
日本人の物語01709【戦国/東国/長享の乱】扇谷上杉定正横死
扇谷上杉定正の死に方が不審過ぎますが、特に何らかの陰謀だという説は見当たりませんでした。
山内との対決を前に、大森氏頼らの有力家臣を失った扇谷上杉定正はやきもきしていたはずです。そこに頼みの伊勢宗瑞がようやくやって来ました。
明応3(1494)年9月28日。宗瑞は久米川(東京都東村山市)の陣にいた定正を訪問し、支援する旨を表明しました。定正と宗瑞はこれが初対面でしたが、山内を倒したい定正と茶々丸を倒したい宗瑞とで利害が一致したわけです。
10月2日。定正と宗瑞は、鉢形城まで退却した山内上杉顕定を追って高見(埼玉県小川町)へと進出しました。不利を悟った顕定は鉢形城を捨て、荒川北側の藤田(埼玉県寄居町)に布陣します。
荒川を挟んで山内・扇谷両軍が対峙しました。いよいよ大将同士の対決です。
ところがこの戦いは何とも意外な結果に終わりました。10月5日に荒川を渡河して山内軍に攻めかかろうとした扇谷上杉定正は、なんと渡河中に落馬して死去してしまったのです。大将を失っては戦はままならず、扇谷軍は河越城まで撤退を余儀なくされました。
三浦・大森という有力家臣を失った上に、勝てそうな戦の最中に当主が落馬死とは、もはや扇谷家は呪われているとしか思えません。世間では「道灌の亡霊の仕業ではないか」などと噂されたそうです。
扇谷家の家督は、定正の甥にして養子の朝良(ともよし:1473?~1518)が継ぎました。しかしこの朝良はどうも頼りない人物だったようです。事実、定正が延徳元(1489)年3月2日付けで江戸城代・曽我豊後守に対して送ったこんな書状が残っています。
「武士の学問と文学は、兵法の七書をよく読んで合戦に役立てることである。また論語をよく読んで孝行を尽くすことである。それなのに朝良が和歌や連歌や能に興じているとは言語道断である。まるで錦を着て夜歩き、坊主が櫛を持っているようなものだ」
つまり朝良は武芸を忘れて文学や芸能にばかりうつつを抜かしているというのです。まさしく道灌が言い残した「当方滅亡(扇谷家は滅びるぞ)」という警句のとおり、危機が迫っているといえます。
もう一つ気になるのは伊勢宗瑞の動向です。宗瑞は今のところ扇谷家を支援する旨表明していますが、単に茶々丸討伐という目的が一致したから連携しているだけです。自身の権益獲得にしか興味がなさそうな宗瑞は、いつ扇谷家を裏切るか分かったものではありません。今回扇谷家の応援に現れたのも、いつか敵対するときのための敵情視察のつもりかもしれません。
武士が和歌や連歌や能に興じるのは、考え方によっては公家とのパイプをつなぎやすくなるわけですから、大変良いことなのですが、関東では公家とのパイプなど無意味なのかもしれませんね。