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日本人の物語00156【古墳】任那滅亡

     仏教受容問題をめぐって蘇我氏と物部氏が争ったわけですが、さらにその後外交問題が持ち上がります。
     欽明天皇9(548)年。高句麗が百済に侵攻しました。百済は新羅に応援を要請し、新羅の活躍で高句麗を撃退することができました。
     しかし、百済は新羅に頼ったことで、高いツケを払わされることとなります。新羅が恩着せがましく百済に迫り、領土を一部もらい受けようとしてきたのです。百済がこれを拒否したため、百済と新羅の戦闘が始まりました。
     百済は苦戦し、倭国に援軍を要請します。倭国が応援を出したことによって百済は勢いを盛り返したものの、554年、新羅が送り込んだ刺客によって百済の聖明王が謀殺されてしまいます。聖明王といえば、欽明天皇に仏像を送ってきた人物でしたね。
     朝鮮半島で戦乱が続く中、欽明天皇23(562)年1月、新羅が任那を滅ぼします。任那は朝鮮半島南部に位置する倭国の拠点であり、ここを滅ぼされたということは、朝鮮半島に対して倭国が影響力を行使できなくなったことを意味します。
     倭国は任那を回復するべく、7月に朝鮮半島に紀男麻呂(きのおまろ)を大将軍、河辺瓊缶(かわべのにへ)を副将軍とする新羅討伐軍を派遣します。この紀男麻呂の指揮によって、倭国軍は勝利を収めました。
     ところが、副将軍の河辺瓊缶はひどく愚かな人物でした。敵が白旗を掲げたのに、河辺瓊缶はその意味が分からず、
    「敵軍が旗を掲げて勢いを盛り上げようとしているぞ。こちらも同じようにしよう」
    と言って、自軍にも白旗を掲げるよう指示したのです。
     これを見た新羅軍は、
    「倭国軍が白旗を掲げているぞ。当方が優勢だぞ」
    と言って、勢いを盛り返してしまいました。愚か過ぎますね。
     勢いに乗った新羅軍は倭国軍を撃破し、河辺瓊缶とその妻の甘美姫(うましひめ)を捕らえました。なぜ戦場に妻を連れて来ていたのでしょうか。これまた愚かです。
     新羅軍が
    「命と妻のどちらが惜しいか」
    と尋ねると、河辺瓊缶はなんと
    「命に決まっている」
    と答え、妻を敵に差し出して命乞いをしました。ひどい副将軍があったものです。新羅の将は、河辺瓊缶の見ている前で妻を犯したといいます。
     朝鮮半島に派兵した倭国軍が敗北を喫する中、欽明天皇32(571)年4月15日、欽明天皇は崩御しました。死に際に「任那を回復せよ」と遺言したと伝えられています。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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