
日本人の物語01705【戦国/東国/長享の乱】伊勢宗瑞の善政
だんだん難易度が上がってきて、「庶兄」という言葉を解説なしで使うようになってしまいましたが、ご存じでしょうか。「庶子」というのが身分の低い側室の産んだ子のことで、「庶兄」とは庶子である兄のことです。
伊勢盛時が堀越公方を襲撃した明応2(1493)年10月11日は、京で「明応の政変」が起こり、管領細川政元が10代将軍足利義材を追放して11代将軍に義澄(清晃)を内定させてから半年が経過した頃です。
思い出していただきたいのですが、前公方・足利政知には3人の男子がいたのでしたね。長男茶々丸は庶子であり、次男義澄と三男潤童子が正室・円満院の産んだ子でした。その茶々丸は円満院と潤童子を殺害してクーデターを起こし、堀越御所を乗っ取ったのでした。
つまり新将軍に内定した義澄にとって、茶々丸は母と同母弟を殺した許すべからざる庶兄であり、放置しておくことはできません。ちょうど伊豆の隣国である駿河国に、最近まで将軍申次衆を務めていた伊勢盛時がいるのですから、盛時に茶々丸討伐を命じたとしても不思議ではありません。
というわけで、近年は伊勢盛時による堀越公方襲撃は、自身の考えではなく新将軍義澄に命じられたものだったとする説が有力なのです。
茶々丸の逃亡先は甲斐武田家との説もありますが、遅くとも明応4(1495)年までには伊豆七島のいずれかの島(恐らく伊豆大島)へ逃亡したことが分かっています。茶々丸が同盟相手であった山内上杉顕定に庇護を求めたため、おのずから盛時は山内家と敵対することとなり、「敵の敵は味方」の論理から扇谷家と手を結ぶことになりました。
盛時が出家して「宗瑞」と名乗り始めたのはこの頃です。宗瑞は伊豆国内で
「敵対する意思のない者の所領は安堵する」
と発表し、それどころか茶々丸の領地のほとんどを自らの家臣ではなく伊豆の国人衆に分け与えたため、国人衆は次々と宗瑞方に寝返り、茶々丸はますます追い詰められていきました。
さらに当時、伊豆国内では風疾(感冒のことと思われる)が流行っていましたが、宗瑞は家臣500人に命じて病人の看護をさせました。こうした統治が評価され、「伊豆二十一家」と呼ばれる伊豆の国人衆は全て宗瑞の味方となりました。
宗瑞は農民も味方につけました。『北条記』には
「年貢を二つ減免して五公五民から四公六民にした」
と意味不明な記述があります。五公五民から二つ減免したら三公七民だと思うので、「二つ」は「一つ」の誤記と思われます。
このとおり、宗瑞は領民思いの良き国主だったといいます。もちろん創作や誇張が含まれているでしょうが、子の氏綱の時代の史料をみると本当に「四公六民」になっており、他国の相場に比べて年貢が安いのです。宗瑞が領民の負担を減らしたこと自体は事実と考えられます。
後北条氏は領民からの評判がすこぶる良いです。秀吉に早い段階で臣従していれば、大きな大名家として江戸時代を過ごしたでしょうね。