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日本人の物語00192【飛鳥】39代弘文天皇

    「出家して隠居する」
    と述べた大海人皇子は、事実その日のうちに剃髪しました。そして天智天皇10(671)年10月19日、吉野山へ隠居するとして、さっそく妃の鵜野讃良皇女、子の草壁皇子(くさかべのみこ:662~689)を連れて近江を後にしました。
     鵜野讃良皇女は天智天皇の娘ですが、前述したように、幼いころ父のせいで母・遠智娘を亡くしているため、父には恨みを抱いていたと考えられます。夫を父の毒牙から守りたいという思いが強かったでしょう。
     大海人皇子が飛鳥を出発する際、これを見ていたある人が
    「虎を翼をつけて野に放つようなものだ」
    と述べたといいます。大海人皇子はいつか近江政府を滅ぼそうとするだろうと予言したのです。
     天智天皇は、配下の者たちを集めました。
     蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人ら5名が、仏の前で大友皇子への忠誠を誓わされました。しかし、忠誠を誓うという行為に一体どれほどの意味があるのでしょうか。
     知略の人たる天智天皇もまた、その最期を迎えるに当たっては判断力を失うものなのでしょう。
     天智天皇11(672)年12月3日。天智天皇は遂に崩御しました。その2日後、大友皇子が即位しました。弘文天皇です。
     この大友皇子の即位が史実かどうかは諸説あります。実は、公式歴史書たる日本書紀には即位した旨が書かれておらず、一方で平安時代の歴史書『扶桑略記(ふそうりゃくき)』などには即位したと書かれているのです。
     大友皇子が即位していたとすると、天武天皇が即位済みの現役天皇を殺害したこととなり、非常に都合の悪いことになります。そのため日本書紀では即位の事実を隠したものと考えられます。
     大友皇子については、明治3(1870)年に明治政府が「弘文天皇」の諡名(おくりな:天皇の崩御後に与えられる名)を付し、初めて歴代天皇に数えられるようになりました。それまでは、天智天皇の次が天武天皇とされていたわけですね。
     さて、近江では天智天皇の後を継いで弘文天皇が即位したわけですが、一方、吉野山には大海人皇子が隠居しています。近江政府にとってこれは大きなリスク要因です。吉野山という地理的要因もまた、弘文天皇にとって心配だったでしょう。というのも、この時代はまだ天智天皇が近江に遷都してから間がなく、近江遷都に不満を持つ豪族たちが未だ飛鳥に住んでいました。そして吉野山は飛鳥のすぐ近くです。近江政府に不満を持つ者たちのすぐ近くに、大海人皇子がいるというわけです。
     いよいよ古代史上最大の内乱、壬申の乱が始まります。

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    ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。連載を始めて5年目。やっと16世紀に入ったところです。先は長いですが優しく見守って下さい。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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