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日本人の物語00573【鎌倉前期】大姫入内工作 失敗

     建久6(1195)年3月29日以降、頼朝はこの丹後局と土御門通親の二人を相手に大姫入内をしきりに工作しますが、丹後局は脈があるふりをして対応しつつ、
    「長講堂領を我が子の覲子の保有としたところ、公家の中にこれに反発する者たちがいて困っている。どうか味方になってほしい」
    などと交渉を始め、これを頼朝に認めさせました。国内最大の武力を持つ頼朝を味方に引き入れることで、敵勢力を黙らせようというわけです。頼朝はやすやすとこれにかかってしまいます。
     しかし丹後局は自分の要求を通しておきながら、肝心の大姫入内についてはのらりくらりと引き延ばし、明確な回答を避け続けました。頼朝は時間のかかる交渉になると判断し、一旦鎌倉に戻ります。
     実は、後鳥羽天皇の側室としては前述のとおり九条兼実の娘・任子が入内していましたが、土御門通親もまた対抗意識をもって、妻・範子の連れ子である在子(ありこ:1171~1257)を後宮に入れていました。
     つまり、九条兼実と土御門通親、どちらの娘が早く子を産むかの競争の真っ最中だったわけです。そこに頼朝が娘を嫁がせたいとやって来ても、通親としてはライバルを増やしたいわけがありません。
     通親も、そして通親と結びついた丹後局も、大姫入内を真剣に検討するつもりはなかったのでしょう。
     そして、先取りして結果を説明してしまうと、2年後の建久8(1197)年7月14日、大姫は病が悪化し、19歳の若さで死去してしまいます。大姫入内工作は結局陽の目を見ることなく終わったのです。
     物の本では、よく
    「清盛が皇室に接近することで権力を手にしたのに対し、頼朝は距離を置いた」
    と対照的に説明されることが多いのですが、これまで述べてきたとおり、実は頼朝も清盛と同様に皇室と外戚関係を築こうとしていたのです。この工作は、おそらく御家人たちには評判が悪かったでしょうし、結局は土御門通親の台頭を意図せず助ける結果となりました。
     後に頼朝は九条兼実に
    「よろづの事、存の外に候」(全てうまくいかなかった)
    と語っています。九条兼実と縁を切って土御門通親に乗り換えたことを、きっと後悔していたのでしょう。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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