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日本人の物語00203【飛鳥】43代元明天皇*

     さて、大宝3(703)年12月22日に偉大なる女帝・持統上皇は崩御しました。58歳でした。
     持統天皇といえば、自分の子を天皇に就けるため、謀反の罪を着せるという悪辣な方法で政敵を葬ったことから、すこぶる評判の悪い人物ではありますが、本格的な法令の制定、行政機関の設置、公式歴史書の編纂、戸籍の作成、税制の構築、首都機能を持った都市の建設……と、一流国家を目指すために必要な政策は何なのかを見極め、矢継ぎ早に指示を出し、大きな成果を上げた偉大な為政者でありました。
     また、天智天皇のような外交関係での失敗もなく、大きな反乱を惹起(じゃっき)することもなかったわけですから、まさに父・天智天皇を超えて日本古代史上最高の政治家であったと評価できるでしょう。
     不運だったのは、子の草壁皇子が短命だったことでしょう。持統天皇は、草壁皇子のために政敵を排除したにもかかわらず、その草壁皇子を皇位につけることができませんでした。その教訓から学び、今度は「天皇を退いて上皇という称号を作る」という奇策でもって、14歳の孫を皇位につけました。平安時代にみられる「院政」というシステムを先取りしたアイデアでした。
     さて、持統上皇の死から3年半後、慶雲4(707)年6月15日には文武天皇が崩御しました。草壁皇子も短命でしたが、その子である文武天皇もまた24歳で死んでしまったのです。
     残された首皇子はまだ6歳でした。すぐに即位させられる年齢ではないので、中継ぎが必要となります。そこで文武天皇の母である阿閇皇女が即位することを決意しました。
     どこかで聞いたような話ですね。「息子が早くして死に、孫はまだ幼いため、祖母が自ら即位して間をつなぐ」というのは、持統天皇の即位の経緯と全く同じです。
     7月17日。阿閇皇女は即位しました。元明天皇です。大変珍しい、子から母への皇位継承です。日本史上これが唯一の例です。
     慶雲5(708)年1月11日。武蔵国秩父郡から銅が献上され、元号を「和銅」と改めました。この銅を使って、8月10日、「和同開珎(わどうかいほう又はわどうかいちん)」と称する銅貨が発行されました。唐のような一流国に追いつくべく、必死に頭をひねっていたのでしょう。しかし、市場経済がまだ十分に発達しておらず、せっかく製造した通貨は、なかなか流通しませんでした。
     持統上皇がいなくなるや否や、さっそく政策的失敗を仕出かしているとは興味深いですね。
     さて、元明天皇は和銅3(710)年3月10日に平城京を遷都し、飛鳥時代が終わって奈良時代が始まることとなります。

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    天武・持統天皇陵。夫婦で仲良く同じ墓に入るとは、この時代としては珍しい。2026年5月5日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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