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日本人の物語00174【飛鳥】山背大兄王の死

     さて、蘇我蝦夷・入鹿の父子は、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ:舒明天皇の長男:?~645)の即位を希望していました。というのも、古人大兄皇子の外祖父は蘇我馬子なのです。蘇我氏の息のかかった皇族を天皇に据えたいという露骨な要求ですね。
     ところがここに来て、にわかに厩戸皇子の子である山背大兄王の人気が高まり、蝦夷・入鹿は危機感を抱くようになります。
     皇極天皇2(643)年11月1日。蘇我入鹿は強硬手段に打って出ました。兵を集めて、斑鳩の山背大兄王宅を急襲したのです。
     このとき、山背大兄王に仕える奴隷の三成(みなり)という男が大活躍し、敵兵を食い止めている間に、山背大兄王は一族とともに生駒山に逃れました。
     山背大兄王の邸宅はおそらく法隆寺の近くだったと考えられますが、邸宅が焼き払われた一方、法隆寺は辛くも焼失を免れました。
     さて、入鹿はさらに生駒山(いこまやま)を攻撃します。このとき、山背大兄王方の兵たちが入鹿を騙すべく、馬の骨を残しておいたため、入鹿らは山背大兄王を殺したと誤認して立ち去りました。人の骨と馬の骨とを見間違えるとは、あまりにお粗末だと思います。
     入鹿らが立ち去った後、山背大兄王とその一族は、5日間飲まず食わずで潜伏を続けました。「食わず」はともかく「飲まず」は無理だと思います。日本書紀の記述は何かと大袈裟ですねえ。
     しかし、「山背大兄王はまだ生駒山にいる」と要らんことを入鹿に通報する者がありました。入鹿は戻ってきて生駒山を探索しますが、山背大兄王は法隆寺に逃げ込んでいたため発見できませんでした。
     このとき、山背大兄王の側近の三輪文屋(みわのふみや)は
    「一旦東国に落ちのびて、兵を集めて再度戦えば勝てます」
    と進言しました。しかし山背大兄王は、
    「勝てるだろうが、私一人のために民を戦で苦しめたくない。私は自らの身を入鹿に差し出すこととする」
    と述べ、戦闘を拒否しました。なんとも悲痛な決意ですね。「勝てるだろうが」というのは負け惜しみのようにも聞こえますが。
     こうして、山背大兄王とその一族は、斑鳩で首を吊りました。これにより、厩戸皇子の一族は滅亡してしまうのです。
     この一連の行動は、蘇我入鹿の独断によるものでした。父の蝦夷は入鹿の暴虐を聞き、
    「こんなことをしては我が身も危ないぞ」
    と激怒したといいます。入鹿はともかく、蝦夷はなかなか頭の良い男のようですね。
     何の罪もない山背大兄王を滅ぼしておきながら、入鹿には何らのお咎めもなかったようです。誰もが蘇我氏を怖がって口をつぐんだのでしょう。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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