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日本人の物語00459【平安末期】怪僧文覚 袈裟御前の最期*

     さて、流人として穏やかに過ごしていた頼朝でしたが、運命は彼を歴史の表舞台に引きずり出していきます。
     治承4(1180)年4月27日。山伏の恰好をして東国を行脚していた源行家が、頼朝のもとを訪れ、以仁王の令旨を届けました。まだ以仁王が戦死する前の出来事です。
     頼朝がこれを大歓迎で迎えたのか、半信半疑で受け取ったのか、このときの頼朝の思いを伝える文献は残っていませんが、猜疑心の強い頼朝のことですから、
    「これは罠かもしれない……」
    とかなり慎重な態度で受け取ったであろうことは想像に難くありません。
     さて、平家物語によると、頼朝に平家打倒を決意させたのは、この行家の持参した以仁王の令旨ではなく、文覚(もんがく:1139~1203)という僧侶であったといいます。
     文覚のプロフィールを見ていきましょう。
     出家前の文覚は、遠藤盛遠(えんどうもりとお)と名乗る武士で、後白河上皇に仕えていました。
     保元2(1157)年、遠藤盛遠は袈裟御前(けさごぜん:?~1157)という女性に恋をします。しかし、袈裟御前は渡辺渡(わたなべわたる)という男の妻でした。それでも盛遠はしつこく袈裟御前に言い寄り、遂には
    「お前の夫を殺すから、俺と一緒になってくれ」
    とまで迫るようになります。この圧に押された袈裟御前は、やむなくこれに応じ、
    「夫の寝床はここですから、就寝中を襲ってください」
    と詳細に手引きをしました。
     真夜中、盛遠は袈裟御前に言われた通りに館に忍び込み、寝床を襲い、刃を立てました。声もなく死んだその顔を見てみると、なんと自分が殺したのは袈裟御前その人でした。袈裟御前は自ら死ぬつもりで、盛遠に自分と夫の寝床を逆にして教えていたのです。袈裟御前は自らの命を捨ててまで夫に操を立てたのでした。
     自分で書いていて何ですが、このエピソードがどうも理解できません。真に夫を思うのであれば、危険な男に狙われていることを相談して庇護を受ければよいと思うのですが。当時の美学というのは現代人には計り知れないものがありますね。
     このことを恥じた盛遠は、すぐさま出家して「文覚」と名乗るようになりました。
     しかし暴れん坊の盛遠は、出家後も次々と問題を起こします。

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    鎌倉の文覚上人屋敷跡。鶴岡八幡宮からそう遠くなく、そこそこ良い場所をもらっているので、幕府内でも重視されていたようだ。2022年9月18日撮影。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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