違いなしの青年貴族です。大した家柄でもない道綱母にとっては玉の輿ということになるわけですが、
    「使者が馬にまたがったまま、門をどんどんと叩く」
    という些か不躾な訪問に、倫寧一家はひどく戸惑ったようです。兼家からの手紙もとても求婚向けのしゃれたものではなく、筆跡もひどかったとのことです。
     貴族が求婚する際には、念入りに選んだ美しい紙に優雅な筆跡で書かれた手紙を、使者がそっと忍び込むように届けるのが本来のあり方です。
     出会いの場面から、兼家と道綱母には行き違いがあったといえます。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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