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日本人の物語01720【戦国/東国/長享の乱】両上杉和睦

    長享の乱、終結です。最後まで地味な戦いでしたね。

     上戸の戦いで大敗を喫した長尾能景は、その翌日にさっそく反撃を開始します。永正元(1504)年11月2日、長尾能景は長井広直(ながいひろなお)の守る椚田城(くぬぎだじょう:東京都八王子市)をあっという間に陥落させました。ちなみに長井広直の椚田城はこの年の3月までは山内方でしたが、立河原の戦いを機に扇谷方に寝返ったものとみられます。
     敗北した扇谷上杉朝良は、反撃しようとその日のうちに山内方の上戸城を攻めましたが、百名近い死者を出し敗北しました。
     武蔵国内の敵を打ち払った長尾能景は、続いて相模へと進出していきます。11月26日には扇谷方の上田正忠が守る実田城(神奈川県平塚市)を陥落させ、城主・正忠を生け捕ることに成功しました。
     扇谷上杉朝良の本拠である河越城は敵中で完全に孤立しました。永正2(1505)年1月。山内上杉顕定は河越城を取り囲みます。扇谷家が頼りにしていた伊勢宗瑞・今川氏親はともに領国に帰国中ですし、宗瑞が出陣しようにも実田城が立ちはだかっており、氏親が出陣しようにも甲斐武田氏が立ちはだかっています。
     3月7日に山内方による河越城への総攻撃が行われ、さすがに耐えきれなかった扇谷上杉朝良は遂に降伏しました。この降伏は扇谷側の名誉を守るべく「和睦」という名目で行われたようですが、事実上の降伏だったと考えられます。
     こうして19年間に渡った長享の乱は終結しました。敗軍の将・朝良の身柄は須賀谷(埼玉県嵐山町)に移されることとなりました。
     紛争の主役であった人物も次々と死去していきます。この年の8月19日には景春とつるんで古河公方と争っていた千葉孝胤が死去し、9月16日には甲斐武田家の内訌の主役であった武田信昌が死去しました。
     甲斐武田家といえば、武田信昌・信恵父子VS武田信縄で対立していたのでしたね。その信昌が死去した上、もう一方の主役である信縄もこの時点で既に病床に臥していました。
     こうして古河公方・山内上杉・扇谷上杉が争っていない状況が、享徳の乱勃発以来、実に50年ぶりに到来しました。今度こそ関東に平和がもたらされそうで、期待が持てます。
     しかし戦の火種はすぐそこにありました。古河公方政氏は息子の高基と揉めていましたし(後述)、越後上杉家では当主の房能が明応7(1498)年頃に「守護不入の権を撤廃し、今後は全ての土地を自ら支配する」と言い出したことで、国人衆を刺激していました。
     この二つの火種が間もなく火を噴くことになります。次章からはその二つの戦乱「永正の乱」を取り上げることとなります。

    19年も戦っていたわけで、応仁の乱の2倍弱の期間なのですが、それにしても無名な戦いですね。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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