
日本人の物語01700【戦国/東国/長享の乱】伊豆クーデター
古河公方の存在感は徐々に埋没していきます。古河公方は歴代5人いるのですが、高校日本史の教科書に載っているのは初代の成氏だけです。
延徳2(1490)年4月には成氏の名の公式文書が消滅するので、この頃から成氏の子・政氏(まさうじ:1462~1531)が2代目の古河公方に就任したものとみられます。成氏は中風を患っていたせいで執務を執れなかったらしく、この7年後に死去します。
成氏の病が影響したかどうか分かりませんが、この年の12月に山内と扇谷は和睦し、長享の乱は一旦終結しました。といってもまたすぐに再開するのですが。
さて、延徳3(1491)年4月3日に堀越公方・足利政知が死去したことで、時ならぬ政争が起こります。
前述のとおり、政知には長男茶々丸、次男清晃(後の11代将軍義澄)、三男潤童子という3人の子がいましたが、長男茶々丸は素行不良のため座敷牢に入れられ、三男潤童子が堀越公方を継ぐことが期待されていました。一説によると、次男・三男を産んだ円満院(えんまんいん:?~1491)が、自分の産んだ子を後継者に据えるべく、血のつながりのない茶々丸を讒言により失脚させたともいわれています。
政知の死後、円満院はまだ幼い潤童子を支えて堀越公方家を治めていました。ところが7月1日、茶々丸が牢を破ってクーデターを起こし、円満院と潤童子を殺害してしまいます。
このニュースは京にいる清晃を驚かせたことでしょう。母と同母弟を殺された清晃は、異母兄・茶々丸への怒りを募らせます。
一方、もう一人このニュースに衝撃を受けたのが伊勢盛時です。盛時は駿河のクーデターに協力した後、一旦京に戻ってきていましたが、伊豆クーデターを見て矢も楯もたまらず8月27日に駿河に再度下向しました。
というのも茶々丸は、小鹿方が頼みにしていた故・犬懸上杉政憲と良好な関係を結んでいたため、小鹿が滅ぼされた駿河クーデターを快く思っていないのです。ともすれば駿河の龍王丸政権を認めず、小鹿方に味方して攻め込んでくる可能性があります。盛時はやられる前に茶々丸を討っておきたいと考えました。
そんな中、甲斐守護の武田家で時ならぬ父子抗争が起こります。甲斐守護・武田信昌は長男の信縄(のぶつな:1471~1507)に家督を譲った後、落合(山梨県山梨市)に隠居していましたが、次男の信恵(のぶよし:?~1508)を可愛がり当主をすげ替えようとしました。信昌と信縄は対立し、延徳4(1492)年7月22日に市河(山梨県市川三郷町)で武力衝突を起こしました。これを市河合戦と称します。
兄・信縄は山内上杉家や茶々丸と連携し、一方で弟・信恵は武田家の分家筋である穴山信懸(あなやまのぶとお:?~1513)と連携しました。そして穴山信懸は、茶々丸と対立している伊勢盛時に援軍を要請してきました。
茶々丸を討つ大義名分を欲しがっていた盛時は、9月9日にその要請に応じました。いよいよ盛時と茶々丸の直接対決が近づいています。
足利茶々丸は、戦国シミュレーションゲームの中ではかなり弱いらしく、ゲームが始まってすぐにやられてしまうそうです。