
日本人の物語01740【戦国/西国/京兆専制】政元の権力
整体に通っているのですが、施術してくれる人の当たり外れが大きいですね。やはり指名しなきゃダメなのか。
さて、本筋である前将軍義稙と現将軍義澄の対立の件に話を戻しましょう。
明応6(1497)年には、越中で再起を図る義稙の周辺で、政元と和平するか、徹底抗戦するかで議論が伯仲していました。それぞれの支持者は次のとおりです。
和平論: 神保長誠・吉見義隆(よしみよしたか)
徹底抗戦論: 種村視久(たねむらみひさ)
両者は激論を戦わせ、種村などは義稙に
「もし(政元と和平して)上洛されるならば、私は遁世いたします」
と発言するほど和睦に反対していましたが、当てにしていた大内氏の協力が得られないと分かり、和平派が勝利して和平工作が始まりました。
一方、京の義澄方でも和睦すべきかどうかの議論が進んでいました。細川政元は和平に乗り気でしたが、典厩家の細川政賢(ほそかわまさかた:?~1511)が反対したことで頓挫しました。政元は将軍の首をすげ替えるほどの実力者なのに、まだまだ細川一門をまとめきれていないようです。
かつて歴史家たちは「京兆専制」といって政元を専制的な権力者と位置付けていたものの、最近の研究で政元の権力はまだまだ限定的だったことが分かってきました。例えば政元は10月に山城下五郡の守護代として家臣・香西元長(こうざいもとなが:?~1507)を派遣したものの、その元長は翌明応7(1498)年5月に別の細川家臣・安富元家と対立して失脚し、守護代を解任されています。安富元家といえば讃岐の反乱に対処したときも主君・政元と対立しており、なかなか言うことを聞かないようです。
さて、細川政元の主たる領国は摂津ですが、その隣国である河内では畠山が相変わらず内紛を続けており、政元を悩ませていました。対立していたのは
・畠山政長の子:尚順(前将軍義稙方)
・畠山義就の子:義豊(現将軍義澄方)
の勢力です。
明応6(1497)年10月に尚順が義豊の高屋城(大阪府羽曳野市)を奪還し、敗れた義豊は翌11月に大和川を下って逃亡していきました。
越中にいた前将軍義稙は、この勢いに乗って京を奪回しようと息巻きますが、肝心の神保長誠が乗ってきません。思い余った義稙は、明応7(1498)年9月、朝倉貞景を頼って越中から越前へと出奔してしまいました。随伴したのは僅か13名だったといいます。
長らく見合っているだけでなかなか戦わずにいた現将軍と前将軍が、いよいよぶつかることになりそうです。
2023年に富山県射水市の博物館で足利義稙の特集展示をやっていたらしく、行きたかったなあと残念に思っております。まあまたやってくれるでしょう。