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日本人の物語01719【戦国/東国/長享の乱】上戸の戦い

    今川氏親は果たして叔父・伊勢宗瑞のことを好きだったのか嫌いだったのか、意見が分かれるところです。頼りにしていたのでしょうか。はたまた強引過ぎてちょっと引いていたのでしょうか。

     立河原の戦いは扇谷方の大勝利に終わり、山内は鉢形城に、扇谷は河越城にそれぞれ撤退していきました。
     戦を終えた今川氏親は、すぐに駿府に帰国するのではなく、永正元(1504)年10月4日、宗瑞とともに鎌倉に入りました。その後、湯治のため熱海に17日間も滞在し、さらにその後は宗瑞の居城・韮山城(静岡県伊豆の国市)に数日滞在しています。叔父との交流を深めたかったのでしょう。
     10月25日に氏親は、宗瑞が崇敬する三島神社(静岡県三島市)に立ち寄り、連歌千句を詠んで奉納しました。初句の「たなびくや 千里も爰(ここ)の 春霞」までを氏親が詠み、同行していた連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう:1448~1532)が「ほかもたづねし 梅にほふかげ」などの続きの句を詠みました。さすが公家文化を専門的に学んできた氏親です。ちなみにこの連歌師・宗長は享禄4(1531)年11月25日にも今川氏親の子・氏輝に連歌会に招かれており、父子2代に渡って今川家に愛されたようです。
     以上のとおり、氏親は宗瑞との旅を存分に楽しんでから駿府に帰国しました。その後も後北条家と今川家の蜜月関係はしばらく続きます。(息子たちの代になって争うようになりますが、それはまだ先の話です。)
     さて、ここで上杉家の動向について復習しておきますと、
    ・上杉家は主に山内・扇谷・越後の3家に分かれていた
    ・山内VS扇谷の戦争が始まった(長享の乱)
    ・山内上杉と越後上杉の当主は兄弟なので、越後上杉は山内上杉の味方をした
    という状況です。
     越後上杉は本拠地が遠いこともあって、これまでさほど参戦できていませんでしたが、立河原の戦いに敗北した山内上杉顕定は、実弟の越後上杉房能に援軍を求めました。房能はこれに応じて永正元(1504)年11月、越後守護代・長尾能景を大将とした大軍を武蔵国に送り込みます。北国で揉まれてきた越後上杉家の兵は非常に強く、この越後軍の応援が長享の乱の帰趨を決することになります。
     強力な味方を得た山内上杉顕定は、伊勢宗瑞・今川氏親が領国に帰っている今こそ好機とみて、扇谷軍に攻撃を加えました。
     永正元(1504)年11月1日。上戸(うわど:埼玉県川越市)で戦いが起こります。ここで扇谷上杉朝良は、山内・越後上杉軍を返り討ちにしました。山内家は家宰・長尾顕忠の弟である弥五郎(やごろう:?~1504)が戦死するほどの大敗を喫しました。
     しかし扇谷にとってこれが最後の勝利となりました。天才的な軍略家・長尾能景はすぐさま態勢を立て直し、ここから戦局を逆転させていくのです。

    この長尾能景というのは上杉謙信の祖父に当たります。なかなかの軍略家です。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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