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日本人の物語00237【奈良】蝦夷征討 懐柔策の失敗

     「9月以降に征討する」という話になったものの、大伴益立はちっとも行動を起こそうとしません。業を煮やした朝廷は、宝亀11(780)年9月23日、藤原継縄の後任として、参議であった藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)を征東大使に任命しました。さらに、成果を出さない大伴益立を征東副使から更迭しました。朝廷はかなり怒っていたようで、後に大伴益立の従四位下も剥奪しています。
     しかし、藤原小黒麻呂もまた、征討に対してひどく消極的でした。10月22日には
    「今年は征討すべからず」
    と奏上し、光仁天皇にひどく叱責されました。
     天皇の叱責により、小黒麻呂もさすがに動かなければまずいと思ったらしく、12月10日には2000人の兵を動員して、
    「鷲座・楯座・石沢・大菅屋・柳沢等の五道を塞ぎ、賊の要害を遮断しました」
    と報告しています。
     しかし、これって本当に戦ったのでしょうか。道を塞いだだけで戦闘は行っていないのかもしれません。そうだとしたら、上手い報告です。
     結局、藤原小黒麻呂率いる朝廷軍は、何らの成果を上げることはありませんでした。
     年が明け、元日となりました。この年は「辛酉(しんゆう)の年」にあたり、かつ元日が辛酉の日でした。辛酉とは中国の易姓革命思想において革命が起こる年と考えられていることから、光仁天皇は元日に改元を行い、天応元(781)年となりました。日本史上唯一の、元日に行われた改元です。
     この改元の詔において、光仁天皇は実に異例の発表をします。
    「伊治呰麻呂らのために道を誤って離反した百姓が、反乱軍から離脱して戻ってくるならば、三年間、税を免除する」
    というのです。
     反乱に加わっていたのは、蝦夷に住む農民たちでした。税を免除することで彼らを懐柔し、反乱を鎮めようとしたのです。しかしながら、この捨て身の政策もまた効果を上げられませんでした。伊治呰麻呂がその後どうなったかは、明らかではありません。討伐されたとの情報がありませんから、まもなく病没したものと思われます。
     このとき光仁天皇は71歳。かなりの高齢です。辛酉の年でもあり、年内には皇太子に譲位しようと決意していたのでしょう。光仁天皇の在位中には片付けられなかった蝦夷の大規模反乱事件の鎮圧は、次代の桓武天皇に託されることとなったのです。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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