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日本人の物語01724【戦国/西国/京兆専制】京兆専制概観

    新章突入です。ここでの主人公は変人過ぎる管領、細川政元です。

     本章は、明応の政変で将軍の首をすげ替えた細川政元が専横を振るった時代です。この頃は将軍が力を失い、細川京兆家の政元が将軍を超える権力を手にしたことから「京兆専制」と呼ばれています。
     そもそも「京兆(けいちょう)」とは右京大夫又は左京大夫という役職の中国での呼び名であり、細川家の当主は代々右京大夫を務める慣例があったので「細川京兆家」と呼ぶのです。
     その京兆家の当主・細川政元は前述のとおり、10代将軍足利義材を廃して11代将軍足利義澄(清晃)を擁立しました。将軍擁立の経緯からみても政元が義澄を超える権力を持っているのは明らかで、同時代の人々も「半分将軍みたいなものだ」という意味で政元を「半将軍」などと呼んでいました。
     その政元があまりにも変人であり、数々の伝説があることは既に述べたとおりです。
     「京兆専制」といっても、決して政元が全てを思い通りにできるほど独裁者として君臨したわけではありません。というのも、細川家には政元以外にも多くの実力者がいるのです。ここでは細川家の中で特に重要な4つの家をまとめて紹介しておきましょう。
    ①宗家に当たる「京兆家」
     細川家の本家はここです。細川勝元・政元父子などが当主でした。
    ②右馬頭・右馬助を名乗る「典厩家(てんきゅうけ)」
     細川満元の三男持賢を祖とする家で、持賢、政国、政賢と続きます。右馬頭・右馬助の唐名が「典厩」なので「典厩家」と呼ばれます。守護として領国を保有することはなく、重臣たちを束ねる役割を果たしていました。
    ③下野守を名乗る「野州家(やしゅうけ)」
     細川満元の弟満国(みつくに)を祖とする家で、持春、教春、政春、晴国と続きました。持春と教春が2代にわたって下野守を名乗ったため「野州家」の名が定着しました。
    ④阿波守護を務める「讃州家(さんしゅうけ)」
     細川頼春以来、頼之、義之(よしゆき:1363~1422)、満久、持常、成之、義春と代々阿波守護を務めてきました。阿波(徳島県)を治めているのに朝廷官職は讃岐守(香川県)であり、「讃州家」と称されます。
     これらの中で京兆家の次に重要なのは讃州家です。当時、讃州家では成之が当主の座を子の義春に譲ったものの、未だに実権を握っていました。そして成之は京兆家に取って代わり幕府を動かすことを虎視眈々と狙っていたのです。
     政元は権勢を誇ったものの、そのあまりに個性的な性格のため家臣たちの支持を失っていきます。そんな中、成之が主家乗っ取りの工作を始め、政元は悲劇的な最期を遂げる運命にあります。

    細川家をいっぱい紹介しましたが、この時代はどこを見ても細川だらけで頭が痛くなってきます。まあ平安中期の藤原ほどではありませんが。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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