メインコンテンツへスキップ
見出し画像

日本人の物語00278【平安前期】昌泰の変

     昌泰3(900)年11月21日。文章博士・三善清行(みよしのきよゆき:847~919)が道真に辞職を勧告する手紙を書き送りました。
    「あなたは学者の家の出でありながら、天皇の慈しみにより大臣まで上り、その栄達は吉備真備のほかに並ぶ者はいない。足を止めるべき場所を知り、職を辞したならば後世の人も仰ぎ見て尊ぶだろう」
    というのです。
     道真の出世栄達に反感を持っている官吏が多くおり、三善清行自身もその一人だったのでしょう。道真は頭がよく、理路整然としていますから、他の官吏を論破してしまうことが多く、敵を作りやすかったのかもしれません。
     それにしても、三善清行はなぜこんな嫌がらせのような手紙を書き送ったのでしょう。
     実は清行は若い頃、官吏登用試験に落第したことがあり、そのときの試験官が道真でした。一説には、その恨みが残っていたともいわれています。
     もちろん、この手紙によって道真が辞職することはありませんでした。
     昌泰4(901)年1月25日。いよいよ道真を本格的に排斥する動きが起こります。
     藤原時平が、
    ・藤原菅根(ふじわらのすがね:856~908)
    ・藤原定国(ふじわらのさだくに:866~906)
    ・源光(みなもとのひかる:845~913)
    らと結託し、醍醐天皇にこのように言上しました。
    「道真は宇多法皇を惑わし、天皇を廃して斉世親王(ときよしんのう:醍醐天皇の弟:886~927)を即位させようとしています」
     これを聞いた醍醐天皇は、すぐさま道真を大宰権帥に左遷させる決定を下しました。流罪ではなく、人事異動による左遷でした。もし噂が本当ならば流罪にすべきなのに、なぜ左遷なのでしょう。醍醐天皇も虚偽だと分かっていて道真を遠ざけたかったのでしょうか。
     左遷人事を聞いた宇多法皇(この頃出家して法皇となっていました)は、裸足のまま内裏に駆けつけ、醍醐天皇に面会を申し出ました。しかし蔵人頭・藤原菅根が
    「帝はどなたともお会いになりません」
    と言ってこれを阻止しました。宇多法皇は内裏の前で日暮れまで立ち尽くしたといわれています。
     藤原菅根は菅原道真の推挙で蔵人頭に上り詰めた人物なのに、恩を仇で返したことになります。
     この道真左遷事件を「昌泰の変」と呼びます。

    この記事が参加している募集

     
     
     
    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

    あなたへのおすすめ