
日本人の物語01701【戦国/東国/長享の乱】鈴岡小笠原家台頭
家長(いえなが)という名前の人物が登場しますが、当時は家長(かちょう)という日本語はなかったのでしょうか。何となく一般用語と同じ名前は避ける気がするのですが。でもよく考えたら現代にも英雄(ひでお)さんとかいますね。
伊勢盛時VS足利茶々丸の争いが気になるところですが、ここで諏方家の内紛と連動していた小笠原氏の内紛に話を戻します。まとめると
・府中小笠原長朝(諏訪大社下社と同盟)
・松尾小笠原光康(諏訪大社上社と同盟)
・鈴岡小笠原政秀
の三家に分裂していたのでしたね。
松尾城ではその後、世代交代がありました。
・文明18(1486)年5月3日に光康が死去し、子の家長(いえなが:?~1490?)が継ぐ
・延徳2(1490)年10月15日に家長が死去し、子の定基(さだもと:?~1511)が継ぐ
なお、家長は文明12(1480)年の時点で内紛により政秀に殺害されたとの説もありますが、それ以降に存命しているとの説もあり、よく分かっていません。
世代交代の最中にも、3家の争いはまだまだ続きます。長享2(1488)年、鈴岡城主・政秀は松尾城主・定基を出し抜いて敵を殲滅しようと、府中の長朝を襲撃しました。長朝の居城・府中井川館(長野県松本市)は陥落し、長朝は牧之島城(長野県長野市)へと敗走していきました。
戦いに勝った政秀は、小笠原家の本家嫡流の拠点である府中を制圧し、自らが信濃守護であると自称し始めたのですが、これは信濃国人衆たちから大きな反発を生みました。府中小笠原家はどうやら周辺の国人衆から大変人気があったらしく、鈴岡から突然やって来て家督を奪った政秀を誰も受け入れようとしなかったのです。
政秀は国人衆からの不人気を自覚し、やむなく一旦追放した長朝を呼び戻し、養子縁組を行いました。つまり長朝の養親となったのです。
もちろん、これは政秀が長朝から合法的に権益を奪うための手段でしかありませんでした。長朝は井川館に呼び戻されたものの、信濃守護職と家伝文書を政秀に奪われてしまいます。政秀には実子もいたようなので、家督を長朝に継がせる気もさらさらなかったでしょう。
政秀は積極果敢な人物だったのでしょうが、さすがにやり過ぎました。前述のとおり、文明12(1480)年には諏訪大祝・継満とつるむ高遠継宗を攻撃しておきながら、文明15(1483)年には追放される直前の諏訪大祝・継満を支援するなど、その行動にはどうも一貫性がありません。自身の利益のためには誰とでも組むような性格だったのでしょう。長朝との養子縁組も、対外的な見せ方をマイルドにするための工夫だったのでしょうが、多くの国人たちには真意を見抜かれていたのではないでしょうか。
当時の信濃国の中心地はやはり松本ですね。松本市VS長野市の主導権争いを描くのはまだまだ先(明治維新のところ)ですが。