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日本人の物語01225【南北朝最末期】明徳の乱 備後平定

    『明徳の乱』というタイトルの本が最近出版されたので、慌てて読みました。この連載で取り上げる前に出版してくれて良かったです。

     話は土岐康行の乱のさなかに遡ります。
     元中6/康応元(1389)年9月16日。義満は高野山への参詣に出発しました。和泉・紀伊を経由することで、反時義派に属する山名氏清(和泉守護)・義理(紀伊守護)兄弟への信頼を示した格好になります。このようなデモンストレーションを行われてしまうと、時義派に属する時熙・氏之としては面白くありません。
     反時義派は勢い付きました。その急先鋒は山名満幸です。満幸は良い機会とばかりに義満に近づき、
    「山名時熙・氏之は幕府への反逆を企てています。昨年の厳島参詣の折、時義は病を理由に同道しませんでしたが、氏之も時義の看病を理由に姿を見せず、時熙はやって来たもののすぐに帰国してしまいました。忠誠がない証拠です」
    などと対立派閥への讒言を行ったのです。
     義満にとって、この満幸の讒言は渡りに舟でした。元中7/明徳元(1390)年3月17日、突如として義満は、山名満幸・氏清(反時義派)に対して、山名時熙・氏之(時義派)を討伐するよう命じました。その理由は
    「去年病死した時義には、無礼のことが多数あったから」
    という意味不明なものでした。
     さらに義満は、時熙から備後守護職を取り上げ、細川頼之に与えました。讃岐に隠遁中だった頼之は、水を得た魚のごとく備後を攻撃し、これを平定しました。
     この備後平定戦によって満幸は伯耆・隠岐守護を、氏清は但馬守護を獲得しました。これにて山名家の領国は次のとおりとなりました。
    ・義理(反時義派)が美作・紀伊国守護
    ・氏清(反時義派)が丹波・和泉・但馬・山城国守護
    ・満幸(反時義派)が丹後・出雲・伯耆・隠岐国守護
    ・氏家(反時義派)が因幡国守護
     満幸が4ヶ国の守護となり、山名家の惣領に躍り出たのです。一方、時義派に属していた時熙・氏之は無職となってしまいました。
     これにて内紛を終えた山名家は安泰かに思われました。ところが備後を失ったとはいえ11ヶ国もの領地を有する有力守護・山名家を義満がそのまま放っておくわけがありません。得意の絶頂にあった満幸とその叔父・氏清はこの後思わぬ罠に陥れられ、義満の恐ろしさを知ることとなるのです。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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